第七話
目を覚ますと、日の出にはまだ時間があることがわかった。
しんと静まり、停滞した空気がたゆたう室内に、薄明かりが差している。
(今日が最後だ)
明日の午前中に、ラボの予約をとってある。
この身体とも香奈とも別れて、郁は本来の自分に戻る。
(香奈さん……)
最後にお礼の気持ちを伝えようと、郁はベッドから起きだした。
窓を開けると、すっとさわやかな空気が室内に滑り込む。
『春はあけぼの』とはいうが、明け方は季節を問わずにすばらしいものだ。
顔を洗って水を飲み、机に向かう。
早朝の学習は習慣と化している。
どうしても気が乗らないときは、自転車をこぎに外へ出ることもあるが、大抵の場合は朝が一番集中できるし、効率も良い。
この身体にもずいぶん慣れた。女性のままでは得られなかった知識も増えた。
日々の計測でも、体調は安定しているようで、一切のトラブルはない。
(明日を過ぎれば、偽りは幻になるんだ)
逃避も過ぎれば毒となる。
よい思い出となるよう努力して、継続してこれを記憶しておくくらいしか、郁にできることはない。
(できれば香奈さんにも覚えていてほしいけど)
ほんの数日を過ごしただけで、ずいぶんと親しみを感じる存在になった。
不思議とこれでお別れだという実感がわかないのは、交換したトンボ玉が手元にあるためかもしれない。
どのみちけじめはつけないとならない。
終わりよければすべてよし。そうあってほしいものである。
香奈とは午後に大通駅で待ち合わせをした。
甘味処の集まる商業施設でケーキを食べて、大通公園をふらふら歩いた。
連日夕刻には盆踊りが開催されているようで、ビアガーデンの区画の隣に、大きなやぐらが組まれている。
「提灯がきれいだね」
そう口を開く香奈の目元が色っぽく見えるのは、ぽつんと乗っかる小さなほくろのせいだけではないはずだ。
「座ろうか」
数あるベンチのひとつを指して腰かける。
日頃からくつろぐ街の人や観光客でにぎわうこの公園も、今日は人出もことさらで、浴衣姿もたびたび目につく。
とうもろこしの屋台と、噴水と鳩。それに芝生と花壇と彫像。
そんないつもの光景に、祭りの気配が華を添えていた。
「灯りはオレンジ色が一番好きなの」
香奈が言う。
「ほら、温かい印象があるじゃない。ただ照らすだけじゃないというか」
「ああ、そうだね。優しい色だってオレも思うよ」
「より家庭的な光になるよね。受け入れられているような気がする」
「きれいだよね」
「うん、きれい」
やぐらから四方へ向けて伸びる提灯に灯りがともり、やわらかな光がにじんでいる。
まだ陽は落ちていないものの、もう少し暗くなれば美しさも存在感を増すだろう。
浮き足だった喧騒が心地よい。そう感じられるのは、あるいはひとりではないせいかもしれない。
「夏も終わりだね」
「そうだね、郁は……」
「うん?」
「明日、帰るんでしょう。淋しい? それとも、ほっとしてる?」
「両方かな。いや、ほっとはしてないかも。どっちかっていうと、緊張してる。また気を引き締めて頑張らないとなって。――淋しいのは、香奈さんに会えなくなることだけが淋しいよ。ほらオレ、香奈さん好きだからさ」
「……ありがとう」
おだやかに目を細める眼差しが、なぜか悲しげに見えて、胸がさわいだ。
「迷惑をかけたかもしれないけど、一緒に過ごせて感謝してるんだ。香奈さんのおかげで、いい夏になった」
「私も郁といられてよかったよ。お互いさまだね」
「本当? だったらいいけど」
「もちろん本当。いつもとは全然違う夏休みだった」
「オレも」
顔を見合わせて、ほほえみを交わす。
ただそれだけのことが、鮮明だった。
しばらくそのまま、道行く人や、一番星がまたたきはじめた空を見上げて話をした。
盆踊りが始まると人も増えて、辺りはかなりにぎやかさを増した。
「ね、ごはん食べに行こうか」
香奈が、おいしいピザ屋があるというので、札幌駅まで地上を歩く。
「冬は地下がいいけど、夏は上を歩くほうが楽しいよね」
そんな言葉を交わしながら向かった先で食べたピザは、なるほど非常に美味だった。
「チーズでお腹いっぱい!」
お腹をさする郁に、香奈が上を指さす。
「寄っていかない?」
「どこ?」
「JRタワー。展望台があるの」
「あ、知ってる。行ったことないや、そういえば」
「行こう」
「うん!」
駅の構内をくねくねと歩き、目当ての場所のエレベーター前までやってくる。
「意外と人、いないんだ?」
「すいているのがいいんだよ」
人気の少ない通路を渡り、二人きりでエレベーターに乗り込む。
「高さはそれほどないんだけどね。街中だからきれいだよ」
「へえ。藻岩山の展望台なら行ったことあるんだけどね」
「アイス売ってるよね」
「おいしいね、じゃがいも味」
「じゃがいも味……は、食べたことないな」
「おいしいんだよ!」
普通にコンビニでも売ってくれたら、どれほどいいだろうと思っているのだ。
「じゃがいもは定番!」
「夕張メロンでもハスカップでもなく?」
「そう。じゃがいも。欠かせないね」
「ふうん」
「……食べてみたいなと思ったでしょう」
指でつつくと、香奈が肩をすくめる。
「まあね」
「だよねっ」
今度行こう――と、言えないのがつらいところだ。
「着いたよ」
エレベーターが止まり、ドアが開く。
鼻歌まじりに降りた郁は、展望室に出て、息をのんだ。
「わあ……!」
(なんてきれい!)
眼下に広がる光のつぶに、テンションが上がる。
「これはきれいだねえ」
「こっちは北側。南側はもっときれいだよ」
香奈が街中だからと言っていたのはこういうことかと得心がいく。
ビルの合間にある建物だから、夜景との距離が近いのだ。
「へえ、北側。うちのある方角だ。……あのへん、暗いね?」
「あそこは北大。競馬場もある」
前方の一点を指さした。
ごそっと灯りの乏しいエリアがあったのだが、そう教えられると納得だ。
駅の北側に広がる国立大学の敷地は広い。
「なるほどね」
この場には関係ないが、郁の志望校でもある。
(ふうん)
来年の今頃は、あそこに通っているのかと思うと不思議な心地がする。
もちろん、受かっていればの話なのだが、落ちることをあまり想定したことはない。
「面白いね。ひとつひとつの建物の形までくっきりわかる」
「でしょう」
展望室は、ぐるりと四方がガラス張りになっていて、ところどころ窓に向けてソファやテーブルが配置してある。
コーヒーをすすりながら本を読んでいるおじいさんもいて、いたってのどかな雰囲気だ。
「あ、ピアノ」
コーナーを曲がったところに、なぜかピアノが置いてある。
「コンサートのある日もあるんだよ」
「ここで?」
「そう。ほら、ポスターがある」
「おお」
何日か後の夜に、ここでヴァイオリンとピアノの演奏があるらしい。
「いいなぁ」
来たいな、と思ったけれど、その頃は父が在宅しているので、到底無理だ。
(誘えば一緒に来てくれるかもしれないけど……)
足を運べば、香奈を思い出すだろう。
さして日を置かずに、二人で訪れた場所に足を運ぶのは抵抗がある。
(うん。生演奏がなくても、今夜は十分に素敵)
「一緒に行けたらよかったね」
香奈がまるで気持ちを代弁するような発言をした。
「オレも。オレもそう思う」
でも……、と思ってつけたした。
「今日連れてきてもらえただけでも嬉しいんだけどね」
「そっか」
「うん。ね、向こうも見に行こう。キラキラしてる」
「ああ、南側は明るいよね」
南の繁華街に面した窓は、一面、電飾の海だった。
まっすぐに伸びた道路に、ブレーキランプ。ビルの灯りに、広告のライト。
ちかちか光って、人々の営みを感じさせる。
「ほら、あそこ。観覧車がある」
「ああ、ビルの屋上にあるってやつ。郁は乗ったことある?」
「ない。香奈さんは?」
「ないなあ」
「なかなかないよね」
「うん。知ってはいるけど」
「場所も場所だし。高校生には疎遠かなあ」
「そうかも」
くだんの観覧車は、すすきのにある。
繁華街ではあるが、未成年のうちはあまり縁のない場所ともいえる。
「十八にはなったばかり?」
香奈が訊いた。
「そうだね、つい最近」
「成人しても、あまり大人になったっていう気はしないよね」
「学校もそのままだし、実際にはあまりね。気分は少し、……浮つくかな」
「そう? あまりそんな風には見えないけど」
「浮ついてるよ、十分。浮ついてるから、香奈さんにも会えたんだろうし」
「へえ」
「香奈さんは? 成人して何か変わった?」
「……IDの使い勝手が良くなったかな」
「ああ! それはある。いちいち確認のメッセージが出なくなった」
「今まであたりまえだと思ってたけど、制限されてたんだなと思ったな」
「時間帯の制限もなくなったし」
「今まで行けなかったところにも行けるようになった」
「たとえば?」
「う……ん、いろいろ?」
香奈が気まずそうに目をそらすのを見て笑う。
「なにそれ」
「いろいろはいろいろだよ」
「そう。いろいろね」
「そう」
わかってるじゃないかというように、香奈は重々しくうなずいた。
「――ああ、そうだ。オレ、香奈さんにはきちんとお礼を言わないといけない」
ふと思い出して口を開く。
「お礼?」
「そう。今日まで毎日、つきあってくれてありがとう。おかげでとても充実した時間が過ごせた」
「よかった。私もだけどね」
「一緒にいるとね、息をするのがらくなんだ。会って日も浅いのに不思議だね。初対面だという気がしない」
「そう」
「うん。夏休みが終わるのは惜しくないけど、この時間が終わるのは惜しいな。もっとふたりでゆっくり話がしたかった」
「……する?」
「ん?」
「話。ふたりで。時間、まだ帰らなくていいなら、だけど」
時刻を確認すると、午後の十時をまわったところだ。
夏期講習でもないかぎり、学生はそろそろ帰宅すべき時間でもある。
「オレは、平気。明日は帰らなくちゃいけないからアレだけど、今日はね。何時になっても大丈夫だよ。……香奈さんは? もう遅いよ」
帰宅をしても今はひとりだ。
しかし彼女はそうはいかないのではないかといぶかしむ。
「うちは、……いいんだ。ああほら、夏休みだし、今日はたまたま平気なの。名残惜しいのは私も一緒だし、ね」
小首をかしげて、香奈がこちらをひたと見つめた。
「行く? ふたりで話のできるところ」
「行くよ。どこ?」
差し出された手を見つめる。
「更新されたIDでないと入れないところだよ」
「そっか」
郁は手指の長いその手をとった。
そこにためらいはなく、当然の行為であるように受け止められた。
一緒にいられる時間を得られるならば、そちらを選ぶ。
ただそれだけのことだった。