第三話
電子音が二度鳴った。
アーム型のマシンを解除して診断を終える。
変体中の定期検査だ。日に一度と義務づけられている。
送信ボタンを押すと、検査結果のデータがラボに送られ、問題があった際には連絡をもらう手筈となっている。
午前中は勉強を終えたあと、掃除や日用品の買い物に出かけた。
午後は何をして過ごそうかと考えて、ラボでポットに入る前に見た、緑の公園を思い出した。
地下鉄南北線の沿線上にある駅だ。大きな公園だが、普段わざわざ足を伸ばすこともない場所である。少し歩いて、そこから市電に乗り継ぎ、図書館に行くのもいいかもしれない。
顔を洗い、日焼け止めを塗り直して外に出た。
日陰を選んで歩き、地下鉄に乗る。
携帯端末の振動を感じて、取り出した。
今朝から、昨日購入したフック付きのコンパクトなポーチをベルトにぶら下げている。
財布だけはポケットに入れ、あとの細々としたものは全部その中だ。
メッセージ着信のランプが点り、見ると友人の菜々から、『あそぼう?』とのお誘いだ。
さて、どうやってことわろうかと逡巡し、返信を書く。
『風邪ひいちゃったからだめ。ごめんね』
無難すぎて情けない嘘だと感じつつ、送信する。
ふと菜々ならば、昨日小耳にはさんだ友情の証のリボンについても知っているのではないかと思い巡らす。
フットワークが軽くて移り気な子だ。流行に聡い。
目当ての公園は、中島公園駅を降りてすぐ目の前にある。
夏休みだからだろうか。意外なほど人が多い。
芝のあちこちでボール遊びなどをする様々な年代の人がいる。
(たしか奥に道立文学館があったはずだけど)
足を運んだことはないが、近くに重要文化財もあったはずだ。見かけたら立ち寄ってもいいかと思いながら、ぶらぶらと歩く。
(絵に描いたように平和)
はたして、休日に連れ立って遊具持参で公園に来るというのは誰しもが経験するスタンダードな過ごし方なのだろうか。
(少なくとも、私はしたことがないけれど)
しかし悪くない光景だとは思う。
日々同じ校舎で机に向かっていてはわからない。
こうして穏やかな顔をして、家族や友人と余暇をゆったり過ごす人も多いのだ。
(うらやましいな)
受験生には、いささかまぶしい光景だった。
公園の周囲を取り囲むようにして建っているのはホテルが大半だ。
ちょうど今ぐらいの時間だと、デザートバイキングが催されていたりもするのだろう。あちらこちらで女性客を多く見かける。
そんな中、取り立てて目立ったところのない外装のビルがある。
郁が現在世話になっている、日月製薬のオフィスだ。見知った建物には自然と目が行く。
公園から小道を隔てて、清潔感を突き詰めたようなエントランスが視界に入った。
(あれ)
その小道に、しゃがみこむ女性の姿があった。
(あれは、具合でも悪いのかな)
地面に手をつき、うつむいている。
さっと目をはしらせても、連れらしき人の姿はなく、郁はとまどいがちに近づいた。
「あの、大丈夫ですか」
おもてを上げたその瞳を、まっすぐにのぞいてしまった。
(――う、わ)
胸を突かれた。
(この人……)
最初、その人のどこにそれほどの衝撃を受けたのかわからなかった。
ただ、きれいな人だとそう思った。
容姿ではなく、装いでもなく、――まとう空気につかの間見惚れた。
その人が、ふと表情をゆるませる。
「コンタクトを落としてしまったんです」
はっとして、まばたきをした。
「ここで?」
「はい。」
身体に染み入るような澄んだ声音が、不思議なほど耳に心地よく響く。
「――手伝います」
目の高さを合わせたくて、その場にかがむ。
「でも……」
申し訳なさそうに首を傾げるその人に、うなずきかける。
「お困りなのでしょう。手伝わせてください」
綿菓子のような、色素の薄いふんわりとした髪が揺れた。
かっちりとした服を着ていたし、かたわらのハンドバッグも大人びていて、ぱっと見たところかなり年上だろうと思っていたが、間近でよく見るとおそらく彼女はまだ二十歳そこそこのようだ。
それにしてはメイクもずいぶん上品だと、わずかな落ち着かなさを感じる。
似合っているのに、どこか無理をしているようなそぐわなさを抱いてしまう。
(初対面の人だというのに、おかしいけれど)
安定した装いに反して、年若な面立ちやとまどいがちな表情をしているところが、放っておけないと思わせるのだろうか。
ぶしつけなまでに見つめていると、その人はふっと肩を下ろした。
「ありがとうございます。お願いします」
「はい」
声によろこびがにじんだ。受け入れてくれたことがうれしかった。
「落としたのは両方ですか」
「いいえ、片方だけです。なので、見えないわけではないんですけど、バランスがとれなくてくらくらしてしまって」
「なるほど」
涼しげな目元の奥に、小さなホクロがぽつんとあった。
(なんだろう、……どきどきする)
目元や口元のホクロは色っぽいと耳にはするが、実感したのは初めてだ。
路上に落ちた小さな透明の膜を探す。
それはことのほか困難だった。
陽の光に反射するかと思ったのに、それらしき物は見当たらず、指先で表面をなぞって探った。
同じように地を這う彼女の長い指が視界に入る。とりたててきれいな手指というわけではないのに、動きはなめらかで美しかった。
不思議と彼女に視線が引き寄せられる。ちらちら横目に見ていると、幾度か視線が合い、ほほえみを交わしてごまかした。
やがてその人は立ち上がり、口をひらいた。
「見つかりませんね。ありがとう、あきらめます」
「でも……」
「じつはそこに姉が勤めているんです。同じ型のコンタクトを使用してますから、頼んで分けてもらいます」
「お姉さんが」
彼女が指し示したのは、日月製薬のオフィスビルだ。
「はい。先ほどおつかいを届けに行ったばかりなので、今度は何をしに来たんだと笑われそうですが」
「そうですか」
安心してもいいはずなのに、胸中が晴れない。
すぐにこれは、別れを惜しんでいるせいだと思い当たった。
(もうすこしだけ、話していたいな)
なぜそんなふうに思うのだろう。この人の存在が、気にかかってならないのだ。
「もし時間があるようなら、待っていてもらえませんか」
「え?」
だから、彼女がそう言い出したときには、そんなに都合のいい話があるのかと耳をうたがった。
「つきあわせてしまったお礼に、お茶をごちそうします」
「いえ、そんな、ああいや、ありがとうございます」
居住まいを正して、頭をさげた。
動揺がおもてに出ていたのだろう。彼女は笑みを浮かべて手招いた。
「では、もう少しつきあってくださいね」
オフィスのエントランスをくぐり、ソファに腰かけて受付に向かう彼女を見送った。
しばらくして二十代半ばくらいの、きびきびとした動作の女性があらわれた。
(お姉さん。似てないな)
利発そうな印象を与えるのに、どこかおおらかで人の良さそうな大人の女性だ。
顔のパーツがはっきりとしていて、感情表現が豊かなのだろうと思わせる。
職場にいるにしては、服装はラフなもので、動きやすさを優先しているように見える。接客の必要がない職種なのだろう。
(妹さんのほうが、背が高いんだ)
しっかりものの姉とおっとりとした妹といった体なのに、印象がちぐはぐだ。
姉は妹に小さな箱を手渡し、すぐに立ち去った。
彼女がこちらに会釈をして、トイレに向かうのを見て、そういえば名前もきいていないと気づく。
出会ったばかりの人だ。おそらくこれきりの縁の人だ。
(なのにどうして気になるんだろう)
あの人を見ていると、胸が騒ぐ。引っかかりを覚えているのに、それが何かはまるで見当がつかない。
見定めるために、話をしたいと思った。
このあとの約束があるのがうれしかった。
「おまたせしました」
空気を転がすようなきれいな声とともに、彼女はふたたび郁の前に立った。
「いえ」
立ち上がり、顔を見上げた。
名前も知らない人だけれど、いくつか知ってることもある。
背が高く、声が美しいこと。瞳に透明感があって、ほくろのある目元にどきどきさせられること。それと、たたずまいがきれいなこと。
(育ちがいいのかも)
穏やかで上品な人だ。
(いいなあ)
ほのかなあこがれを抱いた。
「上に食堂もあるのですが、外のほうがいいでしょう。少し歩いて、どこかに入りましょう」
「そうですね、わかりました」
連れだってオフィスから出ると、空気がむっとまとわりついた。
「あ。すみません、失礼します」
端末が震え、メッセージの受信を告げた。
郁は端末を取り出し、文面にさっと目を走らせた。
(菜々から。うーん……)
友人からの返信で、『今からお見舞いにいく』というものだ。
(どうしよう、困る)
仮病を用いたのは、一週間、誰とも顔を合わせたくなかったからだ。
家族にも友人にも、これからもこの先も、『Fジェンド』のオペを受けたことを話すつもりはない。
『うつしちゃ悪いし、玄関まで出る元気もないから。手も足りてるし大丈夫。治ったら連絡するね』
手早くそう入力し、送信する。
すかさずまた返事が届いた。
『うっそ具合悪いんだ。大丈夫? なんかあったら連絡ちょーだいね!』
『ありがと。平気』
手短にやりとりを終わらせてポーチにしまう。
足を止めさせてしまった彼女の視線を感じ、顔を上げた。
「ごめんなさい、友人からで。もう済みました」
もしや気分を害してしまったのかと、申し訳なさを感じる。
眉を寄せ、いくぶんけわしい眼差しで、郁を見つめるその人は、物言いたげにくちびるをふるわせた。
「あ、――ううん。いいの。平気?」
「はい。……あの?」
「そういえば、名前をきいてなかった。私は、――香奈」
「香奈さんですか。私、オレ、は、郁です」
硬さの残る表情で、香奈はうなずいた。
「いくつ?」
「十八。成人したばかりなんです。香奈さんは少し上ですよね」
驚いたことに、彼女はゆるく首を振り、否定した。
「同い年。私も十八だから」
「え」
(うそ……!)
思わず目を丸くして、まじまじと見つめてしまう。
「大人びてますね。あ、いや、オレが子どもっぽいっていう自覚はあるんですけど」
うっかり正直に年を口にしてしまったが、自分の外見がひどく幼く見えることを思い出し、慌ててつけ加えた。
「うらやましいな。オレ、小さいし」
「そんなことないよ。それに、ほら、敬語はやめにしない? 同い年なのだし」
「あ、はい。うん、だよね」
衝撃はじわじわと身体をひたし、どうにか意識を切り替えようとしてみたものの、それでもやはり同い年とは思えない。
昨日街で会った子のように、気安く話せたらいいのだろうけど、なぜだろう、香奈を前にしていると背筋が伸びるような緊張感を覚えるのだ。
それは嫌な感じのするものではなく、心地よさも同時に覚えるものだった。
(わかった)
緊張感の由来に気づき、内心つぶやく。
(気に入られたいんだ、私)
「郁と呼んでもいい?」
「もちろん。えと、オレも。香奈さん」
「香奈でいいよ」
「……無理です。その、少し照れくさいかな、って」
真っ赤になってうつむくと、香奈がふっと優しく吐息を漏らすのを感じた。
「うん、わかった。好きなように呼んで」
「はい。すみません」
「謝らないで。行こう」
「はい」