第五話
翌日は雨だった。
雨の日は涼しい。
薄手の七分袖のパーカーを着て、窓の外を見る。
なんとなく、この日はひとりで滝を見に行こうと考えていた。けれど、雨の中出向くほどの熱意はなく、どこか屋内でいい場所はないかと考えを巡らせる。
「何をしよう」
ひとりでゆったりと過ごせる場所がいい。できれば交通の便の良いところで。
携帯端末に目がとまる。
「ひとり……である必要もないんだ」
昨日の今日で声をかけたら、相手の負担になるだろうか。
(でも、時間は限られているのだし)
香奈を思うと、落ち着かない気分になる。
顔を合わせているときには心地が良いのに、離れていると不安になるというのは不思議なものだ。
意を決し、メッセージを送信した。『午後は一緒に過ごしませんか』と、いうもの。
返信ははやかった。『どこで待ち合わせましょうか』と訊かれ、簡潔にやりとりをした。
午後一時に駅ビルの本屋で落ち合うこととなった。
会えばわかるだろうか。つかみどころのない彼女の、どこに惹かれるのか、理由が知りたい。
自分から誘ったのだし、遅刻は許されないと意気込んで、十分前には現地についた。
指定の雑誌コーナーで、先に来ていた香奈を見つけた。
「香奈さん」
「ああ、郁。はやいね」
「はやいのは香奈さんだよ。驚いた」
しかも彼女が手にしていたのはオペラ雑誌だ。これまた渋い。
「オペラ、好きなの?」
「まあね。音楽は何でも好き」
「へえ。たとえばどんなの?」
天井を見つめて、香奈は言った。
「聴くのは洋楽のほうが多いかな。歌はなしの民謡とかも好きだし、クラシックもジャズも、あとは雅楽なんかも。聴くぶんには選り好みしないで聴くよ」
「雅楽!」
疎遠だけれどもいい響きだ。
「香奈さん、音楽やってるの? 吹奏楽とか」
「ううん、聴く専門。楽器を弾くのは難しいよね。あこがれるけど」
「そっかあ。」
郁も演奏はからきしだ。楽譜も音階を順にたどらなければ、音符の示す音にたどりつかない。
「で、何を観ようか」
ここの上階には映画館がある。観たい作品があるかどうか、チェックしてから来ようとさきほど示しあわせた。
「郁が興味あるかどうかわからないけど、観たいのがひとつある」
「何?」
「『スタンドバイミー』。リバイバルをやってる」
「きいたことある」
「うん」
「行こう」
「いいの?」
香奈が笑い混じりの声を出す。郁は大きくうなずいた。
「いい。香奈さんが観たいやつが、オレも観たいから」
上映時刻を確認すると、一時間と待たずに、しかも空席もある。二人はチケットを購入して、売店でパンフレットやグッズを眺めて時間をつぶした。
「ポップコーン食べる?」
香奈が電光掲示のメニューを指でさす。
「いろいろあるよ。塩、キャラメル、ベーコンペッパー、カレー、クリームメロン、ココア、オニオンチキン、……どれにしようか」
「キャラメル。キャラメルが好き」
「オーソドックスだね。飲み物は? 私は烏龍茶」
「オレは、んっと、アイスコーヒー」
「了解」
薄暗い通路を進んで、席についた。
シートは新しいもので、クッションがいい。幅も広くて、隣の席とは肘置きふたつぶん距離があるけど、並んで座ると親密度が増した気がして嬉しくなる。
肘置きの前方にトレーをセットして、ポップコーンをつまむ。
「止まらなくなっちゃうんだよね」
キャラメル味は大好きだ。
「映画が始まる前に、お腹がふくれそうだね」
郁の食べっぷりに、香奈が笑った。
映画はよかった。とてもよかった。
成長の過渡期にある少年四人の物語だ。昨今の映画に比べてとても静かで、心に染みた。
「もう少し、つきあってくれる?」
別れがたくて、そう頼んだ。
夕刻だが、ポップコーンのおかげでお腹はすいていない。
「いいよ。何かしたいことでもある?」
「二人になりたい」
ぽろりと口から本音がもれて、慌てて言葉を継ぎ足した。
「えっと、つまり、できれば個室で、おしゃべりがしたいかな」
「個室かぁ。――カラオケとか?」
郁は首を縦に振った。
「うん、それでいい。歌は歌っても歌わなくてもどっちでもいいんだ、一緒にいてくれれば。……ありがとね」
どういたしましてと、目を細める香奈の眼差しが温かかった。
地下街を歩いて、近隣のビルに入っているカラオケの、小さな個室をとった。
受付で、郁がIDをかざしてチェックインする。
落ち着いた内装の部屋を選んだ。サイケデリックだったり、ブラックライトに照らされているような部屋は、香奈のイメージとは異なる。
ハーブティーを注文して、L字型の座席に膝をつき合わせるようにして座った。
「いただきます」
温かい飲み物を口にすると、ほっとする。気づかないうちに空調で身体は冷えていた。
「せっかくだから、ひとつだけ歌いたい曲があるの」
そう言って、香奈が索引をひいて一曲選んだ。
「誰の曲?」
「ん、主題歌。さっきのね」
ディスプレイにタイトルが表示された。『スタンドバイミー』。記憶に新しいイントロが流れる。
「わあ」
曲だけはかねてから知っていた。好きな曲でもあった。聴いていると心が落ち着くと感じたこともあったはずだ。
マイクを手にした香奈が、郁に目を向け、意味ありげにほほえみをうかべた。
含むところがあるように見えたのは、その姿があまりにさまになっていたからだろうか。
まなじりの奥にある小さなほくろが、色気を増したように見えた。
(う――?)
歌声は、肌を超えて身体の内部に振動を伝えた。
(うわ)
衝撃が駆け抜け、驚愕のあとに遅れて思考が追いついてくる。
鼓動が高鳴り、血流が勢いを増す。
(すごい。うまい)
厳密に上手い歌なのかどうかはわからない。ただひたすら、揺さぶりを受けた。
スローな曲調に乗って、豊かな歌声が室内に響く。身体をぐるりと巡って、駆けていく。
「ああ」
知らずに感嘆の息をもらした。
(――これは風だ)
肌の痺れは、時折嗅ぎ分ける自由の空気と同じものだ。
郁の胸を、あこがれとも焦燥ともつかない強い思いがしめる。
(香奈さん)
この人はこうして解き放たれるのだと、羨望の眼差しを向けた。
同時にそれは賞賛の眼差しでもあった。
透明感があるのになぜか重みを感じる歌声だ。歌う彼女は美しかった。
ゆるやかに歌い上げているように見えるのに、受け止めるだけで精一杯だ。
彼女が最後の一音を発し終えると、涙があふれた。
(好きだ)
すとんと、そんな言葉が情動の底にころがった。
聴けてよかった。そう思った。
「郁……?」
おろおろと、マイクを置いた香奈がのぞきこむ。
「え、郁、どうして?」
「ごめ……」
泣くつもりなどなかった。
「すごくよかった。感動しちゃって、ごめんね。ごめん」
気遣わしげな眼差しで、香奈が郁の頬をぬぐった。
「香奈さんの、歌ね、すごく好きだよ」
「郁」
「好き」
「うん」
ほうっと息をついて、つぶやいた。
「ありがと」
長い手指が頭をそっとなでていった。
それがあまりにおそるおそるといった風情だったので、郁はぷっとふきだした。
「えっ」
香奈が慌てて手を離そうとするのを、手首をつかんで押しとどめた。
「ごめん。なでて」
「……うん?」
「頭なんてなでてもらったの、いつぶりだろう」
香奈は困ったように目元をゆるめて、やさしく頭をぽんぽんとした。
「あまりされない?」
「そうだね、ちっとも。忘れてたよ、いいものだね」
「そう」
彼女がおだやかに受け止めてくれたから、取り乱したことを取り繕おうと焦る気持ちは生じなかった。
(まったくこれって、私らしくない)
自分ではないものに、この人と一緒ならばなれる気がした。
逃避でも欺瞞でもよかった。ほんのひととき、肩の力が抜けたと思えた。
「香奈さんはひとを癒すのが得意だね」
腕が離れて、ようやく郁にも羞恥の心が芽生えた。じわじわ頬が熱くなる。
(何、やってんだろ、私)
落ち着きを取り戻すと、自分の醜態が信じられなくなる。
(うわ、もう、恥ずかしいったら!)
とてもではないが、目を合わすことはできなかった。
ぐるぐると謝罪の言葉が頭を巡る。
「気に入ってもらえたということでいいのかな」
心許なさそうな声に、はっとした。
「もちろんそうだよ!」
決まりの悪さもふきとんで、おもてをあげた。
「そう。それならよかった」
「ねえ、香奈さん」
「なあに」
「オレ、こっちにいられるの、あと二日と半分だけなんだ。三日後の昼には、帰らなくちゃいけない」
「うん」
「明日も明後日も、さ。会えないかな。オレ、香奈さんと一緒にいたいんだ。少しだけでも」
「いいよ」
「……いいの?」
あまりにあっさりと承諾されて、目を丸くする。
「ほんとに? 用事とかない?」
「ないよ。大丈夫。私も今は夏休みなんだよ、時間ならあるから」
「受験生じゃないの」
「受験はするけど、高望みはしてないの。気にしなくていいよ」
「うん」
「後ろめたいような顔をするんじゃないよ。せっかくの休暇でしょう、私も郁と過ごしたいんだよ」
「え、え? あ、ありがとう」
とんでもないご褒美をもらったような気分になった。言葉ひとつで喜びがあふれる。
顔がゆるむのをおさえることはできなかった。
「郁は? お勉強、大丈夫?」
「朝方学習してるんだ。日中遊ぶのは、有意義なことだって思ってる」
「早起きするの? えらいね」
「朝はけっこう好きなんだ。天気がよかったら外に出ることもある。外の空気も好き。洗われるって思う」
「心が?」
「それと、疲れた脳みそが」
「なるほど」
香奈がゆるくかぶりをふった。
「私は朝は苦手だな。夜更かしは得意なんだけど。学校とか何か、起きる理由がないと起きられないよ」
「目を覚ましたらね、すぐにカーテンを開けて、窓も開けちゃうんだよ。外の空気を吸ったら、目が覚める。毎朝空の色を見てね、――夜明け前でも、毎日空の色って違うんだ。それで、顔を洗ったらもうすっきり」
「うう、……無理そう」
香奈がなさけなく顔をしかめた。
「香奈さん、運動部には入ってないんでしょう」
「どうしてわかるの」
「だって朝練。運動部の人たちって、朝早いもの」
「そうか。そうだね。……運動部の友だちがいるんだ。家も近くて、でもちっとも登下校が一緒にならない」
「でしょう」
「だね」
「けど、三年だったらそろそろ部活も引退じゃない? 一緒に登校できるようになるかもしれない」
「そうか、引退。……それって少しさみしいね。まだ三年になったばかりな気もするのに」
「そうだね、さみしいね」
同じクラスの陸上部の男子生徒の顔が頭にうかんだ。彼もまた、風のように走る人だ。あんな風に軽々と駆けてみたいと思っていた。
そんな姿も見かけることがなくなるのだろうか。それはやはり、さみしいものだ。
「けど、スポーツそのものをやめてしまうわけではないから」
香奈がつぶやいた。あまりに自分の心情にぴたりとくる言い回しに、鼓動が跳ねた。
「そうだね、やめるのとは違う。うん」
きっと彼なら、部活に出なくなっても走るのはやめない。場所ならいくらでもある。郁が自転車に乗るのと同じ時間に、別の場所を走っていることもあるかもしれない。
彼の存在自体は好きでもないが、あの見事な走りっぷりが損なわれるのは嫌だった。
走る姿は、見ている者にまで風を感じさせるもので、――いましがたの香奈の歌声と、どこか通じるものがある。
同じものが郁も欲しい。
見渡すかぎりどこにも、つかめそうなものは見当たらなかったけれども。