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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第四章 : フォルクローレは空を飛ぶ
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第四話

 要望を素直に聞き入れてくれて助かった。

 相手の気持ちなど思いやる余裕もないまま、距離を広げた。

 そうすると途端に、寄り添っていようなどと考えたこと自体が誤りであったかのように思われた。

 自分には到底無理だったのだと、わきまえていなかった数日前までの自分を胸の内で罵倒した。


「彼女が出来たんだろう。連れて来ないの」

 夕刻のコードでコーヒーを飲んでいると、珍しく早くからのシフトに入っていた海にからかわれた。

 気持ちに区切りのついた後でよかったと思う。

 自分でもおかしなくらい平然としたまま、返すことができた。

「なにそれ。いたとしても連れて来ないよ。海さんにちょっかい出されるでしょ」

 口にすると、それは本当にたまらなく嫌だなと実感してしまった。


 顔をゆがめた奈月の表情をどう読んだのか、海が鼻で笑う。

「かたくなだね、青少年」

「ちゃらんぽらんなのよりマシです」

「何事も余白が大事だろう。少なくとも世の女性たちは、大人の余裕ってものに惹かれるようにできてるんだ」

「まさか」

 事実だったとしてもそんなもの、羨ましくもなんともない。

「まあ、大きくなればわかるさ」

 嫌味のない仕草で肩をすくめる。

 ろくな大人ではなかったとしても、大人は大人だ。羨ましい。


「今日は待ち合わせなんだろう」

「そう。香奈さんと」

「だったら、お目付役が来る前に話しておくけど、明日は暇?」

「僕?」

「そう。夜、時間は適当」

(受験生なんだけど。いや、それはまあいいけど)

 金曜の夜の予定を、怠惰な雰囲気をまとう三十路の男性に訊かれるのか。

(やるせないな……)


「空いてるよ」

 しかし、家にいる時間が短くてすむのはありがたい。

「デートは?」

「ないよそんなの」

 情けないなと、海がつぶやく。

 うるさいなと、奈月もぼやいた。


「だったら決まりな。ジェマが、明日は誕生日だから一緒に歌おうって」

「誕生日なの、ジェマさん?」

 海がうなずく。

「そう。自分の誕生日だから、自分で盛り上げるんだって言ってたな」

「かわいいね」

「だろ」

「前向きだしね」

「祝ってやれよ」

 奈月は気安くうけおった。


 しばらく店でぼうっとしていると、仕事を終えた香奈がやって来た。

「奈月くん、おまたせ」

 モノトーンの服装に肌触りのよさそうな薄手のコートを羽織って、現れるなり彼女は首を回した。

「今日は肩が凝ったわ。寒いとだめね」

「座ったら?」

「ううん、いいの」

 香奈は奈月の腕をとり、立ち上がらせる。

「ごはん食べにいきましょう。うちでだけど」


「おいおい、注文もしないで帰るの」

 香奈に気づいた海が、あきれた顔を向ける。

「食事の支度にだって時間がかかるの。それに私、コーヒーは食後のほうが好き」

 きっぱりと言い切って、香奈は海を追い払った。

「さ、帰りましょう」

 強いなと、しみじみ思った。

「ごちそうさま」

 ひらひらと手を振る海に見送られて、店を出る。


「けっこう寒いね」

 日が沈むと一気に気温も下がるようだ。

「そうね。温かいものを食べましょう。今日は伊月も早くに帰るって言ってたから」

「ああ、いるんだ」

 含むところがあるわけではないが、兄は不在のほうが居心地がいい。

「いるわよ。会いたがってたわ。今日は三人で水入らず。ね」

 気を遣わせているなと感じる。

「うん」

 好意は素直に受け取るにかぎる。

 まったく、兄には過ぎた人だ。


 立ち寄ったスーパーで買い込んだ食材の荷物持ちをして、兄夫婦の家まで歩く。

「今日は鍋よ。今シーズン初めてね」

「そうだね、僕も」

「伊月なんか、鍋はあまり好きじゃないって言うもんだから、あまり機会がないのよ」

「あの人、前からそうだよ」

「ひどい話よね」






 兄夫婦の家に着き、いつもと変わらぬ様子の兄に出迎えられた。

 堅物で、折り目正しい、理知的な人間だ。

 まったく、似てない兄弟だと自分でも思う。

 口を開けば正論しか吐かないような兄だが、弟の行く末には気を揉んでいるようで、ことあるごとに口出ししてくる。

 ありがたいとは思うが、全てを聞き入れられるわけではない。


「学校の調子はどう」

 ダイニングで鍋を囲むなり、伊月が訊ねる。

「もうすぐ学園祭があるよ。来週」

「奈月は何をやるんだい」

「んーと、合奏。歌とダンスと打楽器の集合体みたいなやつ。僕は打楽器ね」

 伊月と目が合うだけで、兄が何を言いたいのかが伝わって来る。

 奈月の話し方や姿勢がだらしないと、小言を言いたくてたまらないのだろう。

「太鼓を手作りしたって、奈月くん言ってたわよね」

「そうなんだ。けっこう面白かった。同じ材料使っても、それぞれ音が違っててさ」


 香奈が演目の詳細を訊いてくる。

 相槌をうっている兄も、おそらくそこにはあまり興味がないのだろう。

 時期的に、進路について話題をふられるかもしれない。

 過度な期待はしないでいてくれるといいのだが。

 くたくたになった、白菜がうまい。


 あらかたたいらげた鍋にうどんを投入して、お腹がいっぱいになった頃、伊月は本題を切り出した。

「奈月。進学を機に、一人暮らしを始めるというのはどうかな」

「僕の進学先、市内だけど」

「知っているよ。しかし、自立に向けてのいい経験になるのは間違いない」

「必要ないんじゃない?」

「なぜそう思うの。必要だろうに」

 表情をうかがってみれば、兄が本気で勧めているのがわかる。


「なんで急にそんなこと言い出すの」

「家にはいないほうがいい」

 説明は簡潔だった。簡潔すぎて、言葉が足りていないようにも思えた。

「いまさら?」

「奈月が成人したからね。ようやく、かな」

「ああ、なるほど」

 未成年の一人暮らしは推奨されてはいない。

 そんな社会通念を、律儀に守ったというわけだ。

 いかにも兄らしい物言いに、少し笑った。


「住まいを探すのも、書類を整えるのも協力する。やはり大学の近くがいいだろうね」

 話を進めようとする伊月に、あわててストップをかける。

「ちょっと待って。大学は家から通うよ。そのつもりだったし」

「やめておいたほうがいい。一人のほうが、ゆとりをもって生活できるはずだよ」

「いや、でもね」

「実家暮らしは疲れるだろう?」

「や、まあ、そうなんだけど」


 そこで伊月は、小さく息をもらした。

「一人で家に残してすまないと思ってるんだ。無理をするのは、感心しない」

「無理とかいうんじゃなくて……、そうだなあ」

(どう言ったらわかってもらえるのかな)

 一人暮らしを、考えたことがないわけではない。

 むしろ、ことあるごとに考える。

 それでも奈月は、安易な選択に流されるつもりはなかった。


「つまり、その、出ていくのは簡単だけど、残ったほうはどうなるのかってこと」

 べつに、先に自立した伊月を責めているわけではない。

 奈月だって、いずれは出ていく。

「せめてあと四年はさ、無理して変えなくてもいいかと思うんだ」

 自立を考えるたび、家で一人、生活をする母親の姿がまざまざと思い浮かぶのだ。

 そのイメージがあまりにリアルで、心が冷える。


「わからないな、奈月はなぜ残りたがるの。ろくに居場所もないだろう」

「まあねえ。けど、やっぱりあるんだと思うよ。いるのといないのとじゃ違うっていうか」

 口べたな自分がうらめしい。

「後ろめたく思いたくないというか、穏やかに変化を待ちたいというか、ねえほら」

 伊月の指先が、テーブルをとんとんと叩く。

「意見はもっと的確に言ったほうがいい。曖昧な表現が多すぎる」

「あ、やっぱり」

(言われると思った)


「奈月くんは優しいということでしょう。いいじゃないの」

 言葉に詰まっていると、香奈が伊月を制してくれた。

「急いで決める必要もないのだし、何度か話してみたらどう?」

 無言でこくこく首を振ると、伊月も歯切れ悪く了承した。

「区切りというものがあるとは思うけれど、奈月が納得していないというなら、それでいい」

 その場しのぎは美しい。

 実に理にかなった行いだ。

 奈月も曖昧に微笑んで、話題を棚上げすることにした。


「進学といっても、まずは合格しないといけないし。そっちが優先かな」

「そう言えるほど勉強に力を入れているのかな」

「ほどほど。合格圏内の判定は出てるよ」

「知ってる」

「だよね」

 伊月が弟の成績をこまめにチェックしているのを知っている。

 だからこそ、小言回避のために奈月が一定のラインで成績を維持していられるという面もある。

(小姑みたい)

 本物の小姑など見たこともないが、そう思う。


「専門の知識も大事だが、幅広く裾野を広げることはいっそう有意義だからね」

 そこから伊月は、理想の大学生活について自説を展開しはじめた。

(ああ、話が長くなるパターン……)

 何割かは聞き流しながらも、奈月は大人しく耳を傾けた。

 生まれたときから兄弟をやっているのだ。

 距離のとりかたは心得たもので、なにより、話が長引くほどに帰宅が遅くなるというのが有り難かった。


 それでも、高校生にとってふさわしい時間には帰宅をうながすというのが、この兄だ。

「遅くなる前に帰ったほうがいい。送っていくから」

「いいよ。地下鉄で帰る」

「それなら駅まででも……」

「いや、ほんとにいいよ」

 家に帰る前には、一人になりたい。

 気持ちを切り替える時間が奈月には必要だった。


「ふたりとも、明日も仕事でしょ。学生の僕より疲れてるはずだし、ゆっくり休んで」

 半ば建前ともとれる気遣いに、伊月は弱い。

 弟の善意をむげにすることができず、伊月は主張を引っ込めた。

「ありがとう。くれぐれも気をつけて帰るんだよ」

 いつかこの二人の間に子どもが生まれたとしたら、彼は過保護な父親になることだろう。

 口うるさい父親の監視下で、子どもが気詰まりな思いをしなければいいのだが。

(少なくとも僕はごめんだ)

 自分ならば非行にはしってしまうかもしれない。


 つらつらとくだらないことを考えて、玄関で二人に見送られ、奈月は外に出た。

「自分にとって最良の選択は何か、考えてごらん」

 別れ際に兄は念を押した。

「力になりたいと思ってるのは、私も同じよ。頼ってね」

 香奈も言葉を添える。

「じゅうぶんに良くしてもらっているよ」

「また声をかけるわ」

「おやすみなさい」


 駅までの道のりを歩きながら、考えた。

 香奈はお人好しだ。

 そうであるからこそ、伊月と一緒になれたのかもしれないが。

 奈月も常々、世話をやかれてばかりいる。


(夏休みも……)

 母に存在を忘れられた現場を見られた。

 香奈はえらくショックを受けた様子で、奈月に『Fジェンド』の被検体にならないかと誘いをかけた。

 短期間だけでも、しがらみから離れたほうがいいと勧められ、――気まぐれと性的な好奇心のみで了承したのは、今思えば悪くない選択だった。

(成人していて、運がよかったのかな)


 郁と過ごす一週間は充実していた。

 未だに彼女がなぜ似たような立場をとっていたのかは知らない。

 おそらく別人として接していなければ、親しくなることもなかった。

 名残惜しくなって、最後にホテルに誘ったのはやりすぎだったかもしれないけれど、彼女も拒絶はしなかったのだし、単純に触れられることがあのときは嬉しかった。


 ――もちろん、今もそれは嬉しいのだけど。

(好かれなければ、なお良かった)

 好意をよせられたから、おそらく自分は逃げたのだ。

 好意に応えるすべを、奈月は知らない。


 自立を勧める兄の声がよみがえる。

(最良の選択なんて、あるはずがないんじゃないかな)

 一人暮らしを始めようと、郁に寄り添うことを選ぼうと、また逆に現状維持を選ぼうと、どちらにしても何かが変わるとは思えない。

 自分に、何かが変えられるとは思わない。


 奈月が家を出たからといって、家庭内の問題が解決するわけではない。

 ただ、見ないふりをすることが容易くなるだけだ。

 奈月の、あるいは伊月の、気が楽になるだけのことだ。

(そりゃ、それだけだって意味がないわけじゃないだろうけど)

 ただ、今は時期ではないように思う。


(四年で何かが変わるなんてことがあるのかな……)

 さすがに大学を卒業してまで、実家に居座るつもりはない。

 四年は短い。

 何かが変わるなど、あり得ないことのように、奈月には思えた。

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