第八話
学園祭の本番前日に至るまで、奈月の周囲にはなぜか、やけにほがらかな郁の姿があった。
気がつくと近くにいて、目が合うたびに微笑みかけられる。
正直なところ、扱いに困った。
困るのは彼女に対してではなくて、己の気の持ちように手を焼いた。
教室の端から眺めているだけならば律しておける感情も、微妙に手の届きそうな距離をうろつかれてはたまったものではない。
近づかれると執着してしまう。
こだわりを持ちたくない彼は、意識しないふりをするのが精一杯だ。
現実は厳しい。
「いよいよ明日は本番だね、奈月くん」
名を呼ばれるたびに、くすぐられるのは、耳か心か。
「あっという間だった気がするな。どう、緊張する?」
表面をとりつくろうのだけは上手くなる。
会話を歓迎するふりをして、動揺を押さえつける。
「緊張はあまりしないかな。練習をつんだもの。むしろ楽しみ」
緊張しきりな沙也と異なり、彼女は努力を支えとして自信を育むことのできるタイプのようだ。
努力を積み上げることができるということそのものが、まぎれもない才能だと奈月は思う。
「まあ、僕も緊張はしないかな。上手くいくといいね」
クラスがひとまとまりになって行う最後の行事だ。
学園祭が終われば、学業に専念して、すぐに卒業を迎えるのだろう。
一年がたつのが待ち遠しかった。
少しでも早く大人になりたかったし、進学することで自らをとりまく環境を変えたいと願っていた。
「少し名残惜しい気もするね。準備、楽しかったなぁ」
郁がつぶやく。
「そうだね、こういうのって準備期間が楽しいものだから」
区切りを迎えてしまいたいはずなのに、こうして彼女と向き合っていると、時折この時間が流れ去るのがひどく惜しく感じられることがある。
同じ教室にいることも、挨拶を交わすこともなくなり、記憶は少しずつ損なわれていくのだ。
姿を見ることが当たり前の生活が終わってしまう。
とはいえ、どちらも進学先は同じ市内だ。
互いに望めば、縁が切れるわけではないと承知している。
ため息を押し殺した。
そんな未練が生じるあたり、距離が近づきすぎたのだろう。
(一方的に見つめているだけならよかったんだけどな)
気持ちを返してなど、もらわなければよかったのだ。
手放せなくなるのが、何より怖い。
過度の執着など、したくはなかった。
「奈月くん?」
彼女の指が伸びてきて、思わず身を引いてしまう。
「あ、ごめんね」
「いや、僕のほうこそ」
どれほど意識しているのかと、情けなく思う。
おそらく、顔にかかっていた髪を払ってくれるつもりだったのだろう。
不要といえば不要だが、避けるほどのことではない。
(感じ悪かったろうね、今のは)
もしかすると、忘れてしまえる距離は、とうに過ぎているのかもしれなかった。
所在をなくした彼女の指が下りていく。
奈月は拳をきつく握りしめた。
そうしないと、離れる指を引き寄せて、温もりを確かめたいという欲求を抑えることができそうになかった。
郁が好きだ。
(しかしだから、どうだというのだ)
恋愛感情と呪縛と、どこが違うというのだろう。
人を絡め取り、周囲を傷つける。
罪と情の違いなど、奈月にはわからない。
「明日は、皆が楽しいと思える出し物になるといいな」
気を取り直したように、郁が言う。
「そうだね」
「私たちのクラスの皆だけじゃなく、見てくれた人も、皆がね。楽しかったら嬉しいなぁ」
最近気づいたことがある。
彼女はけっこう欲張りだ。
大きなことを望むからこそ、向上心が培われるのだろう。
「楽しいと思えることって、かなり大事なことなんじゃないかって思うんだよね。ほら、人を動かすエネルギーに満ちているでしょう」
「ん、まあ確かに」
「前向きな活力がわいてきて、健全だなって、そう思うの」
言葉は堅いが、言いたいことはわかる気がする。
楽しければ苦にならないということは、どこにでもある話だ。
「準備も練習も楽しかったし、このクラスでよかったよ」
太鼓班も、日々目新しいおもちゃで遊んでいるようなものだった。
「そうか、今日で練習もおしまいなんだね」
音にも馴染んできたところなのに、惜しいことだ。
そんな最終日の練習時間。
太鼓チームはえらくのんきに構えていた。
「太鼓もっと強そうにしようぜー」
音にある程度納得のいった彼らは、直前になって見た目にもこだわりだした。
「塗料どれか塗ろう、光るやつ!」
「どうせ光らせるなら、バチが光ったほうがかっこいいんじゃないか」
「オレはツノつけようかな、ごっついの」
「そうだ、山崎、ドラムやってんだろ。太鼓もドラム仕様にしたらどう?」
余りの太鼓を寄せ集めてロープで固定しようとするクラスメイトを、太鼓班のリーダーをつとめる山崎が止める。
「しないからな! ひとつで十分だって」
「えー、箔がつくじゃん」
「つかないって。邪魔なだけ」
「でも目立つ!」
「持て余すからー」
ふたつまでなら使い分けようとするやつはいるが、それ以上を望む者はいない。
「でもこれ、楽しそうだけど」
ひとまとまりになった太鼓を、奈月が適当に叩いていく。
「おー、篠山やっぱりリズム感いいな」
経験者なのかと訊ねてくる山崎に答える。
「いや、見よう見まね。正確には叩けないよ」
「……これは出来るか?」
山崎が披露するバリエーションを、追いかけて模倣していく。
「あっ、これ難しいな。もう一回いい?」
「おう」
ところどころ手が追いつかなかったが、この気軽さはなかなか良い。
「なにそれ、オレもー!」
山崎と遊んでいるうち、どんどん人数が増えていった。
音がこんがらがって、収集がつかなくなる。
「さすがに山崎、上手いね。大学行ってもやるの?」
「たぶんな。お遊びだけど、一体感とか高揚感とか、クセになるし。篠山は? 向いてるんじゃないのか、やらないの?」
「うーん、かっちりやる気はないかなー」
山崎が残念そうに肩をすくめる。
「進学先市内だろ? 学祭とかイベントん時は呼ぶから、聴きに来いよな」
練習を通して、山崎とは仲良くなった。
(三上さんと引き合わせてやったら、喜ぶだろうな)
『 chord 』でドラムを叩いている三上は、迫力のある演奏をする。
(……とか、考える時点でやっぱり、なあ)
熱意さえあれば、卒業したからといって疎遠になるとは限らないのだ。
何か共通点があるなら、なおさらだ。
(熱意、か)
奈月のとっても苦手なやつだ。
情熱。熱意。こだわりと執着。
(そういや、郁が言ってたっけ)
楽しいと感じるなら、原動力は自然と得られると、そんなような話を先ほど交わした。
自らの忌避感を越えるだけの高揚感を得られたならば、あるいは彼女の手をとろうと思える日も来るのだろうか。
それはやはり、魅力的な反面、とても恐ろしいことのように奈月には感じられた。
クラス全員での合同練習のあと、孝と一緒に帰宅した。
沙也からのコールが鳴ったのは、家について間もなくのことだ。
『ちょっといいかしら』
「うん、なに」
沙也は唐突だった。
『奈月は郁のことをどう思っているの』
「ええと……?」
はたして、すぱっと答えを提示できる人間がいるのだろうか。
口ごもる奈月に、沙也は追い打ちをかける。
『いらいらするの』
「そう言われても」
理不尽のような気がする。
『ねえ、奈月。あなた郁のことを信用してないんじゃないの』
「信用?」
『おせっかいだというのは承知しているのだけど、いらいらするのよ』
それはさっきも聞いた。
『どうして中途半端な態度をとっているのかは知らないけれど、もし郁を他の誰かと比べているのなら、止めなよね』
痛いところをつかれた。
たしかに奈月は、母と誰かを比べてしまう癖がある。
比べるというよりは、恐れるといったほうが正しいだろうか。
情熱的であるということが、美徳だとは思えないのだ。
『郁は理性的な子だよ。そりゃあ間の抜けてるところもあるけど、そのぶん強いよ』
「……そうだね」
その理性的な部分が孝には煙たがられるのだが、奈月からすると、彼女のその行動に移す前にワンクッション入る慎重な部分が好ましく思えるのだった。
『だからさ、逃げないであげてよ』
言いたいことだけを言い捨てて、沙也との通話は切れた。
「何だよ、今の」
口にはそう出したものの、言いたいことが漠然とでもわからないわけではなかった。
叱咤激励の横槍のつもりなのだろう。
「不甲斐ないな」
まさに、いらいらするというのは率直な感想でもあったのだろう。
彼女が強いだなんて、そんなことはとっくに知っていた。
素直なのも、真面目なのも、頑固なのも知っているし、おそらく彼女は母のような取り乱し方はしないだろうなんていうのも、わかってはいるのだ。
(でも、なぁ……)
踏み出せずにいる原因はどこにあるのか。
結局のところ、恐れているのは彼女をではなく、己をなのだ。
夏休みに、一緒に作ったトンボ玉が視界に入った。
硬くて丸い、きれいな玉だ。
眺めているうち、郁の笑顔を思い出した。
楽しいのがいいと語る、澄んだ声音を思い出した。
「郁」
自然と手が伸び、端末を操作した。
自分の気持ちを確認するために、彼女の声が聞きたかった。
『――もしもし、奈月くん?』
とっさに声が出なかった。
自分でもどうかしてると思うのだが、まさか本当に、すぐに彼女が出るとは思わずにいた。
ましてや彼女の声に喜びがにじんでいることなど、予想していなかったのだ。
「こんばんは。特に用件があるわけじゃないんだ。今、平気かな」
『うん、大丈夫。嬉しいな、家に帰ってからも奈月くんとお話ができるの』
心臓に負荷がかかった。
(うわ、苦しい)
忘れていた。彼女は時折こうやって、捨て身の攻撃を繰り出してくるのだ。
息の止まるような衝撃に、耐えられると考えているほうが愚かだ。
(とっくに負けているのかな)
後戻りできるなどと、どうして思ったいたのだろう。
よほど、己の中の確執と折り合いをつけたほうが早いのではないかと、そんな気すらしてくるではないか。
「今、何をしていたの」
猶予がほしくて、そんな話をふってみる。
『沙也にもらった、合同練習の動画を見ていたところ。最初の頃のと見比べるとね、上達したのがわかて面白いんだよ』
「そんなに違うもの?」
『かなり違うよ。音にも動きにもまとまりが出てきたし、成長したのがよくわかるよ』
「そうなんだ。そういや、僕ももらったけど見てないな」
『見ようよ!』
「そうだね」
見たら必ず、自分の目は郁を探してしまうだろう。
それがわかっているから、見たくはなかった。
「太鼓と同じように、僕も成長できればいいんだけど」
意図せずに漏れたつぶやきを、郁の耳はひろってしまったようだった。
『自分では気づかなくても、人ってどんどん変わっていくのだと思うよ』
「え? ああ、ごめん。独り言」
『うん。そうだと思った。つい返事しちゃった。最近、変わったなと思うことが多かったから』
「何が変わったの?」
『たくさんのことが変わったよ。新しいお友達ができたし、こうして奈月くんと電話で話しているし、……それに少し、自分にも優しくなれたようにも思う』
「自分に過剰な期待をしなくなったっていうこと?」
『ううん、違うの。肩の力が抜けたのかな。実をいうとね、奈月くんのおかげなんだ』
「……何かしたっけ」
『そうだね。たくさんのことをしてくれたよ』
「そうかな。よくわからないけど」
むしろ、郁のほうがよほどいろいろなことをしてくれているように思うのだが。
『奈月くんといると、ゆっくり呼吸ができるんだよ。それがすごく嬉しいの』
「ふうん」
どう返事をしていいのかわからず、素っ気ない音が口から漏れた。
『このまえ、習うより慣れろだって言ってくれたでしょう。あれがよかったのかな、なんだか前向きな気持ちになれたから』
「……言ったっけ」
『言ったよ。これからも私たち、たくさんのことに慣れていかなくちゃいけないんだよね』
「ああ、気が重くなるような言葉だね」
軽やかな笑い声が耳元で響く。
『それでも私ね、奈月くんを見ていたら、この先の変化を受け入れるのもさほど大変なことじゃないように思えるの』
不思議だね、と彼女は言う。
『だからかな。一緒にいたいって思う。もっと言葉を交わしていたいって思うの』
少しためらった気配があり、彼女は告げた。
『奈月くんの考えていることがもっと知りたいなって思って……、あの、押しつけがましい印象を受けてしまったらごめんね』
「いや」
自分もこのまま彼女の声を聞いていたいと思っているのだから、お互い様だ。
「郁は前向きだね」
『そうかな。あまり自分ではそうは思えないのだけど』
「僕も、見習わないといけないかなぁ」
しみじみとつぶやいてしまった。
自分の抱える傷を自覚していた。
今も、強く誰かに執着するということに対しては批判的な目を向けてしまう。
その反面、郁を求める自分がいて、てこでも動こうとせずに居座っている。
(いや。むしろ、求めすぎてしまうのが怖いんだろうな)
母と、同じにはなりたくない。
(けど、そういうのもいい加減、ばかばかしいよなあ)
卑小な自分を笑い飛ばす程度には、彼女は堅実で前向きで、善意に満ちていて、温かい。
(まいったな)
「また、明日会えるね」
いくらか世間話をした後に、そう言って通話を切った。
次に顔を見て話すときには、気持ちの整理もついているだろう。
怯えよりも待ち遠しく思える時点で、答えは出ているようなものだった。




