第五話
郁のメンタルがいささか不安定であったところで、物事が進んでいくのは変わらない。
授業中は普段通りの顔をみせている学内が、放課後に突入したとたんに浮き足立つ、この切り替えの早さは見事なものだ。
こういった行事の際に顕著なのは、人の輪が広がることにあると思う。
郁の周囲でも、これまでの日常とは異なる時間の流れの中にあるかのように、人が入れ替わり立ち替わり、流れるように関係も変化していく。
親しかったはずの人とは疎遠になり、遠い存在であるように感じていた人とはよく話すようになった。
好意を抱いていた人には線を引かれ、挨拶くらいは交わしたいのに、どう声をかけていいのかわからない。
学業は順調で、クラスの出し物の準備も順調。
誰もが己の成すべきことを理解しているような顔をして、くるくる動き回っている。
郁も相変わらず、クラス委員として実行委員の手助けをしつつ、昼休みと放課後にはダンスの練習に参加していた。
「今日からいよいよ、合同練習ね」
高いレベルで美しさを維持できる、美桜は本当にまばゆい。
肌つやは良いし、瞳には光が満ちて、声にも張りがある。
言動には自信があふれていて、意志の強さをうかがわせる。
前向きでいられる強さを、羨ましく思う。
同時に、引け目を感じることもある。
並び立ちたいわけではないが、彼我の差は大きいなと、感じ入るわけだ。
(私はたぶん、少し疲れているんだ)
眩しくて、目がくらむ。
「やっぱり、全部通してやってみないとわからないことってあるもの」
衣装をチェックしながら、美桜が言う。
やってみてわかることもあれば、それでもなおわからないこともありそうだ。
たとえば、友人との仲直りの仕方とか、離れてしまいそうな気持ちのつなぎ止め方とか。
(どうすればいいのか、望ましいのか、わからないのはつらいな)
道筋の見えない物事に対処するのは苦手だった。
型にはまって動くことに慣れていすぎた。
「音がつくと、違いそうだよね」
「叶が録画してくれるって言ってたわ。楽しみね」
「うん、聞いた。そうだね、自分たちの感覚だけじゃわからないものね」
振り付けを間違わないようにすることにばかり気が向いて、全体像などおそらくは把握できない。
録画したものをチェックできるのは有り難かった。
おそらく、新たな問題点や、重点をおいて練習すべきポイントも見えてくるはずだ。
無様をさらすような真似だけはしたくない。
(最終学年だし、沙也もあれほど頑張っていることだし)
何より、皆と一緒に体を動かすのが楽しかった。
音楽がついて、より一体感が得られたなら、それは学園祭の趣旨とも合致するはずだ。
今年のテーマは、『調和』。
テーマを気にする学生などいないと知ってはいるが、自分のクラスの演目にもぴったりだと、ひそかに郁は感じていた。
調和をとることは美しいが、維持することは困難だ。
不可能と言い切ってしまってもいいかもしれない。
(人間関係も一緒なのかな)
良い間柄を継続してはいられないものだろうか。
(努力とか、歩み寄りとか……。そういう事柄に、意味がないとは思いたくないけれど)
気を抜くと、つい奈月のことを考えてしまう。
きちんと受け止めようと思っていても、つい思考は後ろ向きなものへと流されがちだ。
それだけ不意を突いた要求だったというのもあるだろう。
心の準備など、まるで出来てはいなかった。
けれどそれ以上に、郁がのめり込んでいたということだ。
見苦しいほどに必要としているから、受け入れられずに悩むのだ。
「委員長さんったら。難しい顔して、何考えてるのよ」
視界を美桜の整った相貌で埋められる。
「え、ごめん」
他の人といるときに思考にのまれるなど、失礼な振る舞いだった。
(ああでも、小島さんなら、叱りとばしてくれるかも)
背中を押してくれたのは、記憶にも新しい。
郁とはまるで異なる方向を見つめていそうな彼女なら、新しい考えを聞かせてくれるかもしれない。
そんな期待を抱いてしまう、それだけの求心力が彼女にはある。
「人と人との間柄が上手く働くのに、一番大切なことは何だろうって考えちゃって」
「なにそれ。上手くいってないの?」
美桜の視線が教室内をさまよう。
奈月を探したのだろう。彼は今、生物室だ。
友人と連れだって、出ていくところをしっかり見ていた。
「よくわからないの」
「ケンカしちゃった?」
首をゆるく横に振る。
距離を置こうといわれた原因は、不明のままだ。
「そうじゃないと思うんだけど、いろいろあるみたいで」
アドバイスをもらおうとしているのに、提示できる情報はあまりに少ない。
「そうねえ。なんにせよ、一番はタイミングね。で、次が思いやり」
「タイミングと思いやり?」
「そう。すごく大事ね。つまり、半分は運ってこと。んー、少しは観察力も必要かしら」
「そっか。一人のことじゃないものね。自分の都合では動かないよね」
どうってことないとでも言いたげに、美桜が肩をすくめる。
「まあ、時期が合わないなら考えても無駄よ。ちょっとだけでも待ってみたら?」
「ありがとう」
はっきり言い切る物言いに、やはり強いなと感心する。
「あとはきちんと話すことね。言わないと伝わらないし、やっぱり大事よ、会話」
(話してくれるかな)
弱気がさしながらも、わずかばかりの笑顔を取り戻して、うなずいた。
放課後に行った合同練習では、直後の録画チェックで反省点も見えてきて、翌週への課題も明確になった。
本番までの計画はゆとりをもって組んであるし、ここからはより完成度を高めていく作業になるのだろう。
低学年のクラスでは、まだ形にもなっていないと焦る声も聞こえてくる。
そのあたりは三年目の余裕ともいえるだろうか。
予定通りに作業が進むというのは、実によろこばしいことだ。
合同練習後の打ち合わせは普段よりも念入りにおこなった。
時間もかかったために、帰り際、奈月の姿を探したのだが、どうやら既に帰宅してしまったようで、鞄もない。
「どうかしたの?」
沙也が訊ねる。
「うん、ちょっと。奈月くんと話がしたかったんだけど、もういないみたいだね」
電話をかけても、迷惑ではないだろうか。
おそらく、喜ばれはしないだろう。
(電話は、あまり望ましい手段ではないようにも思うし)
週が明けるのを待つべきだろうか。
考えを巡らせる郁に、沙也が思わぬ提案をしてきた。
「会いたいの?」
「え。うん」
「それなら会わせてあげる。今晩……、そうね、九時。出てこられる?」
午後の九時。父にはいい顔はされないだろうが、タクシーを使うと約束すれば見逃してもらえるはずだ。
「たぶん大丈夫」
「ちょうど私も、久しぶりに聴きに行きたいなと思っていたところなの。待ち合わせをして、一緒に行きましょう」
珍しくそわそわとして、沙也がほんのりと頬を染める。
「どこへ?」
「生演奏のある喫茶店。コーヒーがおいしいのだけど、なんといっても、やはりピアノが一番なの」
ひっそりとたたずむその店舗は、エクステリアに温かみのある生木が一見無造作に配されていて、入店する前から落ち着いた雰囲気を予感させた。
直線的な光が交差して文字を記すような流行のスペクタクルもなく、ほのかな橙の間接照明が寄せ木のグリーンを照らすのみとなっている。
「こっち」
沙也に導かれて訪れた『 chord 』というカフェの入り口には、小さな赤い和傘をさした陶器の蛙が出迎えとして置かれている。
「あ。かわいい」
郁が足を止めると、沙也もこれは初めて見るといって教えてくれた。
「オーナーの奥さんがね、こまめにディスプレイを変えるらしいの。これもきっと、その人の趣味ね」
「そうなの。どんな人?」
「会ったことがないの。オーナーならいると思う。今日は歌姫の誕生日らしいから」
そんな日にお邪魔しても良いものかと一瞬ためらったが、店は営業中で貸切の掲示もないのだから構わないのだろう。
沙也に続いて、店内へつづく扉をくぐる。
扉は防音効果の高いものを使用していたのだろう。
くぐるなり、豊かなピアノの音色に包まれた。
曲目は『月光』だ。
ひとつひとつのライトが存在感を持ち得るほどに光度が抑えられた店内は、思った通りに落ち着きのある雰囲気だった。
ステージに置かれたマイクの前には誰も立ってはいなかったが、脇に配置されているピアノの椅子には若い男性が腰かけてなめらかな指運びを披露している。
「私の片想いの相手を紹介するね。須藤 海さん。奈月のお兄さんの奥さんのいとこ」
沙也の言葉に驚いて目を向けると、目のあったその人は、わずかに目元をほころばせた。
「……大人だぁ」
沙也が浮き足立っているのが隣に立っているだけで伝わってくる。
「素敵でしょう」
曖昧に郁はうなずく。
(あ。いた)
隅の席に、奈月がこちらに背を向けて、座っているのをすぐに見つけた。
袖のないシャツに、フレアのロングパンツを身につけた大人の女性と何やら話し込んでいる。
年の頃は、二十代後半だろうか。
エキゾチックな肌の色と大きな目鼻立ちの、存在感のある女性だ。
黒髪が豊かに背中へと流れている。
大きな花飾りが似合いそうな、迫力のある人だった。
「あれがジェマさん。今日の主役ね。歌うと格好いいのよ。ドラムの三上さんと婚約中」
訊ねもしないうちから、沙也が教えてくれる。
その婚約者だという三上さんとやらの姿は見えないらしい。
「いつも来るのが遅いの。私もほとんど見たことないのよ」
一度見ると忘れられないほど筋骨隆々のたくましい人なのだという。
「二人はけっこうお似合い。そういうのを見ると素敵だと思うけど、自分が子どもなのを思い知らされるようで落ち込みそうにもなるの。だから今は、いなくて良かったのかもしれない」
場所とピアノのせいだろうか。
いつになく沙也は饒舌だ。
ジェマが席を立ち、振り向いた奈月が唖然とした表情をみせた。
沙也がひっそりと笑う。
「見て、間の抜けた顔をしてる。行きましょう」
奈月の顔に浮かんでいるのは、純粋な驚きのようだった。
そこに怒りや拒絶の色は見当たらないことにほっとする。
もとより、歓迎されるとは思っていない。
嫌な顔をされなかっただけでも上等だ。
「こんばんは。奈月くん」
「……こんばんは」
「座ってもいい?」
訊ねると、ようやく奈月は表情をとりつくろい、椅子を示した。
「どうぞ」
そう言いながらも、沙也へと向ける眼差しが物言いたげだ。
余計なことをするなと、文句のひとつも言いたいのだろう。
(ごめんね)
それでもやっぱり、会って話がしたかったのだ。
「あの人、香奈さんのいとこなんだってね」
ピアノ弾きへと目を向けると、奈月は諦めたかのように肩をおとした。
「よく知ってるね。だけど近づいちゃだめだよ、いじわるをされるからね」
「そうなの?」
「そう。誘われてもついて行っちゃだめだよ」
「うん。わかった」
しかしそれが沙也の好きな人だというのだ。
反論のひとつでも来るのではないかと思ったのだが、見ると沙也はうっとりとしてピアノの演奏に耳を傾けている。
「ほらね。たぶらかすのが上手いでしょう」
そんな沙也の姿を、奈月は茶化す。
「それだけ魅力があるということなのかな」
「どうだかね」
気のないそぶりをみせる奈月だが、こうして近い距離で会話ができることが嬉しくて、甘いうずきがじわじわと胸に染みる。
(よかった)
相手のプライバシーに立ち入ってしまったのだとしたら申し訳ないが、それでも顔を見て、声を聞いていたかった。
それと同時に、強く思う。
(どうしても私、離れるのは嫌だ)
少しでも、たまにでも、会って話ができないだろうか。
「今日はね、あの人の誕生日なんだ。お祝いにね、スタッフが音楽を贈ることになってる」
奈月がジェマを示して言う。
「もしかして、奈月くんも歌うの?」
「何曲かはね。スタッフというわけじゃないけど。ジェマさんが戻ってきたら始まるよ、聴いていく?」
郁の顔がかがやいた。
「ええ、ぜひ」
来てよかったと、しみじみ思った。
「呆けてる沙也は放って置いて、郁は何を飲む?」
メニューをポップアップさせて奈月が訊く。
「おすすめはエスプレッソ。ブレンドもなかなか。あとは好みに合わせてかな」
「うーんと、ブレンドにする」
「ん」
店内には、コーヒーの香りがただよっている。
「コーヒーがおいしいって、沙也が言ってた」
「そうだね」
メニューには、豆の種類がずらずらと書かれていた。
飲み比べなど、してみたいものだ。
やがてジェマに手招かれて奈月は席を立った。
「また後で」
何気ない一言だったが、ここに居てもいいのだと容認してもらえたような気分になる。
「いってらっしゃい」
気が軽くなったせいか、とんちんかんな返答をしてしまった。
立ち去る背中を目で追う。
あの歌声に再び包まれるのだと思うと期待が高まる。
沙也には後で、きちんと感謝の気持ちを伝えておかなくては。




