表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第一章 : 映画には主題歌がある
7/35

第七話

 目を覚ますと、日の出にはまだ時間があることがわかった。

 しんと静まり、停滞した空気がたゆたう室内に、薄明かりが差している。


(今日が最後だ)

 明日の午前中に、ラボの予約をとってある。

 この身体とも香奈とも別れて、郁は本来の自分に戻る。

(香奈さん……)

 最後にお礼の気持ちを伝えようと、郁はベッドから起きだした。


 窓を開けると、すっとさわやかな空気が室内に滑り込む。

 『春はあけぼの』とはいうが、明け方は季節を問わずにすばらしいものだ。

 顔を洗って水を飲み、机に向かう。

 早朝の学習は習慣と化している。

 どうしても気が乗らないときは、自転車をこぎに外へ出ることもあるが、大抵の場合は朝が一番集中できるし、効率も良い。


 この身体にもずいぶん慣れた。女性のままでは得られなかった知識も増えた。

 日々の計測でも、体調は安定しているようで、一切のトラブルはない。

(明日を過ぎれば、偽りは幻になるんだ)

 逃避も過ぎれば毒となる。

 よい思い出となるよう努力して、継続してこれを記憶しておくくらいしか、郁にできることはない。


(できれば香奈さんにも覚えていてほしいけど)

 ほんの数日を過ごしただけで、ずいぶんと親しみを感じる存在になった。

 不思議とこれでお別れだという実感がわかないのは、交換したトンボ玉が手元にあるためかもしれない。

 どのみちけじめはつけないとならない。

 終わりよければすべてよし。そうあってほしいものである。






 香奈とは午後に大通駅で待ち合わせをした。

 甘味処の集まる商業施設でケーキを食べて、大通公園をふらふら歩いた。

 連日夕刻には盆踊りが開催されているようで、ビアガーデンの区画の隣に、大きなやぐらが組まれている。


「提灯がきれいだね」

 そう口を開く香奈の目元が色っぽく見えるのは、ぽつんと乗っかる小さなほくろのせいだけではないはずだ。

「座ろうか」

 数あるベンチのひとつを指して腰かける。


 日頃からくつろぐ街の人や観光客でにぎわうこの公園も、今日は人出もことさらで、浴衣姿もたびたび目につく。

 とうもろこしの屋台と、噴水と鳩。それに芝生と花壇と彫像。

 そんないつもの光景に、祭りの気配が華を添えていた。


「灯りはオレンジ色が一番好きなの」

 香奈が言う。

「ほら、温かい印象があるじゃない。ただ照らすだけじゃないというか」

「ああ、そうだね。優しい色だってオレも思うよ」

「より家庭的な光になるよね。受け入れられているような気がする」

「きれいだよね」

「うん、きれい」


 やぐらから四方へ向けて伸びる提灯に灯りがともり、やわらかな光がにじんでいる。

 まだ陽は落ちていないものの、もう少し暗くなれば美しさも存在感を増すだろう。

 浮き足だった喧騒が心地よい。そう感じられるのは、あるいはひとりではないせいかもしれない。


「夏も終わりだね」

「そうだね、郁は……」

「うん?」

「明日、帰るんでしょう。淋しい? それとも、ほっとしてる?」


「両方かな。いや、ほっとはしてないかも。どっちかっていうと、緊張してる。また気を引き締めて頑張らないとなって。――淋しいのは、香奈さんに会えなくなることだけが淋しいよ。ほらオレ、香奈さん好きだからさ」

「……ありがとう」

 おだやかに目を細める眼差しが、なぜか悲しげに見えて、胸がさわいだ。


「迷惑をかけたかもしれないけど、一緒に過ごせて感謝してるんだ。香奈さんのおかげで、いい夏になった」

「私も郁といられてよかったよ。お互いさまだね」

「本当? だったらいいけど」

「もちろん本当。いつもとは全然違う夏休みだった」

「オレも」


 顔を見合わせて、ほほえみを交わす。

 ただそれだけのことが、鮮明だった。

 しばらくそのまま、道行く人や、一番星がまたたきはじめた空を見上げて話をした。

 盆踊りが始まると人も増えて、辺りはかなりにぎやかさを増した。


「ね、ごはん食べに行こうか」

 香奈が、おいしいピザ屋があるというので、札幌駅まで地上を歩く。

「冬は地下がいいけど、夏は上を歩くほうが楽しいよね」

 そんな言葉を交わしながら向かった先で食べたピザは、なるほど非常に美味だった。

「チーズでお腹いっぱい!」

 お腹をさする郁に、香奈が上を指さす。


「寄っていかない?」

「どこ?」

「JRタワー。展望台があるの」

「あ、知ってる。行ったことないや、そういえば」

「行こう」

「うん!」


 駅の構内をくねくねと歩き、目当ての場所のエレベーター前までやってくる。

「意外と人、いないんだ?」

「すいているのがいいんだよ」

 人気の少ない通路を渡り、二人きりでエレベーターに乗り込む。


「高さはそれほどないんだけどね。街中だからきれいだよ」

「へえ。藻岩山の展望台なら行ったことあるんだけどね」

「アイス売ってるよね」

「おいしいね、じゃがいも味」

「じゃがいも味……は、食べたことないな」

「おいしいんだよ!」


 普通にコンビニでも売ってくれたら、どれほどいいだろうと思っているのだ。

「じゃがいもは定番!」

「夕張メロンでもハスカップでもなく?」

「そう。じゃがいも。欠かせないね」

「ふうん」


「……食べてみたいなと思ったでしょう」

 指でつつくと、香奈が肩をすくめる。

「まあね」

「だよねっ」

 今度行こう――と、言えないのがつらいところだ。


「着いたよ」

 エレベーターが止まり、ドアが開く。

 鼻歌まじりに降りた郁は、展望室に出て、息をのんだ。

「わあ……!」

(なんてきれい!)

 眼下に広がる光のつぶに、テンションが上がる。


「これはきれいだねえ」

「こっちは北側。南側はもっときれいだよ」

 香奈が街中だからと言っていたのはこういうことかと得心がいく。

 ビルの合間にある建物だから、夜景との距離が近いのだ。


「へえ、北側。うちのある方角だ。……あのへん、暗いね?」

「あそこは北大。競馬場もある」

 前方の一点を指さした。

 ごそっと灯りの乏しいエリアがあったのだが、そう教えられると納得だ。

 駅の北側に広がる国立大学の敷地は広い。


「なるほどね」

 この場には関係ないが、郁の志望校でもある。

(ふうん)

 来年の今頃は、あそこに通っているのかと思うと不思議な心地がする。

 もちろん、受かっていればの話なのだが、落ちることをあまり想定したことはない。


「面白いね。ひとつひとつの建物の形までくっきりわかる」

「でしょう」

 展望室は、ぐるりと四方がガラス張りになっていて、ところどころ窓に向けてソファやテーブルが配置してある。

 コーヒーをすすりながら本を読んでいるおじいさんもいて、いたってのどかな雰囲気だ。


「あ、ピアノ」

 コーナーを曲がったところに、なぜかピアノが置いてある。

「コンサートのある日もあるんだよ」

「ここで?」

「そう。ほら、ポスターがある」

「おお」

 何日か後の夜に、ここでヴァイオリンとピアノの演奏があるらしい。


「いいなぁ」

 来たいな、と思ったけれど、その頃は父が在宅しているので、到底無理だ。

(誘えば一緒に来てくれるかもしれないけど……)

 足を運べば、香奈を思い出すだろう。

 さして日を置かずに、二人で訪れた場所に足を運ぶのは抵抗がある。

(うん。生演奏がなくても、今夜は十分に素敵)


「一緒に行けたらよかったね」

 香奈がまるで気持ちを代弁するような発言をした。

「オレも。オレもそう思う」

 でも……、と思ってつけたした。

「今日連れてきてもらえただけでも嬉しいんだけどね」

「そっか」


「うん。ね、向こうも見に行こう。キラキラしてる」

「ああ、南側は明るいよね」

 南の繁華街に面した窓は、一面、電飾の海だった。

 まっすぐに伸びた道路に、ブレーキランプ。ビルの灯りに、広告のライト。

 ちかちか光って、人々の営みを感じさせる。


「ほら、あそこ。観覧車がある」

「ああ、ビルの屋上にあるってやつ。郁は乗ったことある?」

「ない。香奈さんは?」

「ないなあ」

「なかなかないよね」


「うん。知ってはいるけど」

「場所も場所だし。高校生には疎遠かなあ」

「そうかも」

 くだんの観覧車は、すすきのにある。

 繁華街ではあるが、未成年のうちはあまり縁のない場所ともいえる。


「十八にはなったばかり?」

 香奈が訊いた。

「そうだね、つい最近」

「成人しても、あまり大人になったっていう気はしないよね」


「学校もそのままだし、実際にはあまりね。気分は少し、……浮つくかな」

「そう? あまりそんな風には見えないけど」

「浮ついてるよ、十分。浮ついてるから、香奈さんにも会えたんだろうし」

「へえ」


「香奈さんは? 成人して何か変わった?」

「……IDの使い勝手が良くなったかな」

「ああ! それはある。いちいち確認のメッセージが出なくなった」

「今まであたりまえだと思ってたけど、制限されてたんだなと思ったな」

「時間帯の制限もなくなったし」

「今まで行けなかったところにも行けるようになった」


「たとえば?」

「う……ん、いろいろ?」

 香奈が気まずそうに目をそらすのを見て笑う。

「なにそれ」

「いろいろはいろいろだよ」

「そう。いろいろね」

「そう」

 わかってるじゃないかというように、香奈は重々しくうなずいた。


「――ああ、そうだ。オレ、香奈さんにはきちんとお礼を言わないといけない」

 ふと思い出して口を開く。

「お礼?」

「そう。今日まで毎日、つきあってくれてありがとう。おかげでとても充実した時間が過ごせた」

「よかった。私もだけどね」


「一緒にいるとね、息をするのがらくなんだ。会って日も浅いのに不思議だね。初対面だという気がしない」

「そう」

「うん。夏休みが終わるのは惜しくないけど、この時間が終わるのは惜しいな。もっとふたりでゆっくり話がしたかった」


「……する?」

「ん?」

「話。ふたりで。時間、まだ帰らなくていいなら、だけど」

 時刻を確認すると、午後の十時をまわったところだ。

 夏期講習でもないかぎり、学生はそろそろ帰宅すべき時間でもある。


「オレは、平気。明日は帰らなくちゃいけないからアレだけど、今日はね。何時になっても大丈夫だよ。……香奈さんは? もう遅いよ」

 帰宅をしても今はひとりだ。

 しかし彼女はそうはいかないのではないかといぶかしむ。


「うちは、……いいんだ。ああほら、夏休みだし、今日はたまたま平気なの。名残惜しいのは私も一緒だし、ね」

 小首をかしげて、香奈がこちらをひたと見つめた。

「行く? ふたりで話のできるところ」

「行くよ。どこ?」


 差し出された手を見つめる。

「更新されたIDでないと入れないところだよ」

「そっか」


 郁は手指の長いその手をとった。

 そこにためらいはなく、当然の行為であるように受け止められた。

 一緒にいられる時間を得られるならば、そちらを選ぶ。

 ただそれだけのことだった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ