第一話
新学期の朝は、荷物が重たい。
おそらくひとによっては、憂鬱だとかそわそわするとか、その気分はさまざまなのだろうが、郁にとってはとりたてて特別な日だという認識はなく、ただ手にした鞄の重量に辟易とするくらいのものだ。
それでも、慣れ親しんだクラスメイトの顔を見るのは、ちょっとした目新しさも混じり、おのずと笑顔があふれだす。
「郁!」
教室に入るなり、ぶんぶんとはしゃいで手を振り回す友人に出くわしたなら、一発だ。
受け入れられているという安心感が、じわじわにじむ。
「おはよう、菜々」
佐倉 菜々は、そんな友人の代表格で、腹芸とは無縁の軽薄な人物でありながら、なぜか郁には好意を寄せる。
メールのやりとりの半分は、彼女とのものだ。
恋愛とファッションに目のない娘で、郁とはまるで価値観が合わないというのに、気づけばいつも一緒にいる。
「風邪だいじょうぶ? 夏風邪ってやぁよね、んであと、髪も切ったんだ! やぁん、かわいいー!」
「ありがとう。変……じゃないかな」
このごろは自分の外見を見失いがちな郁である。
「似合うよ! めちゃくちゃ! 惚れ直すよ」
「そう?」
菜々との会話は雰囲気が重視される。「誰が?」などと、無用な突っ込みは必要ない。
「暑かったもんね、だから切ったの? 短いの意外と似合うね。うらやましいなー。あたしはさ、猫っ毛だから短いとぼわってなっちゃうのよね」
机に鞄を置くと、どすっと見事な音がする。
郁の席は窓際で、菜々はその斜め前の座席だ。
互いに荷物を片づけながら、会話は進む。
「あっ、でもさー。短いとヘアアレンジが限定されちゃうじゃない。ね、ね、ヘアピン買いに行かない? んっと、今日とか。補習の帰りにさ、どっか寄っていこうよ」
「いいよ」
「はーい、決まりね。ねえ、でもどうして初日から補習なんてやるんだろうね。やんなっちゃうよ。昨日まで宿題にかかりきりになってたっていうのに、今日から容赦なく通常営業なんておかしいよねぇ」
「まあね、先生も張り切りすぎだね」
郁は、物事のスイッチは明確にオンオフを切り替えたいタイプなので異存はないが、スタートはゆるやかにきりたいという人も多いだろう。
「せめて今日は宿題、少なめにしてくれるといいなー。めげちゃいそう」
放課後の補習授業と、決まって毎日各授業ごとに出される課題のおかげで、個別に予備校等に通う必要がなくてすんでいるのだが、教師ごとの連携がとれていないのか、日によっては課題も膨大な量になる。
初日からそれはたしかに……と、郁でも思う。
「今日も野球部やブラスバンドなんかは朝練あったんだって。頑張るよね」
「部活は長期休みの間こそ本番って部分もあるものね」
「そうそう。陸上部もけっこういい数字出したらしいよ。西野なんか速いもんね」
「ああ、そうだね。西野くん」
クラスの陸上部員、西野 孝は足が速い。それはもう、うらやましくなるほど速い。
大会での成績などに興味はないが、――つけ加えるなら、彼自身にも興味はないが、あの駆けっぷりのよさだけは格別なものだ。
体育の授業でも、西野がトラックに出ていると自然と目が引き寄せられるし、気持ちの良い足運びには感動すら覚える。
「はー。なぁんかいいことないかなあ。芸能人の転校生が来るとかさ、とびっきりかっこいい新任の先生が来るとか。いいよねー」
「そう?」
むしろそういう浮ついた変化があるのは好ましくないと感じるのだが。
「もうっ。郁はドライだなー。ときめくじゃない、そういうの。日々に華やぎが欲しいのよ」
「そういうものかな」
菜々は彼女の存在自体が十分に華やいでいるように見えるのだが、何が足りないと主張しているのか、いつもよくわからない。
「あー、彼氏ほしいなー。西野つきあってくれないかなあ」
「好きなの?」
「んー、そこそこ。ちょっといいかなって思うくらい」
「ふうん」
菜々はけっこう移り気だ。夏休み前は、サッカー部員に熱をあげていた。
「まあがんばって」
「郁は?」
「何が?」
「誰かいないの? 好きな人つくってよ。ときめく会話がしたいよう」
「いないよそんなの。無茶いわないで」
「あーあ、おかたいんだから」
ふくれる頬がやわらかそうだ。
「やっぱりかっこいい転入生に期待するしかないかなぁ」
しかしそんな菜々の要望は叶えられることはなく、朝のホームルームで転校生は現れなかった。
「前列の人たちは、職員室の私の机まで課題を分担して運んでね。あと、十和田と西野はちょっと職員室に来てちょうだい」
担任の戸山先生が、ホームルームの終わりにこう述べた。
先生は休み前となんら変わるところがない。
話口調はきびきびとして、胸元にはひとつぶダイヤのネックレスが飾られている。
郁と西野が呼ばれるのも、いつものことだ。
郁はクラス委員長で、西野は副委員長をつとめている。
もっとも、郁が推薦で決まったのに対し、西野はじゃんけんで負けたせいでしぶしぶ行っているのだが、委員など誰がやっても大差はない。
郁のクラスは文系で、クラスメイトは女子の割合が高い。
そのせいか、男子全員参加のじゃんけんも、あっという間にカタがついたのを覚えている。
郁と西野は大人しく、そして一言も口をきかずに先生の後につづいた。
仲が悪いわけではないはずだが、用もないのに交わす言葉を持ってはいない。
職員室につくと、戸山はふたりにプリントを手渡した。
「休み明け早々で悪いのだけど、八月の終わりに球技大会があるの。日程と種目はこの通りね。今週中にチーム分けをしないといけなくて、先延ばしにする必要もないから、今日の帰りのホームルームでメンバーを決めてしまってくれない?」
郁は手元の用紙に目を走らせた。
バレーボール、ソフトボール、バスケット、テニスに卓球といった競技が並ぶ。
屋内競技がメインで、なぜか毎年サッカーはない。
「俺、バスケにしよう」
西野がひとりごちるのが聞こえた。
「面倒だから、さっさと決めちゃおうぜ。俺、教室戻ったら種目発表しとくから。みんなには考えておいてもらって、んで、十和田は後で決めるとき、司会頼むわ」
「わかった。いいよ」
「本番に向けての練習時間はとれないから、チームごとに相談して、休み時間なんかを利用してやってね。男子は人数が足りないでしょう。時間帯を確認してかけもちをしても構わないけど、例年団体競技のどれかひとつをパスすることが多いわね。そのへんの采配も任せるから」
「はいよ」
「わかりました」
球技大会が八月の末にあるというのは、体育の日の前倒しだ。
秋休みが終わると文化祭があり、少しでも余裕のあるうちに済ませておこうという方針である。
「そんじゃあ失礼します」
とっとと話を切り上げて、西野が背を向ける。
ちらっと先生の机を見ると、クラスの皆も仕事がはやく、いつの間にかプリントが山と置かれていた。
一限目まで間もないので、郁も一礼して退室する。
タイムスケジュールを確認して、かけもちが可能な競技をリストアップしておかないといけない。
(あと、効率よく応援に回れる順番も考えておかないと)
菜々にはよく、そこまですることないのにと諭されるが、たいした手間ではないのだし、出来ることを放置しておくのは好きではない。
ホームルームの時間は限られているのだし、その前にある程度のディスカッションは必要だろう。
あれこれ手順を考えながら、教室に向かう。
段取りとか下準備とかいう言葉が、郁はことのほか好きだった。
昼休みにはチーム分けもあるていど目星がついて、談合の善し悪しについて思考を巡らせる郁の元に、田崎 沙也がやってきた。
沙也とは昼食を一緒にとる仲だ。
大人びた才媛で、郁がもっとも気楽につきあえるのが、この沙也である。
直線的なボブスタイルが甘さを感じさせず、率直な物言いがその印象に拍車をかける。
菜々とは違い、友情にもべたべたした間柄を持ち込ませない。
余計なことは口走らないのに、意見を求めると言動には遠慮がなくて、直裁な発言にははらはらさせられることも多いのがまたスリリングである。
「今日はサンドイッチを買ってきたの」
久しぶりの挨拶もなく、前の座席に沙也が座る。
クラスは同じだが、彼女の席は最前列の廊下側のため、言葉を交わすのは今日はこれが初めてだ。
「髪型、悪くないわね」
「そうかな、ありがとう」
「印象が少し変わるわ。それとも、夏休み中に何かあった?」
「いいえ、どうして?」
「なんとなく。夏休みは長いもの」
こうして淡々と言葉をつむぐ声を聞くのも幾日ぶりだろう。彼女の言うことはいつも正しい。
「そう。長いね。沙也はどうしていたの? お勉強?」
おにぎりと、夕べのおかずをつめたランチボックスを広げながら問いかけると、彼女は表情をちらとも変えずにこたえた。
「恋愛の真似事をして、失恋したわ。一ヶ月だけ、大学生とつきあってたの」
「――うえ?」
うわずった、おかしな声がでた。
「私ね、年上が好きなのよ。意中の人にはふり向いてもらえないし、ちょうどいいと思ったのだけど。やはり間に合わせじゃだめね。続かなかったわ」
「え、うわ、ええ?」
「愚かだったと認めるわ。とんだ時間の無駄だった」
(うそぉ)
衝撃のあまり、言葉が出ない。
「どうしたのよ、おかしな顔をして。口を開けたままでいると、間抜けに見えるわよ」
「あ、うん。――えええ」
(びっくりしたあ)
背中を正体不明の汗がながれる。
「そ、その、どうして別れたの」
「とりまく環境が違うし、見ているものも違う。なにかにつけて私を子ども扱いするのも嫌だったし、身体の関係をせまられるのも迷惑だったわ」
「……はあ」
(ああちがう、そうじゃなくて)
「どうして付き合おうと?」
「言ったでしょう、好きな人がいるのよ。少し似てると思ったの。代替物をストレスの捌け口にしようとしたのね」
「そんな身も蓋もないことを」
「事実だもの」
悪びれた様子もないのはあっぱれである。
「だから私、高校生の間は自身を律して、真面目に生きることにしたわ。どのみち欲しいものは手に入らないのだし、それなら時間は有意義に使わなきゃ」
「そう。いろいろあったんだね」
衝撃が抜けきらず、ろくな言葉が出てこない。
これで菜々が相手なら、もっとたしなめる言葉をかけただろうに、沙也が相手だとこちらが翻弄されてばかりとなる。
「ええと、あまり無理はしないで、相談があるときには声をかけてね」
「ええ、そうするわ」
鷹揚に沙也はうなずく。
「郁も、軽い気持ちで色恋沙汰に首を突っ込むのはよしたほうがいいわ。くたびれるもの。――とは言っても、ままならぬのが世の常だし、経験してみなければわからないこともあるわよね。難しいわ」
「うんまあ、そうかもね」
思わぬ人から思わぬことを打ち明けられて、めまいがしそうだ。
「大丈夫。私も恋愛はしばらく遠慮したい気分だから」
だからつい、愚にもつかないことを口走ってしまった。
「あら」
耳ざとく、沙也が発言を聞きとがめる。
「やはり何かあったんでしょう。普段のあなたならそんなこと言わないもの」
「う――」
(やってしまった)
ぎこちなく目をそらす。
「ごめん。今のなしで」
「そう。おおっぴらにできないような後ろめたい経験をしたの? それとも、他人のプライバシーに関わることなのかしら。どうでもいいわ、独り言よ。聞かなかったことにしてあげる」
「ごめん、ありがと」
隠しおおせない隠し事ほど感じの悪いものはない。
(ああ、反省)
今更あたりさわりのない部分だけを話すのも往生際が悪いというものだ。
ここはきっぱり口をつぐむことにして、割り切りの上手な彼女にならおう。
「秋は行事が多いから慌ただしいね。きっとすぐに卒業を迎えちゃうんだろうな」
「球技大会でしょう。そのあとは期末テストがあるし、秋休みをはさんで文化祭。そうね、いろいろあるわ。郁は自分で何でも抱え込まないようにしたほうがいいわよ。雑用は周囲に割り振りなさいな」
「大丈夫だよ」
軽い気持ちでこたえると、沙也はうっすら眉を寄せた。
「わるいけど私、安易にそういう返事をする人って信用できないのよね」
(う……)
「誤解しないで、責めてるんじゃないのよ。気を揉んでるの」
それはおそらく、彼女なりの優しさだ。
同時にそれだけ、郁が頼りなく見えるということだろうか。
「うん。気をつける」
今度は神妙に、郁はこくりとうなずいた。