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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第一章 : 映画には主題歌がある
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第八話

 大人の階段のひとつであるのだろうか。

 IDをかざして、郁は思う。

 わずかに緊張してしまうのも、そんな内心を押し隠してしまうのも、通過儀礼のうちかもしれない。


 いわゆるラブホテルにチェックインして、――事に及ぶつもりがないとはいえ、若干の後ろめたさが胸をひたす。

(うわあ)

 ものめずらしげにフロントを観察してしまう。

(初めてだあ)


 現実のこととは思えない。

 なぜこんなところに足を踏み入れたのか、この居心地の悪さは何なのかと、疑念がわきおこる。

 だが、つないだ手の感触はどんな雑念よりもリアルで、とまどいはしても後悔をする余地はなかった。

「おいで、こっち」

 うながされて歩き出す。


 カーペットに覆われた床は、足音がしない。

 エレベーターはなんと二人用で、恐ろしいことに床が鏡になっている。

「う、わ。すご」

 思わずこぼすと、香奈がふきだし、同意した。

「これはひどいね」

 この日の香奈は膝下丈のデニムで、郁はその選択に感謝の念をいだいた。

(大人ってこわい)

 スペースが狭いのも、ひとを息苦しくさせる。


 三階についたときにはほっとした。

 廊下が薄暗かろうと、内装がゴシック調だろうと、意に介さないほどにだ。

(しかし)

 一応男性の身体を有している郁のほうが緊張しているように見えるのは、どういうわけか。

(危機感を抱くべきなのは、香奈さんのほうでは?)

 ポーカーフェイスが上手いのだろうか。

(それとも私がよほど子どもなのか、だ)


 ぐるぐると不毛な考えを巡らすうちに、部屋につく。

 解錠すると、電子音と共にドアは開いた。

 手前から次々と足元灯がついていくのは、どこかアトラクションを思わせる気の利きようだ。

「水族館みたい」

 壁がぼうっと青く光って、色とりどりの魚影がはしる。

 靴を脱いで、スリッパにはきかえてから壁に触れると、映像をながしているだけの普通の壁面だとわかる。


 青い光がおどる部屋に、竜宮城を模したとおぼしきベッドが鎮座し、手前には広々としたテーブルセットが置いてある。

(あとなぜか、……ポール)

 コーナーに、金属の棒が一本、天井から床までを貫いて立っていた。

(何に使うの)

 小学校の体育でやって以来だが、登ってみれば良いのだろうか。

(謎だわ)


 薄い紗のスクリーンが垂れた向こうは、浴室だ。

 覗いてみると、やけに広い。

「ええー」

 思わずこぼしたのは、洗い場になぜかブランコがぶら下がっていたせいだ。

「意味が……不明だ」

 いつかわかる日がくるのだろうか。

 頭をかかえる郁をよそに、香奈はいくつか設備をあらため、ポットのスイッチを入れている。


「お茶をいれるね。紅茶でいい?」

「はいっ、いいです」

 やけにアメニティが充実している洗面所で手を洗って、ソファに座る。

 テーブルの向こうの壁面に大きなディスプレイが設置されているが、――嫌な予感がしたので電源は入れなかった。

 そもそも、香奈とふたりで夜通し会話をするのに、映像などは不要である。

 低音量で流れるリラクゼーションミュージックだけで十分だ。


(落ち着いてるなぁ)

 てきぱきとティーセットを用意する香奈の姿は、よこしまな雰囲気など微塵も感じさせないなめらかさで、郁はほっと息をつく。

(見習って、私も落ち着いていればいいんだよね)

 そうして名残を惜しめば良いのだ。


「クッキーをみつけた」

 テーブルにお茶菓子と紅茶が運ばれ、湯気がのぼる。

「ありがとう」

「熱いよ」

 左隣に香奈が座る。


 距離の近さにどきっとするのは、意識のしすぎだろうか。

 ともすれば、肩が触れてしまうほどの距離だ。

(かといって、あまり離れたところに座られても悲しくなりそうだし、難しいな)

 落ち着けと、自分にくり返し言い聞かせる。


「いただきます」

 ふうふう息を吹きかけて紅茶をすすると、香気とさわやかな渋みが口の中にひろがった。

「おいしい。お茶いれるの上手いんだね」

「そう? ティーバッグだけど」

「おいしいよ」

 この年で、所作が美しいだけでたいしたものなのに、お茶まで上手にいれられるなんて、同じ高校生とは思われない。


「感心しちゃう。オレも見習わないと」

 元の身体に戻ったら、おいしい紅茶のいれかたを学ぶことにしよう。

 郁の生活はわりと実用一辺倒で、規律正しいことと品行方正であることを重視しすぎて、あまり居心地のよさなどは気にかけたことがなかった。


「おいしいお茶がいれられたらいいよね」

(そうしたら、お父さん、喜ぶかなあ)

「休みの日の朝とかさ。おいしいお茶があったら、家族もしあわせになれそう」

 過ごす時間は長くなくとも、たったひとりの家族であり、父親だ。

 いろいろ思うところはあるが、大切にしたい気持ちに嘘はない。


「本当にそう思う――?」

 いくぶん冷ややかな声音に視線を上げると、皮肉げな笑みを浮かべる香奈がこちらを見ていた。

 深い色の瞳に浮かぶ色がとらえきれずに、ただ見つめ返すと、彼女はゆるくかぶりを振って目をそらす。

「時間を計っていれることと、あとはあらかじめカップを温めておくことかな。蒸らしている間はフタをしてね。緑茶と違って、熱いお湯を使うといいよ」


「そうなの。やってみるよ、ぜひとも」

「茶葉によって蒸らす時間は違うけど、パッケージに書いてあると思うから」

「ありがとう、見てみる」

「家族団欒に一役かえるといいね」

 その言葉に、含むところはなさそうだった。


「ありがとう。――うちは、父親と二人暮らしなんだけどさ、出張の多い人だから、たまに安らぐ時間があったらいいんじゃないかと思うんだ」

「優しいんだね。お父さんは幸せ者だ」

「そう思ってもらえたらいいけど」

(そのために、努力するのが習い性になっている部分もあるけれど)

 息苦しさを覚えるほどにだ。

 しかしその衝動的な逃避の果てに、こうして香奈と出会えたのだから、人生はどう転ぶかわからないものである。


「クッキーもおいしいよ」

 香奈に手渡された包みをひらいて、お菓子をほおばる。

 するとその様子を見ていた香奈が、ふっと微笑んで手を伸ばした。

「口の端についてるよ」

 親指の腹が、唇をぬぐう。


 影がさしたように、視界が暗くなる。

「香――」

 名を呼ぶより先に、せまる彼女に唇をふさがれた。

(は……?)

 視界が狭くて、頬に手のひらの感触があって、――キスをしているのだと気づくのに数瞬かかった。


(うそ。うっそ、なんで!)

 仰天したが、動揺をおもてに出したら嫌がっていると思われそうで、動けなかった。

(う)

 腕がざわざわして、すぐに香奈が触れるとそこがざわつくのだと気がついた。

(ひええ)

 かたまる郁に、のしかかってくる身体がある。

 うすく開いた唇を、ぬめる舌先がたどり、激しいめまいを郁は感じた。


(香奈さん……)

 嫌ではなかった。

 まともに物が考えられなかった。

 唇が離れて、間近で目にする彼女の瞳はとても澄んだ色をしていて、郁は陶然となった。


「香奈さんは、……あったかいね」

 やわらかくて温かい。

 それはとても良いことのように、郁には受け止められたのだ。






 始発にあわせて外にでると、外の空気は白々しさをはらんで郁を迎えた。

 並んで歩く香奈の表情は読めなくて、彼女の思考を探りたいと思いはするが、深く考えるのはやめにした。


 そこはかとない緊張感と、表面をとりつくろっているこの感覚は独特だ。

 あまり心地のよいものではないが、それ以上にひしひしと、これで終わるのだという思いが強くのしかかる。

 駅はもう目の前で、人気のまばらな光景も、夢の後のようなそっけなさを感じさせる。


(本当にもう終わるんだ)

 今日の昼には、幻となる。

 横目で香奈を見つめると、彼女はきれいに微笑んだ。

 郁もならって笑顔を向けるが、顔は少し赤くなってしまったかもしれない。

 無言のままホームに向かい、分かれ道で足をとめた。

 ふたりの乗る路線は違う。お別れだ。


 ホテルにいる間、とてもたくさんのことをあれこれ話した。

 とりとめのない会話が多かったけれど、彼女の声も表情も、心に残った。

 別れはさして辛くはない。

 区切りはついたと、納得したのかもしれない。


「郁」

 こうして名前を呼んでもらうのもおしまいとは、おかしなものだ。

「ありがとう、香奈さん。元気でね」

 そっけのない言葉しか出てこない。

「郁も」

 味気のなさは香奈のほうが上で、そんな言葉の少なさすらも、この場には似つかわしく思える。

「じゃあね」


 軽く手を振り、背を向ける。

 振り返るのは女々しい気がして、そのまま彼女が視界に入らない場所まで歩を進めた。

 心は静かで、感慨深さにとらわれることもない。


 ――やがてホームにはアナウンスが流れ、ほのかに慌ただしい気配とともに、一日が始まっていく。

 轟々と車両の走る音がする。

 風圧に髪が踊り、視界をさえぎる。

 地下鉄というのは、けたたましい。


 乗り込んだ車内はさすがに人が少なくて、座席も大半が空いている。

 車両のドアの脇にとりつけられた鏡を何気なく見やる。

 そこに映る自分の姿は、相も変わらず、見知らぬ他人のようだった――。


 一度帰宅し、計測と支度を終えて、郁はふたたび日月製薬のラボに向かった。

 診察を受けてポットに入るのも、二度目ともなればどうということもない。


 数時間の時を経て、郁は『十和田 郁』に戻った。

 高校三年、進学校のクラス委員をつとめる、生真面目でつまらない優等生だ。

 また同じ枠に戻って、同じ生活を繰り返す。


「こんな顔をしていたっけ」

 見慣れたはずの自分の顔も、髪の色が異なるままだとおかしく見える。

(早く戻さないと)

 学校が始まるまで、もう間もない。


(似合わないな)

 思い出は思い出として完結させたい。

 この一週間を切り離すためにも、午後のうちに黒髪へと戻すつもりだ。

(なんか……)

 胸をひたすのは、喪失感だろうか。

 何かを惜しんでいるわけではないだろうに、ここに来てひしひしと押し寄せるものがある。


「結局、何も変わらなかったのかな」

 今の自分とは異なるものになりたくてあがく。

 大人になれば、道が開けるのではないかと期待をしている。

 一時逃避をしてみても、誰かと出会い、交差してみても、それだけで見通しがよくなるほど、枷はゆるくはない。


 こころもちでも、大人になった気などしない。

 後悔はしていない。

 恥ずかしさはある。いろいろと失敗もしてしまった。

 圧倒的な感謝の念もある。

 一週間、短いけれど、充実していた。

 ずきずき胸が痛かった。

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