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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第一章 : 映画には主題歌がある
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第五話

 翌日は雨だった。

 雨の日は涼しい。

 薄手の七分袖のパーカーを着て、窓の外を見る。

 なんとなく、この日はひとりで滝を見に行こうと考えていた。けれど、雨の中出向くほどの熱意はなく、どこか屋内でいい場所はないかと考えを巡らせる。


「何をしよう」

 ひとりでゆったりと過ごせる場所がいい。できれば交通の便の良いところで。

 携帯端末に目がとまる。

「ひとり……である必要もないんだ」

 昨日の今日で声をかけたら、相手の負担になるだろうか。

(でも、時間は限られているのだし)


 香奈を思うと、落ち着かない気分になる。

 顔を合わせているときには心地が良いのに、離れていると不安になるというのは不思議なものだ。

 意を決し、メッセージを送信した。『午後は一緒に過ごしませんか』と、いうもの。

 返信ははやかった。『どこで待ち合わせましょうか』と訊かれ、簡潔にやりとりをした。

 午後一時に駅ビルの本屋で落ち合うこととなった。

 会えばわかるだろうか。つかみどころのない彼女の、どこに惹かれるのか、理由が知りたい。


 自分から誘ったのだし、遅刻は許されないと意気込んで、十分前には現地についた。

 指定の雑誌コーナーで、先に来ていた香奈を見つけた。

「香奈さん」

「ああ、郁。はやいね」

「はやいのは香奈さんだよ。驚いた」

 しかも彼女が手にしていたのはオペラ雑誌だ。これまた渋い。


「オペラ、好きなの?」

「まあね。音楽は何でも好き」

「へえ。たとえばどんなの?」

 天井を見つめて、香奈は言った。

「聴くのは洋楽のほうが多いかな。歌はなしの民謡とかも好きだし、クラシックもジャズも、あとは雅楽なんかも。聴くぶんには選り好みしないで聴くよ」

「雅楽!」

 疎遠だけれどもいい響きだ。


「香奈さん、音楽やってるの? 吹奏楽とか」

「ううん、聴く専門。楽器を弾くのは難しいよね。あこがれるけど」

「そっかあ。」

 郁も演奏はからきしだ。楽譜も音階を順にたどらなければ、音符の示す音にたどりつかない。


「で、何を観ようか」

 ここの上階には映画館がある。観たい作品があるかどうか、チェックしてから来ようとさきほど示しあわせた。

「郁が興味あるかどうかわからないけど、観たいのがひとつある」

「何?」

「『スタンドバイミー』。リバイバルをやってる」


「きいたことある」

「うん」

「行こう」

「いいの?」

 香奈が笑い混じりの声を出す。郁は大きくうなずいた。

「いい。香奈さんが観たいやつが、オレも観たいから」


 上映時刻を確認すると、一時間と待たずに、しかも空席もある。二人はチケットを購入して、売店でパンフレットやグッズを眺めて時間をつぶした。

「ポップコーン食べる?」

 香奈が電光掲示のメニューを指でさす。


「いろいろあるよ。塩、キャラメル、ベーコンペッパー、カレー、クリームメロン、ココア、オニオンチキン、……どれにしようか」

「キャラメル。キャラメルが好き」

「オーソドックスだね。飲み物は? 私は烏龍茶」

「オレは、んっと、アイスコーヒー」

「了解」


 薄暗い通路を進んで、席についた。

 シートは新しいもので、クッションがいい。幅も広くて、隣の席とは肘置きふたつぶん距離があるけど、並んで座ると親密度が増した気がして嬉しくなる。

 肘置きの前方にトレーをセットして、ポップコーンをつまむ。


「止まらなくなっちゃうんだよね」

 キャラメル味は大好きだ。

「映画が始まる前に、お腹がふくれそうだね」

 郁の食べっぷりに、香奈が笑った。






 映画はよかった。とてもよかった。

 成長の過渡期にある少年四人の物語だ。昨今の映画に比べてとても静かで、心に染みた。

「もう少し、つきあってくれる?」

 別れがたくて、そう頼んだ。

 夕刻だが、ポップコーンのおかげでお腹はすいていない。


「いいよ。何かしたいことでもある?」

「二人になりたい」

 ぽろりと口から本音がもれて、慌てて言葉を継ぎ足した。

「えっと、つまり、できれば個室で、おしゃべりがしたいかな」


「個室かぁ。――カラオケとか?」

 郁は首を縦に振った。

「うん、それでいい。歌は歌っても歌わなくてもどっちでもいいんだ、一緒にいてくれれば。……ありがとね」

 どういたしましてと、目を細める香奈の眼差しが温かかった。


 地下街を歩いて、近隣のビルに入っているカラオケの、小さな個室をとった。

 受付で、郁がIDをかざしてチェックインする。

 落ち着いた内装の部屋を選んだ。サイケデリックだったり、ブラックライトに照らされているような部屋は、香奈のイメージとは異なる。


 ハーブティーを注文して、L字型の座席に膝をつき合わせるようにして座った。

「いただきます」

 温かい飲み物を口にすると、ほっとする。気づかないうちに空調で身体は冷えていた。

「せっかくだから、ひとつだけ歌いたい曲があるの」

 そう言って、香奈が索引をひいて一曲選んだ。

「誰の曲?」

「ん、主題歌。さっきのね」


 ディスプレイにタイトルが表示された。『スタンドバイミー』。記憶に新しいイントロが流れる。

「わあ」

 曲だけはかねてから知っていた。好きな曲でもあった。聴いていると心が落ち着くと感じたこともあったはずだ。

 マイクを手にした香奈が、郁に目を向け、意味ありげにほほえみをうかべた。

 含むところがあるように見えたのは、その姿があまりにさまになっていたからだろうか。

 まなじりの奥にある小さなほくろが、色気を増したように見えた。


(う――?)

 歌声は、肌を超えて身体の内部に振動を伝えた。

(うわ)

 衝撃が駆け抜け、驚愕のあとに遅れて思考が追いついてくる。

 鼓動が高鳴り、血流が勢いを増す。


(すごい。うまい)

 厳密に上手い歌なのかどうかはわからない。ただひたすら、揺さぶりを受けた。

 スローな曲調に乗って、豊かな歌声が室内に響く。身体をぐるりと巡って、駆けていく。

「ああ」

 知らずに感嘆の息をもらした。

(――これは風だ)


 肌の痺れは、時折嗅ぎ分ける自由の空気と同じものだ。

 郁の胸を、あこがれとも焦燥ともつかない強い思いがしめる。

(香奈さん)

 この人はこうして解き放たれるのだと、羨望の眼差しを向けた。

 同時にそれは賞賛の眼差しでもあった。


 透明感があるのになぜか重みを感じる歌声だ。歌う彼女は美しかった。

 ゆるやかに歌い上げているように見えるのに、受け止めるだけで精一杯だ。

 彼女が最後の一音を発し終えると、涙があふれた。

(好きだ)

 すとんと、そんな言葉が情動の底にころがった。

 聴けてよかった。そう思った。


「郁……?」

 おろおろと、マイクを置いた香奈がのぞきこむ。

「え、郁、どうして?」

「ごめ……」

 泣くつもりなどなかった。


「すごくよかった。感動しちゃって、ごめんね。ごめん」

 気遣わしげな眼差しで、香奈が郁の頬をぬぐった。

「香奈さんの、歌ね、すごく好きだよ」

「郁」

「好き」

「うん」

 ほうっと息をついて、つぶやいた。

「ありがと」


 長い手指が頭をそっとなでていった。

 それがあまりにおそるおそるといった風情だったので、郁はぷっとふきだした。

「えっ」

 香奈が慌てて手を離そうとするのを、手首をつかんで押しとどめた。

「ごめん。なでて」

「……うん?」


「頭なんてなでてもらったの、いつぶりだろう」

 香奈は困ったように目元をゆるめて、やさしく頭をぽんぽんとした。

「あまりされない?」

「そうだね、ちっとも。忘れてたよ、いいものだね」

「そう」

 彼女がおだやかに受け止めてくれたから、取り乱したことを取り繕おうと焦る気持ちは生じなかった。


(まったくこれって、私らしくない)

 自分ではないものに、この人と一緒ならばなれる気がした。

 逃避でも欺瞞でもよかった。ほんのひととき、肩の力が抜けたと思えた。

「香奈さんはひとを癒すのが得意だね」

 腕が離れて、ようやく郁にも羞恥の心が芽生えた。じわじわ頬が熱くなる。


(何、やってんだろ、私)

 落ち着きを取り戻すと、自分の醜態が信じられなくなる。

(うわ、もう、恥ずかしいったら!)

 とてもではないが、目を合わすことはできなかった。

 ぐるぐると謝罪の言葉が頭を巡る。


「気に入ってもらえたということでいいのかな」

 心許なさそうな声に、はっとした。

「もちろんそうだよ!」

 決まりの悪さもふきとんで、おもてをあげた。

「そう。それならよかった」


「ねえ、香奈さん」

「なあに」

「オレ、こっちにいられるの、あと二日と半分だけなんだ。三日後の昼には、帰らなくちゃいけない」

「うん」

「明日も明後日も、さ。会えないかな。オレ、香奈さんと一緒にいたいんだ。少しだけでも」


「いいよ」

「……いいの?」

 あまりにあっさりと承諾されて、目を丸くする。

「ほんとに? 用事とかない?」

「ないよ。大丈夫。私も今は夏休みなんだよ、時間ならあるから」

「受験生じゃないの」

「受験はするけど、高望みはしてないの。気にしなくていいよ」

「うん」


「後ろめたいような顔をするんじゃないよ。せっかくの休暇でしょう、私も郁と過ごしたいんだよ」

「え、え? あ、ありがとう」

 とんでもないご褒美をもらったような気分になった。言葉ひとつで喜びがあふれる。

 顔がゆるむのをおさえることはできなかった。


「郁は? お勉強、大丈夫?」

「朝方学習してるんだ。日中遊ぶのは、有意義なことだって思ってる」

「早起きするの? えらいね」

「朝はけっこう好きなんだ。天気がよかったら外に出ることもある。外の空気も好き。洗われるって思う」

「心が?」

「それと、疲れた脳みそが」

「なるほど」

 香奈がゆるくかぶりをふった。


「私は朝は苦手だな。夜更かしは得意なんだけど。学校とか何か、起きる理由がないと起きられないよ」

「目を覚ましたらね、すぐにカーテンを開けて、窓も開けちゃうんだよ。外の空気を吸ったら、目が覚める。毎朝空の色を見てね、――夜明け前でも、毎日空の色って違うんだ。それで、顔を洗ったらもうすっきり」

「うう、……無理そう」

 香奈がなさけなく顔をしかめた。


「香奈さん、運動部には入ってないんでしょう」

「どうしてわかるの」

「だって朝練。運動部の人たちって、朝早いもの」

「そうか。そうだね。……運動部の友だちがいるんだ。家も近くて、でもちっとも登下校が一緒にならない」

「でしょう」

「だね」


「けど、三年だったらそろそろ部活も引退じゃない? 一緒に登校できるようになるかもしれない」

「そうか、引退。……それって少しさみしいね。まだ三年になったばかりな気もするのに」

「そうだね、さみしいね」

 同じクラスの陸上部の男子生徒の顔が頭にうかんだ。彼もまた、風のように走る人だ。あんな風に軽々と駆けてみたいと思っていた。

 そんな姿も見かけることがなくなるのだろうか。それはやはり、さみしいものだ。


「けど、スポーツそのものをやめてしまうわけではないから」

 香奈がつぶやいた。あまりに自分の心情にぴたりとくる言い回しに、鼓動が跳ねた。

「そうだね、やめるのとは違う。うん」

 きっと彼なら、部活に出なくなっても走るのはやめない。場所ならいくらでもある。郁が自転車に乗るのと同じ時間に、別の場所を走っていることもあるかもしれない。

 彼の存在自体は好きでもないが、あの見事な走りっぷりが損なわれるのは嫌だった。


 走る姿は、見ている者にまで風を感じさせるもので、――いましがたの香奈の歌声と、どこか通じるものがある。

 同じものが郁も欲しい。

 見渡すかぎりどこにも、つかめそうなものは見当たらなかったけれども。

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