金木犀の栞
本をめくるページの音だけが、耳に入る。
カウンターからも一番遠い一人用の学習スペースでは、自分の息遣いもやけに響く気がする。
夕暮れ時は、いつだって寂し気で、夜は優しく一人だってことを自覚させる。
冬に近づいて空が紺色へ染まっていく時間も早くなる。秋から冬になるこの季節の読書も捨てがたいけれど、冬は色んな音が溶け込んで一人きりになるから少しだけ苦手。
グランドの方に立っている木も葉が少なくなって、そろそろ図書館の中でもブランケットがいるようになるかもしれないなんて、本を読みながら考える。
精一杯の気持ちを込めた少女の告白シーンに、目をそらす少年の葛藤と罪悪感。
夏の終わりはいつだって終わりを突き付けてくる。そんな少女の気持ちに自分を重ねてしまう。
この本みたいに先に結末が決まっているわけでもない現実のこと。あの時、少し違えば今と違っていたのかもしれないなんてそんな不安。
少年少女の無鉄砲な思考も過ちも若さの象徴なんて、どこかの誰かは言うけれど、できればそんな思いは誰もしたくない。
好きになる苦しさも、嫌われる悲しさも、できれば何度も味わいたくはない。
そう、思ってしまうのだ。
「桜、帰ろ。その本はいつも通り借りる?」
気もそぞろになっていた読書に意識を向け直そうとすると、後ろから低くてよく通る声が降ってくる。
本に栞を挟んで振り返れば、いつもみたいに眼鏡の奥で優しそうな眼をした橙真がいた。
彼と付き合ってそろそろ一年になる。付き合い始めた日も思えばこんな風に秋と冬の合間、寒さが目立ち始めたようなそんな季節だった。
最初は鋭くきつく見えた目つきも、いつの間にか優しく感じる自分がいて、その優しさや気遣いに落ち着きを感じている。
図書委員が最後の片付けをする前に、できるだけ帰るようにしてるけど、いつも橙真の時だけは、ついつい最終下刻まで、本を読むんでしまう。悪いなぁと思いつつも、読書はやめられない。
「ううん、持ち込みだから大丈夫だよ。何か手伝う事ある?」
机上のライトを消して、足元から引き揚げた鞄へ本を仕舞って立ち上がる。
「大丈夫。もう全部終わらせたから。寒くなって来てるし鍵返して早く帰ろ」
でも、急がなくっていいからなんて言いつつゆっくりと歩きだす背を追って、薄暗くなった部屋に窓枠が影を差す二階の学習スペースから抜け出した。
学校から最寄りの駅まで歩いて15分。朝はあんなに遠く感じるのに、帰りはすぐについてしまって物足りない。そんな微妙な距離。
黄色に染められたアスファルトを踏みしめながら、手を繋いで帰れば、わき道から吹いてくる木枯らしが頬をなでて通り過ぎる。
「もうずいぶんと寒くなったねぇ...。冬って感じだね」
「ああ。そろそろコートとかマフラーも必要になるかも」
赤味がかった高い鼻が寒そうにひくりと動く。
「桜もすぐ風邪ひきやすいんだから明日から冬装備がいいかもね」なんて言いながら、彼がはにかむ。
普段周りからも目つきが悪いなんて言われているけれど、こうやって笑う彼の顔は幼くて年下なんだなぁ、って気づかせてくれる。
少し照れくさそうに八の字に歪む眉も、鋭いけれど、優しく見てくれるそのまなざしが好き。当たり前のように差し出してくれる私よりも一回り大きい彼の暖かい手が嬉しくて自分の顔もゆるりと解けて、笑顔になる。
最近面白かった本の話、クリスマスだとか、その前に定期テストがあるから勉強しなきゃなんて話し合ってれば、目の前に最寄りの駅が見えてくる。
電車通学の私に合わせて橙真はいつも少しだけ遠回りして帰っている。それを知ったのは少し前で。初めて家に呼ばれた時のこと。庭に大きな金木犀の花が咲いていたのをよく覚えてる。
次の電車が来るまでの間、いつも自販機で買う飲み物を飲みながら、改札口近くのベンチで身を寄せて話す。
AOで受かった私は受験特有の緊張感からも解放されているが、来年受験の彼は進路をどうしようかなんて言いながら唸っているのを横目で見つつレモネードに口を付ける。
悩んでる橙真に「文系科目ならお任せあれ」と胸を張って話しかければ「桜は国英だけでしょ」なんて言い合いをする。
こんな話をしていてもやっぱり将来は不安になる。本のように結末があって先に知ることも、確定しているわけでもなくて、それが恐ろしく感じる日もある。
卒業した後も、こんな風に笑いあえるだろうか。来年もその後もこうやって隣で笑いあえるか不安になってしまう。誰にも渡したくないなんて考えて、会話が途切れる。
「どうかした?」
「ううん。なんでもないよ」
「そっか。無理しないで何かあったら言って」
いつも一定以上踏み込んでこない彼の優しさはありがたい。でも、こういう時は恨めしくなる。あぁ、だめだ。今日はちょっと気持ちがグラグラしてる。
いつもより感情移入してしまうような主人公だったから。レモネードを飲んで落ち着こうとしてみても、少し時間がかかった。
視線を感じて彼の方へ向き直せば、彼はいつも飲んでるブラックコーヒーを一口飲んでから、
「あと、卒業式終わったらどっか旅行にでもいこっか。前から行きたいって言ってた東北の方の図書館とか。二人で」
彼がこっちを見ながら微笑んでくれるから、子供みたいに「うん、行く」なんて言いながらまた笑いあった。
ホームに電車到着のアナウンスが流れて、改札へ向かう。人の多い改札を抜けてまた明日って言いあって別れて、少し歩いて振り返ると、まだそこに彼は居てこっちを見て手を振ってくれた。
何でもないこういうことをしてくれるから、また好きになって、もっと居たいと思ってしまうのだ。「また明日ね」って言って、今度は振り返らずに3番線のホームへ歩いていく。
未来はいつも未知に満ちている。それでも、未来は今の延長線上。