第六話
この日、郁は芸術の森に来ていた。香奈とふたりだ。
昨日のうちに予定をたてて、午前中、真駒内駅で待ち合わせをした。
そこからバスに揺られ、二十分ほど。
「遠かったね」
初めて訪れる場所は遠く感じる。
「まあ、少しね」
香奈も軽く伸びをする。
「さて」
手元のパンフレットをのぞきこむ。
郊外にあるだけあって、敷地は広い。
「夏休み中だからね、体験工房もあるよ」
どれどれと目を走らせると、かなり種類は豊富である。
「予約で埋まっちゃってるのも多いね」
「やる気はある? 今からだと、これと、これ」
「これがいい」
ペーパークラフト、陶芸、ステンドグラス体験――と、数ある中から郁が選んだのは、ガラス工芸だった。
初心者向けのトンボ玉作り。費用が安く、なにより見た目がかわいらしい。
「申し込み不要、か。向こうだね」
芝の広がる敷地を歩く。
だだっ広いのに、よく整えられていて、景観に優れている。
点在する彫刻のオブジェが趣深い。
「こんにちは」
該当する工房へ足を踏み入れると、エプロンを着用したお姉さんが声をかけてくれた。
「体験ですか? 見学だけでもお気軽にどうぞ」
「体験です。二名」
「はーい」
作業台では、お祖父さんと小学生のお孫さんらしき二人連れが、バーナーに向かって真剣な顔で何やらくるくる回している。
(わあ、たのしそう)
周囲に展示してある作品も、色とりどりで愛らしいものが多くて、見ているだけでわくわくしてくる。
「トンボ玉とはこういった、中央に穴の開いているガラス玉のことをいいます。棒に溶かしたガラスを巻きつけていくから、こういう形になるんですね。この穴に紐などを通して、アクセサリーにもできますよ」
担当のお姉さんが、はきはきと説明をしてくれる。
「まずはどういった柄のものを作るか、お選びください」
サンプルを前に、あれこれと詳しい解説を受けたのち、二人は決めた。
「ではこれ、マーブル模様のやつにします」
最も簡単だという柄を選ぶ。
簡単なのかもしれないけれど、シンプルで美しい。
「色は好きに選んでくださいね。クリアなものとそうでないものを組み合わせたり、色もあまり似通ってないものを選んだ方が、きれいな仕上がりになりますよ」
「なるほどねえ」
ガラス玉の本体になる色と、しましま模様になる色とを選ぶらしい。
たくさんのガラスの棒を前に、しばし悩む。
ちらっと香奈を横目に見ると、彼女はオレンジ色の棒を手にとっている。
(私は、そうねぇ)
せっかく一緒にいるのだ。香奈をイメージした色を選ぶことにした。
(透明感のある水色をベースにして、濃い紫を加えようかな)
彼女は寒色系の色がよく似合う。ピンクや赤より、ブルーやグリーン。
とらえどころがないのに、ほっとする色。
「ねえ、郁」
そんなことを考えていると、当の香奈から名を呼ばれる。
「なぁに?」
「もし、嫌でなければなのだけど、これ、完成したら交換しない?」
(ひゃぁっ)
「こ、交換? する!」
「いい? ほら、郁とはもうすぐ会えなくなるでしょう。何か餞別のようなものをあげたくて」
「うわぁ、ありがとう!」
ひどく嬉しいのにどこか気恥ずかしい、そんなむずむずした気持ちが湧いてくる。
「じゃあオレ、失敗しないようにがんばる。気合い入るな」
思い出ができるのが嬉しかった。
「オレさ、この色、香奈さんっぽい色にしたくて選んだんだよね」
香奈は微笑んで眉を下げた。
「ほらまた、口がうまい。これも天然?」
「え? いや……」
「見せて」
選んだガラスを香奈が見つめる。
「きれいだね」
「香奈さんは、それ?」
「そう。実をいうとね、こっちも郁にあげるなら何色にしようかと思って選んだの」
「そっかぁ」
顔がにやける。
「お決まりですか」
係りの人に声をかけられて、二人は空いた作業台へ移動した。
手渡されたエプロンを着けて、荷物をかごの中に入れる。
「バーナーに火をつけます。熱くなりますので、気をつけてください」
各自アシスタントの人がついて、背後から両手をとられた。
「左手に心棒を、右手にガラスを持って……」
針金のような細い棒を火であぶり、そこに溶かしたガラスをまきつけていくようだった。
「左手の棒をくるくると奥へ回していきます。そう、溶けたガラスを乗せて、ゆっくり」
(ゆっくり)
水飴のように垂れるガラスを心棒に巻いていく。
「はーい、ストップ。そっと離して、次は細いガラスを使います」
本体となる太いガラスの棒から、模様となる方の細いガラス棒に持ち替えた。
そして左手の棒の先に巻かれたガラスの玉に、四カ所、線を引くようにガラスを溶かして乗せていく。
「はい、ここで最後。ガラスはこちらの台に戻して、火の上で棒をくるくる回していきます。ゆっくり、そう、くるくると」
心棒の先で炙られて揺れるガラスのかたまりを、落ちないように回して球を形成していく。こうして回転を加えることで、模様がなじんできれいなマーブルを描くのだろうか。
「火の中から出して、また入れて、出して回して、……はい、オーケーです」
バーナーの火が消され、心棒を取り上げられた。
「急激な気温の変化を加えると、ガラスが割れてしまいますから、灰の中で徐々に冷ましていくんですよ」
灰の敷かれた壺に、棒を挿してガラスを埋めた。
「四十分後にお渡しできます。このままでも構いませんし、革紐に通した状態でお渡しすることもできますよ。どうします?」
提示されたサンプルは、紐を編み上げてストラップの形に結んであった。
「通してください」
「はい。お二人ともでよろしいですか。では、紐の色を選んでください」
はっきりとした色合いのものもあれば、落ち着いた色のものもある。
郁と香奈はそれぞれガラスの色に合ったものを選んで、渡した。
「こちら、引換券になります。どうぞ」
「ありがとうございました」
「のちほどまたお待ちしてます」
工房を出ると、明るい陽の光がさしていた。
建物から建物へ、屋外をぷらぷらと歩く。
「たのしかったあ」
うんと伸びをする。
「溶けて落ちないかとひやひやしたよ」
「うん。緊張したね」
マンツーマンで両手をしっかり取ってもらっていたので、不安はなかった。
郁はただ促されるがまま動いただけだ。
それでも、初めて触れるものに気が張った。
まじまじと観察する余裕がなかったために、どんな出来映えになるのかもわからない。
(きれいに仕上がってるといいなあ)
「展示もいろいろあるよ。どれが気になる?」
香奈が案内図を振ってたずねる。
「んー、機織りに陶芸、……陶芸がいいな。焼き物が見たい」
「じゃあこっちだね。あのもっと向こうだ」
香奈と歩くのは楽しかった。
陶工房でも、ろくろを回して小ぶりな器を作っている人たちが真剣な顔をつつきあわせていた。
展示ホールでは、名のある人の作品から陶芸サークルの人たちの作品までを幅広く展示してあり、斬新なフォルムの器もある一方で、素人作品ながらも素朴な味わいのある小皿もあって、目を楽しませてもらった。
「焼き物って、どうしてこんなに魅力的なんだろう」
郁がうっとり眺めていると、香奈はもどうやら気に入った作品に出会ったようで、取っ手だけがぐねぐねと高く伸びている珍妙な形状のマグをまじまじと見つめてうなずいた。
「たしかに、食器としての役割以上のものがあるね」
実用面からすると不要であったり不便であったりする形のものも、『味』だと思えてしまうのは不思議なものだ。
「香奈さんは陶芸ってしたことある?」
「いや、中学の授業で粘土をこねくりまわした覚えがあるくらいかな」
「オレも。でも、やってみたいとは思うな。大学に入ったら、どこか探してみようかなあ」
「いいね。授業も最近は受験一辺倒でしょう。その先にやりたいことがあると、希望が持てるんじゃない」
「息がつまらなくてすむということ?」
「うん、まあ。同じようにひたむきになるにしても、安心感があるというか」
「香奈さんの学校は、そんなに熱心なところなの?」
「うーん、どうだろう。人それぞれかな。見るからに余裕をなくしている人というのはあまり見かけないけど」
「うちも、今のところは。夏休みが明けたらまた違うかもしれないけどね」
夏休みの終わりは間近だ。
学業にストレスを感じてはいないものの、生活に行き詰まりを感じていたのは確かだ。
今のこの時間も、後々から見ると、よい気分転換になったと思えるものなのだろうか。
知り合ったばかりの人と、こうしてのんきに休暇を満喫していることを、どうとらえてよいのか郁にはいまいちわからないのだ。
(ただ、もう少し一緒にいたいと感じるだけで)
女の身体で出会っていたほうが良かったかもしれないと思う。
そうしたら、偽ることなく明後日以降も知り合いでいられた。
けれど、羽目を外すことをこころがけたせいで今ここにいるわけだし、そのような仮定に意味はないのかもしれない。
要は、惜しんでいるのだろう。細くできた絆を、離したくないのだ。
(長くつきあえる友だちに、なれたかもしれないのに)
よくばりなのだろうか。それだけが心残りだ。
「そろそろじゃない?」
香奈が言う。
二人は先ほどの工房に戻り、立派な飾り紐に化けたトンボ玉を受け取った。
「はい、これは郁に」
香奈が手渡してくれたのは、オレンジに白のラインが入った、おいしそうな色合いの玉だった。
「ありがとう、かわいいね。――これは香奈さんに」
香奈も笑顔で受け取った。
「ありがとう、大切にするよ」
「オレも」
手のひらに乗ったトンボ玉は、ビー玉サイズなのにしっかりとした重みを感じた。
「思い出が形に残るのって、うれしいな」
しみじみとつぶやいたら、香奈がぽつりとこう告げた。
「良い思い出なら、そうだよね」
その横顔が儚げで、郁の胸はわずかにさわいだ。
「香奈さん――?」
かけるべき言葉を見失い、とまどう郁に、香奈はぱっとおもてを上げた。
「ああ、ごめん。つまり、楽しかったってこと。郁と一緒でなければ、ここに来る機会もなかったもの。よかったよ、ありがとね」
「うん、こちらこそ」
一瞬かげったように見えた香奈の表情が元の穏やかさを取り戻し、ほっとする。
(何か嫌なことでも思い出させちゃったのかな……)
そんな風に思って気づく。郁は、香奈の事情など何も知らずにいるのだ。
郁も彼女に自分の身の上はなるべく話さないように気をつけている。
(そうか)
共に過ごすのが不可解なほど、互いに互いのことを知ろうとはしていない。
名字も知らない。学校名も知らない。希望する進学先だって知らない。
家族構成も、部活も、成績も、……知らないことは山ほどある。
(それでも、人って雰囲気だけで好きになれるものなんだなぁ)
知らないままでも、香奈が魅力的なのは変わらない。
困った風に眉を下げて笑う笑顔が好きだと思った。
あまり感情的にはならない落ち着いた声音も、澄んだ声も、ひかえめな仕草も。
なにより、らくに呼吸ができるその空気が、郁にとってはかけがえのないものだ。
(ハーブを炊き込めてある、安眠枕のよう)
抱きしめて眠ったら、きっといい夢が見られると思うのだ。
「行こう」
郁は手を差し出した。
目をぱちくりとさせた香奈が、はにかみながら握りかえしてくれた、ぬくもりがうれしかった。