第四話
「あ。ねえ見て、すごい」
並んで歩いていた香奈が足を止め、指さす方へ首を回した。
「わ。たのしそう」
陽の当たる広場で、ジャグリングを披露している男性がいる。
手のひらサイズの透明なボールが、きらきら光りながら空を舞う。
かろやかに飛び交う硬質な光に目を奪われた。
四個のボールが、あらかじめ組まれたプログラムに添っているかのように、めまぐるしく動く。
操る手はしなやかに反り、動きに迷いは見られない。
(プロなんだなあ)
腕を伝い、指先で転がり、また中空を飛ぶ。
郁は心からの拍手をおくった。
返礼もじつに優雅だ。
「見事だぁ」
うっとりとしてつぶやくと、香奈がやわらかく目を細めた。
「こういうのが好き?」
そこに宿る光に好意的な色をみて、こそばゆさを感じる。
「うん。なにか、これっていうものを持ってる人ってうらやましい」
どれほどの修練を積んだのかと思う。ひたむきな情熱は、人を輝かせる。
「いいな、ああいうの。まぶしい」
「ひとを楽しませられるから?」
「いえ。自分のためだけにやってみたいなって……」
答えながら、すこし自分が恥ずかしくなる。
「あ、えと、ひとの役に立つことが嫌いなわけじゃなくて。――ひとを気にせず、自分のためだけに努力してみたいな、と」
「そう。郁は真面目そうだもの。努力家なんだね」
「え」
ぱっと顔の赤くなるのが自分でもわかった。
「そんな。身勝手に振る舞いたいって言ったんだよ。このところ、ずっとそう願ってるんだ」
「たとえばどんなふうに?」
「たとえば――」
性別を変えるとか。別人として振る舞うことに喜びを見いだすとか。
「日常を忘れて、気ままに過ごしてみるとか、かな」
「今はその最中? 夏休みでしょう」
「そうだね。学校もないし、自由な時間を楽しんでる。香奈さんは? 大学生?」
「高校生」
「三年?」
うなずく香奈に、郁は感嘆の声をあげた。
「一緒! うわあ、やっぱり嘘みたい。うちの学校に、香奈さんみたいな大人っぽい人はいないよ」
「そう?」
香奈は楽しげな声をあげる。
「それって褒めてもらってるのかな」
「もちろん。だって香奈さんきれいだもん。相当あれでしょ、モテるでしょう」
「まさか」
目を伏せて首を振る香奈の表情は渋い。
「学校では目立たない方だから」
「嘘だ」
「本当。友人はね、人気があるよ。足が速くてうらやましい。それに比べると私は全然。
大人びて見えるのも、きれいに見えるのも、お化粧のせいじゃないかな。普段はしないの。今日はたまたま」
「ふうん」
たしかにこの年でかっちりとしたメイクをするのは年相応とは思えない。香奈に感じる違和感も、そこから来ているものかもしれない。
「まあちょっと背伸びしている風ではあるよね。けど、香奈さん上手に顔作ってるけど、自分でやってる?」
「これは姉が」
「さっきのお姉さん?」
「そう。年がね、離れてるんだ」
「似てないよね」
失礼かと思いつつも、つい正直な感想が口をついて出る。
香奈は気を悪くした素振りもみせず、肯定した。
「そうだね。姉は、私とちがって優秀だから」
「そうなの?」
「頭がいいの。たまに勉強をみてもらってる」
「いいな!」
勉強につまずいてはいないけれど、身近に相談できる相手がいるのはうらやましい。
「オレ、一人っ子だから。あこがれるんだ、お姉さん」
「私もべつに同居しているわけではないから、それほど顔を合わせないけど」
「そうなの?」
社会人ともなれば、家を出るのは当然のことなのだろうか。
成人したとはいえ、大学は自宅から通うつもりの郁には、まだそこまで頭が回らない。
「それでも、いるのといないのとでは違うかな。頼りには、……してる」
「うんうん。それに、兄弟がいると親の目も分散されるだろうし。いいね」
「それは、どうかな。まあね」
歯切れ悪く相槌をうつと、香奈は前方を指さした。
「あそこでいい? 暑いよね、涼しいところに行こう」
指し示したのはこぢんまりとしたカフェだった。深緑のオーニングが深い影を作り出しているが、客はもっぱら屋内に引っ込んでしまっていて、野外席は空席が目立つ。
「いらっしゃいませ」
連れだって店内に入ると、さっと冷えた空気が身体をつつんだ。
「はー。涼しい」
ほっと息をつくと、香奈が笑った。
「冷たいものを飲む? それとも食べる?」
「うーん、飲む!」
ふたりがけの席に向かい合って腰かける。
(やはり目を引く)
あまりまじまじと見つめてはいけないと思いつつ、視線が引き寄せられる。
同じクラスの美桜と比べると、際だった美人というわけではない。雰囲気は柔らかく、姿勢は伸びていて、今時めずらしい楚々としたたたずまいだ。
(意外とさばさばしていそうだけど)
見た目に反し、言葉遣いは淡々としていて、つかみどころがない。
なにより一番心惹かれるのは、静けさをたたえた澄んだ瞳だ。
(落ち着かないけど、でも)
なぜ彼女だけがこれほど心にかかるのかわからずにいる。
これが異性であったなら、恋に落ちたのかと勘違いしてしまうところだ。
それほど胸が騒いでいる。瞳の奥にあるものを、知りたいと思う。
「ええと、……なにか変かな」
気まずげに香奈が瞳を逸らした。
「あ、ごめん」
見つめすぎだ。郁はふるふると首を振った。
「違う。見とれた。失礼だったね、ごめん」
「……郁といると、自分がたいそうな美人に化けたような気分になるよ」
「香奈さんはきれいだよ。雰囲気がとてもきれい。オレは好きだ」
香奈は一瞬目を丸くして、それからくすくすと笑い出した。
「口説かれているのかと思うよ。あけっぴろげに言うね、それは天然?」
「えっ」
反芻し、郁も今の発言はあんまりだと気がついた。
「あ、えっ、ごめ……」
(初対面で好きとか、たしかにないわ)
完璧に同性目線で会話をしていた。
「ちがう、ごめん。ちがうって、好きなのは違わないけど、そういう意味じゃないってことで……」
「いいよ、わかってる。ありがとう」
「うん」
いたたまれなくなって、わずかにうつむく。
(なにやってるんだろ)
男でいるというのは、なかなかに難しい。
「決まった?」
問いかけられて視線を上げると、香奈がメニューをつついていた。
「あ! っと、うん。決めた」
香奈が手をあげてウェイターを呼んだ。
「私はアイスティー。郁は?」
「グレープフルーツジュースをください」
飲み物が届くのは早かった。
氷の当たる涼しげな音をたて、そのままのアイスティーを口にする香奈は、どこかストイックな雰囲気だ。
「香奈さん、甘いの苦手?」
手に取られることもなかったシロップを横目に、郁が問う。
「甘いのは嫌いじゃないけど、渋いのは好きかな」
「緑茶とか?」
「いいね。グレープフルーツも好きだよ」
(おお)
「一緒だ」
じんわり心があたたかくなって、ジュースをすすった。
なにが自分を浮かれさせるのかと疑問がよぎるが、喜びの分量が上回る。
「ねえ、香奈さんはどこの……」
通っている高校の名称を訊ねようとして、言いよどんだ。
問えば、同じ質問を返されるだろう。
(私は、どうしよう)
今の自分は、来週には存在しない。
言い訳が必要だった。
「どこの、何?」
「うん。どこらへんに住んでいるの。この近く?」
「家は円山」
「へえ!」
動物園と神社がある駅だ。少し独特な印象の、富裕層の住むところ。
正月と花見のシーズンは特ににぎわうものの、住宅街は喧騒からは距離を隔てて、密集している。
「郁は?」
「麻生」
地下鉄南北線の終点だ。こちらは雑然とした住宅街が広がっている。
学校の話題にうつる前にと、言葉を継いだ。
「もっとも、自宅は茨城なんだ。こっちには夏休みの間帰省しているだけで、来週には帰る」
「なるほど。向こうは暑いんでしょう」
「そうだね」
(たぶんね)
茨城にはいとこが住んでいる。行ったことはないけれど、天気予報を見るかぎり、暑いのには違いなかった。
「こっちにいる間は何をするの?」
とりたてて驚いた様子もみせず、香奈は紅茶を口にした。
「うーん、特に何も。知り合いもいないし、のんびりしてる。けど、今日は香奈さんに会えてよかったな。時間をもてあまさなくてすんだ」
「退屈なの?」
肩をすくめた。
「退屈ではないけれど、でも、誰かとこうしてお茶を飲むのは久しぶりだ」
「そう」
目を伏せて、香奈はためらいがちにこう述べた。
「もし、よければ、だけど。こっちにいる間、暇なんだったらいっしょに遊ぶ?」
「いいの?」
思いがけない誘いに、声がはずんだ。
「今週は私もあいているから。ひとりの気分じゃなかったときにでも、声をかけてくれれば」
「オレ、あと四日で帰るんだ。だからそれまでなんだけど、いつでもいい?」
「いいよ」
「本当に?」
「もちろん」
ほっと胸をなでおろす。
なぜ惹かれるのかはわからない。
もっと一緒にいたいと思った。
「ありがとう。ああ、じゃあこれ。連絡先教えて」
端末を取り出し、アドレスの交換をする。
どちらも、名字を口にはしなかった。
漢字のつづりだけ教えてもらい、『香奈』と打った。
その後、しばらく雑談を交わして、ふたりで公園をぐるりと巡った。
彼女との会話はスムーズで、返答に困る流れもなくてすんだ。
正直なところ、特定の人と長く会話を交わせばぎこちない点が出てくるのではないかと心配していた。
安心する反面、居心地の良さが不思議でもある。
初対面とも思えない好ましさを抱くが、同時に彼女が親しげな口をきいてくれるのが不思議だった。
笑顔に目を奪われる自分が不思議だった。
「またね」
そう言い交わし、香奈が乗り換えの駅で降りていくのを見送る。
透明感のある印象なのに、立ち去る足取りはしっかりしていた。
親しくなりたい気持ちが湧き上がるが、それは無理な相談だ。
せめて数日の間、香奈の存在を胸に刻み込みたいと願った。
その想いに、適切な名はつけられずにいた。