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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第四章 : フォルクローレは空を飛ぶ
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第七話

 ぐっすりと眠って、起きだした週末の朝。

 えらく頭がすっきりしている。

 落ち込んでいたことなど忘れたかのように、身体も軽い。

 窓を開けると、まだ薄暗い外の空気は、攻撃的なまでに冷たく痛い。

 そんな刺激すらも心地よく目覚めを促す。


 郁は軽く身体を伸ばして、一日の予定を組んだ。

 一人でゆっくりと学業に専念して過ごしたいが、その前に。

(まだ起きてはいないだろうけど)

 端末を起動させてメールを打つ。


『おはよう、菜々。聞いてくれる?』

 前向きな気持ちでいられる今なら、何だって言えそうだった。

『堅実だからという理由だけで法学部を選んだことに引け目を感じていたのだけれど、ようやく割り切ることができそうなの。だから進路希望は変更なしの予定。菜々はどんな調子?』

 思い返せば、こちらからメールを送ったことなど、そうはない。

 それはいささか、不誠実な態度ではなかっただろうか。


『今朝は空気が澄んでいて気持ちがいいよ。このところ寒さも増しているから、本格的に雪が降る日も近そう』

 思いつくままに文章を入力していく。

『学園祭の最終日は晴れるといいね。最後のキャンプファイヤーって、聞こえはいいけど、単に廃材燃やしてるだけだよね』

 書いたはしから送信していく。


『そういえば昔の映画で、キャンプファイヤーを囲んでフォークダンスをするという場面を観たことがあるの。フォークダンスって本当にする人いるのかな。菜々は知ってる?』

 そこでいったん手を止めて、気になった疑問を解消しておくために、キャンプファイヤーとフォークダンスの関連についてウェブで調べた。

『やっぱり以前は国内でもあったんだって、フォークダンス。防火対策がとってあるとはいえ、火の近くで輪になって踊るのは少し怖そうだと思わない?』


 意外なことに、返事があった。

『ばかじゃないの。早起きにもほどがあるよ』

 顔がほころぶ。

『起こしてしまったのなら、ごめんね。私、いつもこの時間に起きるから』

『起きて何してるの』

『自転車に乗ったり。あとは勉強かな、この時間が一番はかどるの』


『やっぱり、郁は真面目だね』

『そうだよね、真面目でつまらないよね』

『でも、やっぱりばかだ。つまらないんじゃないよ、そこがいいところなんだよ』

 まばたきをする。

『励ましてくれてるの? 優しいね』

『ちがうよ。ばか、ばか、ばか』

『たくさんばかって言われちゃった』

『だってばかだよ。早朝からいきなりわけのわからないメールばかり送りつけるし。引け目とかいうし』

『ごめんね。長年のコンプレックスから抜け出せそうで、少し浮かれているの』

『なにそれ。もっとわかりやすく浮かれてよ。全然伝わってこないよ』

『そうなんだよね。表現力がないのが悩みのたねで』


『だけど、表現力のないばかっぽいところが、いいところだよ』

(……どういう意味だろう)

『?』

『愚直なところが、見ていて安心するって言ってるの!』

『そんなこと、初めて言われたよ』

『当たり前でしょ。誰が面と向かって愚直だなんて言うのよ』

『そっか』

『そうだよ。でも、郁は少し変わったよね』

『そうなのかな。変われたのかな。どう思う?』


『変わったよ。わけのわからない行動をとることが増えたもん』

『そんな不審な行動なんてしてないよ』

『してる。不安定になった。あたし、それがすっごくイヤだったんだけど、でも、郁がいいって言うならべつにいいよもう』

『ごめんね、よくわからないんだけど』

 そこで少し、返信までに間があいた。

『謝らないでよ。安っぽく聞こえるよ。謝るとしたら、こっちからだよ』

『どうかしたの?』

『依存してたかも。ごめんね』

『依存?』

 覚えはない。


『判断基準を郁にゆだねてた。郁の提示する正しさによりかかっていたの。だから、郁が正しさをないがしろにするのが許せなかった。身勝手だってわかってるの』

『だから怒ったの?』

 菜々の言うことは、少し難しい。

 そもそも、誰かの規範となれるような自分ではないつもりだ。

 それでも、彼女が言葉をぶつけてくれることは素直に嬉しい。

 やりとりが続くことも、返事をくれたことも、ばかと罵られることも。

 何気ないようで、尊いことではないのだろうか。


『ミオにとられたのもそりゃ腹がたったけど、ほんとはちがうの。目印でいてくれなくなるのが、裏切られたみたいだった。だから、ごめん』

『それは、じゃあ、頼りない目印だったね』

『そうなの。がっしりしてると思ってたのに、意外とふらふら動き回る目印だった。失敗だった』

 確かに自分は、このところふらふらしてばかりいる。

 菜々が言う。

『だから、当てにするのはもうやめようかと思ってたとこ。郁ってば、てんで頼りないんだもの』

『そうだね』

『そうだよ。そのかわりに、教えてよ。近頃、ふらふらせざるを得ないような面白いこと、あったんでしょ?』


 それから、時間をかけて二人でいろいろな話をした。

 文章だからこそ、出せた本音もあるのだろう。

 コミュニケーションのとりかたには幅があるのだと、そんなことも知らずにいた自分には、目新しい体験だった。

 未熟さを思い知らされる一方で、高揚もする。

(私はまだ、何を知らずにいるのだろう)

 これから何を、知る機会に恵まれるのだろう。


『じゃあまた、学校でね』

 やりとりはそんなふうに終わった。

 またね、などという曖昧な言葉が、最近の郁は気に入っている。

 何の確証もないような言葉に、込められている気持ちがあることに気づいたからだ。

 人を救う、優しいごまかしの言葉だ。






 そんな数々の罪のない約束に支えられて、週明けには学校へ行く。

 教室に、奈月が入ってくると胸がときめく。

 ちょうど沙也の席を挟んだ位置で、彼女に金曜の礼を述べていたところだ。

 この座席に座れることが羨ましい。

 まるで、彼がこちらに向かって歩いてきてくれるかのようだ。

(いいなあ)

 そうしたら、毎朝挨拶を交わして、授業中も気配を感じていられるのに。

 考えたら、羨ましくてたまらなくなる。


「おはよう、奈月くん」

 視界におさめてしまえば、目が離せなくなる。

「おはよう」

 いつもの柔らかな声に気持ちが安らぐ。

 どうも、彼は友人としてなら受け入れてくれるつもりがあるように思う。

 拒絶の言葉を向けられたのは、あの一度きりだ。

 彼の眼差しは今日も穏やかで優しい。


 距離をおきたいという彼の発言の裏にあるものを問いただしてはいない。

 期限のあることなのか、どのような接触を拒みたいのか、知っておくべきなのだろう。

 訊ねるつもりで訪れたカフェでは、途中でそんなことなどどうでもいいような気になってしまった。

 今も、話を蒸し返すことには若干の抵抗がある。

 せめて、学園祭が終わったあとでもいいようではないかと、先延ばしにしたい気持ちもある。

(とくに、こんなふうにあいさつを返してくれる場合には)

 そして、自分の気持ちがすっきりと片付いてしまった場合には。


 相手の意志は尊重したいから、彼が望むだけの距離は極力おこうと思う。

 けれど今の郁は、肩の力が抜けている。

 自分の衝動や欲求は、なるべく受け入れてやろうという傾向が芽生えている。


 開き直りともいう。

 高望みをやめて、ありのままの自分を受け入れた、などというのは大げさかもしれない。

 諦めたわけではなく、受け入れたのだ。

 荷物を置くことを覚えた。

 理想を掲げるのをやめた。気負うのをやめた。

 言い方は色々あるし、どれが適切というわけでもない。

 不器用なのが自分なのだから仕方がないという心境にある。


 親には心配をかけたくないのだから仕方がない。

 しっかりしていると思われたいのだから仕方がない。

 向上心を持っていたいのだから仕方がない。

 真面目にやっていないと落ち着かないのだから仕方がないし、

 彼にも惹かれるのだから、仕方がないのだ。


 母が他界したことがきっかけとなって、優等生であることを心がけるようになったのだと思っていた。

 けれどよくよく思い起こしてみると、元からかなり堅実なものを好む傾向にある子どもだった。

 父の負担を軽くしたくて、手のかからない子になろうとしていた。

 しかし、元来の性質をより強固な物にしただけとも言えることに気がついた。


 家庭の事情や個人の気持ちがどうあれ、元々郁はそういった人間なのだ。

 多少視野が狭くなってはいたかもしれないが、人が変わったわけではない。

 無理に真面目になろうとしていたわけでもない。

 息苦しくはあったけれども、それだって自分の思い込みのせいなのだろう。

 こうでなければならないという、枷を自分に課していた。

(奈月くんに会ってわかった)

 呼吸の仕方を教えてくれたから、重いと感じていた枷がまやかしの物だったことに気づくことができたのだ。


「そういえば、金曜の木琴の音色は素敵だったね。私、初めてちゃんと聴いたよ」

「ああ、シロフォンのこと」

 話しかけたら、あたりまえのように返事をしてくれることが嬉しい。

「シロフォンっていう楽器なの?」

「そう。木琴にも種類があってね、僕もシロフォンは好きだな。媚びてない音がして」

「媚びているとかいないとかってあるもの?」


「主観だけどね。筋が通っているような音がする。硬くてまっすぐな、乾いた音」

「まっすぐな音だっていうの、私も思った。きれいな音だったな」

「愛想や情緒がないなんていう人もいるけど、余計な反響がないのがいいね」

「楽器にもいろいろあるんだよね。私、あまり知らないな……」

「シロフォンの音のイメージは、郁に似てるね」

 さりげなく、奈月が言った。

 あまりのさりげなさに、理解するのに時間がかかった。

 まるで意識したそぶりもないので、おそらく当人も気づいていなかったのだろう。


(……好きって言った)

 シロフォンが好きだと言ったその口で、印象を自分にたとえた。

「うん、あの、ありがと」

 どうしていいのかわからなくなって、頭に血が上った。

 動揺をあらわにするのは恥ずかしい。

 深い意味などないとわかっているから、余計に。

「どうかしたの?」

「ううん!」


 それでも嬉しいものは嬉しい。

(好きだって。好ましいっていう意味だよね。好きなんだって……!)

 崩れそうになる顔面に、おかしな力が加わる。

(ああ、どうしよう。絶対今、へんな顔になってる)

 こんなことでにやけてしまうなんて情けない。

 だけど嬉しい。

 どんなニュアンスであっても、好きだと言ってもらえるのは嬉しい。


(私も好き。もっと好き)

 相手の負担にならないように、伝えていけたらいいと思う。

 種類などどうでもよかった。

 カテゴリー分けは必要ない。

「もっといろいろな音を聴く機会が増えていったら嬉しいな」

 少しでも好意が伝わるようにと願いをこめて、郁は奈月に笑顔を向けた。

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