第六話
「いらっしゃいませ。ごゆっくり」
注文したブレンドを運んできてくれたのは、がっしりとした中年の男性だった。
父よりは年かさだろうか。
オーナーかもしれないと、郁は思った。
「いただきます」
運ばれてきたコーヒーは香り豊かで、器も渋くて格好の良いものだ。
外装を見たときにも感じたのだが、チェーン店とは異なる節々のこだわりが、居心地の良さをかもしだしているのだろう。
口に広がる苦みが、香りとともに郁を満たす。
「おいしい」
気づけばそうつぶやいていた。
いれたての味は贅沢なものだ。
いつしかピアノの演奏は終わっていて、沙也もようやく普段の調子を取り戻した。
「奈月は?」
眼中になかったということだろうか。
今更そんなことを言う。
「向こうでマイクを持ってる」
歌うときにマイクを持つというのは、いつごろからのならわしなのだろうか。
集音装置は多様で、本来であるならばマイクにこだわる必要はないのだ。
それでもステージにマイクが一本立っていると、場がひきしまる心地がするのが不思議だった。
時間帯のせいだろうか、客席の年齢層は高めだ。
歌姫は慕われているらしく、あちらこちらで「おめでとう」と声がかかる。
ジェマは背の高いスツールをマイクの正面に置くと、ギターを抱えてつま弾き始めた。
ハッピーバースデイのメロディだ。
「素直な人だね」
胸を張って自分の存在を主張できる姿が潔く思えた。
低く艶のある声が、自らの誕生を歌い上げる。
客席からも唱和する声が上がり、口笛が交差する。
彼女が歌うだけで、店内が祝いの場へと切り替わる。
(とても力強い声。いいなぁ、格好いい)
堂々としていられる人は素敵だ。
とても難しいことだからこそ、そう思う。
弾き終えて笑う彼女に、拍手をおくった。
そこからはにぎやかだった。
さきほどコーヒーを運んできてくれた男性がベースを持ち出し、沙也の思い人だという人は再びピアノを弾き始めた。
ジェマに合わせて奈月も歌い出し、客席ではリズムをとる人もいれば、奥から木琴を運んできて弾く人もいた。
木琴の音色をじっくりと聴いたことがこれまでなかった。
硬くて軽快な音が愉快だ。
気ままな洋楽のメドレーが始まった。
「音楽ってパワフルだよね」
そう声をかけたが、沙也は再びピアノに夢中だ。
(うん。沙也のこの集中力もすごい)
かっちりとしたコンサートとは違って、音がいかにも適当に遊びながら跳ね回っているのが楽しかった。
時折肩すかしを食らわせるような外れた音が鳴ることもあり、そのたびに客席がわく。
豊かな余暇の過ごし方だと思う。
ふと、父にも気楽に音楽を楽しむ機会があればいいのにと願う。
店内はしっとりとしつつも陽気な空気が流れていて居心地が良い。
それは、来店する人々が楽しみ方を知っているからだというのも一因ではないだろうか。
背負った荷物を置いて安らぐことのできる人が、ここには集っているのだろう。
そこまで器用に切り替えることができない人というのも、世の中には多いはずだ。
ジェマの歌声は生命力に溢れていた。
気づくと彼女を目で追ってしまう。
彼女には及ばないものの、奈月の声も澄んでいて、郁の心を芯からゆさぶる。
夏の日に、歌ってもらったあのときを思い出す。
草原をわたる風のように、重さを感じさせない声をしている。
質感のあるジェマの声に、からんで溶けて流れていく。
軽くて、自由で、広い空を連想させる歌声に、心がさわぐ。
(こんなふうに歌える人だから、私のところには留まってくれないかもしれない)
憧れても、同じにはなれない。
見上げるばかりで、自分には飛ぶことができないのだと知っている。
地に足をつけていることにしか能がない。
根を張った足を重く感じても、無理にはがすつもりなど本音の部分ではまったくないのだ。
(堅実で、つまらなくて、しがみついてばかり)
コンプレックスが根強くとも、分かたれたいとは考えていない。
自分の有り様を変えていけるとも思っていない。
せいぜいが、ほんの一週間だけ他人のふりをして息抜きをするくらいだ。
あのころは無性に我慢がならなかった。
進学先も就職先も、なんてつまらない選択しかできないのだろうと感じていた。
今もそれは変わらない。
だが、自分が好んで選んでいるということにもとうに気づいている。
(結局私は、地面にへばりついているのが好きなんだ)
だから何も歌えない。表現もできない。
重たいばかりで、伝えたいものなど存在しない。
自分でないものには、なれないのだ。
――セッションは続いていたが、一足先に切り上げた奈月が席へと戻ってきた。
「見られていると落ち着かないもんだね」
冗談めかして口元をゆがめる彼との間に、距離を感じる。
確かめたくて、手を伸ばした。
届くとは思ってなかった指先が、彼の袖口に触れて驚いた。
「うん?」
(どうして避けないんだろう)
理不尽だと感じた自分の感情のほうがよほど理にかなってはいないのだが、手が届かないはずの人に手が届く、そのことにとまどいを覚える。
「ごめん」
ひっこめる指先を、奈月の目が追う。
距離を置きたいと言われたばかりなのに気安く触れてしまったことを、不快に感じていないといいのだが。
「……このお店には、音楽が好きな人が集まっているんだろうね」
こうして音楽に身を浸していると、区切られたこの空間の中では音楽の途切れることなどないかのような錯覚におちいる。
「いつでも来店すれば音楽とコーヒーが出迎えてくれる。そう思えたら、お客さんも幸せだろうね」
「いつもはここまで浮かれた空気ではないよ」
「それでも、ここには音楽があるんでしょう?」
羨望のままに訊ねると、奈月は不思議そうに目を細めた。
「音楽は、どこにだってあるじゃない」
(ないよ)
反発がわき起こる。少なくとも、郁の家には音楽はない。
「音楽を生み出せる人のところにはあるのかな。私の周りには、ないと思う」
「そうかな」
「そうだよ。私はピアノも弾けないし、歌だって歌えないもの」
淡々と語る郁に、奈月は透明な微笑みを浮かべて言う。
「歌えないことはないでしょう。友達とお喋りをするように、おやつを食べるように、歌いたいときには歌えばいいんじゃない」
「奈月くんは、そんなふうに自然と口をついて歌があふれ出てくるの?」
「僕はべつに、音楽どっぷりの生活なんてしてないけどね。口ずさむことくらいはあるよ」
郁はないのかと訊ねられて、返事に困った。
「……わからない」
そんなささいなことですら、自信をもって答えられない。
「意識しないで何かをするなんて、私にできるのかな」
何気なくつぶやいた一言に、奈月が吹き出した。
「え、えっ。どうして笑うの」
「いや、だって、おかしなことを言うもんだから」
「おかしくなんかないよ!」
理性でがんじがらめになるのが怖くて、退屈で、重荷なのだ。
気持ちのおもむくままに行動できる人に、ずっと憧れ続けている。
だからちっとも、おかしくなどない。
「そんなこと言って、さっきも音楽にあわせて、身体がふらふら揺れてたよ」
からかいの混じった声で告げられる。
「うそ」
「本当。それに今も、そんなふうに赤くなって。意識して赤くなってるわけじゃないんでしょ、おもしろいね」
「お、おもしろくは、ないよ」
赤いと言われると、とたんに熱くなっているように感じる。
受け答えまでぎくしゃくして、郁は困った。
「恥をかきついでに言うけど、私のコンプレックスなんだから。行動の前にいろいろ考えちゃうような、柔軟性に欠けるところとか」
「ふうん?」
ちっとも伝わっていないような返事をされる。
「面白味のないところとか」
「へえ」
真面目に聞こうとしない奈月を意識して睨む。
「奈月くんのことだって、羨ましいんだから。気の向くままに歌えるしなやかさが、私にもあったらいいのにって……」
くやしさが突き上げて、唇を噛む。
「どうしたの、めずらしく感情的になってるね」
「ごめん、そうかも」
「謝ることないよ、むしろお得感があるくらい」
「なにそれ」
たぶらかすような、肌に染みこむような、柔らかな声が告げる。
「歌うだけが音楽じゃないよ。さっきジェマさんの歌を聴いてるときの郁は、楽しそうだった」
聴くのは好きだ。
「けど、やっぱり歌える人がうらやましい」
「上手になりたいってこと?」
「ううん。表現ができるということ」
「習うより慣れろだよ。一緒に歌う? そのうち慣れて、好きに歌えるようになるかもよ」
「一緒に……?」
とろけるほどに、甘くかぐわしい提案だった。
肩のこわばりが解けていくのを感じる。
郁は深く呼吸をくり返した。
自然と顔がほころんでいく。
奈月のかたわらにいるときだけ、どうしてこれほど、胸のつかえがとれた心地がするのだろう。
「なんだか、奈月くんが言うとどれもたいしたことじゃないような気分になるね。人をたらしこむのが上手いのかな、才能だね」
「それ、褒められてる気がしないんだけど。いや、普通にけなしてるよね」
「そんなことないよ。……ありがとう」
歌うというのは、ただの比喩だ。
寄り添えなくてもいい。彼の気持ちが嬉しかった。
励ましの言葉が、胸に染みた。
そして思った。
やはり、この人が好きだ。
その気持ちが軸となって、不思議と自分のことまでもが認められるような感覚があった。
(ありがとう。大好き)
晴れ晴れとした顔を、向けることができた。
「帰るね」
「郁?」
「奈月くんのおかげで、少し元気が出たよ、ありがとう」
そっぽを向いている沙也をつつく。
「先に帰るよ。沙也はどうするの」
「まだいるわよ。ピアノ聴いていたいもの」
「あとでまた連絡するね。沙也も今日はありがとう」
「ええ、気をつけてね」
「帰るの? 一人で?」
「うん。タクシーだから」
一人になって、少し気持ちを整理してみたかった。
目の前の、奈月が何か、大切なことを教えてくれたような気がしていた。
「また来週、学校でね」
「そう、おやすみ」
会計を済ませ、手を振って、店を出た。
扉を抜けて音楽が途切れても、身体の内側にメロディがくすぶり続けているようで、足先でビートを刻んだ。
タクシーの中で考えた。
奈月のセリフのひとつひとつが、郁を作り替えていくかのようだった。
こわばって落としどころを見失っていたわだかまりが、順にはまっていくような感覚がある。
(――ああ)
安堵のため息をつく。
視界が晴れる。
歌うだけが音楽ではないと、彼が言った。
自らが風を感じさせる存在にはなれなくとも、大地にとどまったままでも、風を感じることはできるのだ。
一緒に歌ってくれると、彼は言った。
全てを自らで体験したいなど、傲慢というものだ。
背中を支えてくれる人がいるだけで、なんと幸せなことなのだろうと胸が震える。
凝り固まった自分を、おもしろいと笑い飛ばしてくれた。
彼の耳が、どこでも音楽を拾い集めるように、彼の目には自分も個性ある存在として映っているのだろうか。
そうだとしたなら、どれほど勇気が与えられることだろう。
彼の目に、自分の見知らぬ側面が映っているのだとしたら、今よりもっと自分を受け入れることができるように思う。
見限る必要など、ないように思う。
堅実なルートしか歩めない自分が嫌いだった。
けれどようやく、ここに至って、そんな自分すらも認められるのではないかと思い始めた。
自分にはない輝きを放っている人を見上げるばかりでも、受け取るばかりの人間がいたっていいのではないかと、おそらく今なら許容できる。
性格も進路も、前向きに捉えることができると思う。
(奈月くん)
大切な人だ。
自分とはまるで異なる、不思議な人。
彼のおかげで、知らずにいた感情や経験を手にすることができた。
(私に、どんなお返しができるだろう)
彼は自分に、何を望んでいるのだろう。
いつか感謝を、伝えられる日が来るだろうか。
いつか同じ歩調で、歩める日が来るのだろうか。
夜は深く、静けさに満ちていた。




