第三話
この日の郁は、厄日だったのかもしれない。
早朝から自転車で転び、ひじには絆創膏をはるはめになった。
体育の時間、更衣室で美桜に見つかり、からかわれる。
「やだ、格好わるーい。委員長さんて、たまにドジなの?」
「転ぶことくらいあるよ」
目の前を横切ったすずめに気をとられたのだ。
「それにしても素っ気ない絆創膏ね。ちょっと待ってて」
なぜか美桜はペンケースを持ち出し、絆創膏に猫の絵を描く。
「ほら、少しはかわいくなったでしょ」
油性ペンで描かれたつたない猫だ。
どこか胸がこそばゆい。
「ありがと」
今日の美桜の鞄には、リボンがまとめて十個くらい結ばれていた。
その中のひとつが、郁とおそろいの柄だった。
そうやって気持ちを形に表すのが、価値のあることだとは思わない。
菜々のように、気に障るという者も多いだろう。
しかし自分との思い出がそうして鞄を彩っているということに、かすかに胸がくすぐられるというのもまた事実で、物事のバランスをとるのは難しい。
昼のダンスの練習の後、着替えていたら、菜々からの視線を感じた。
「皆、ずいぶん上達したよね」
ここ数日感じていたわだかまりを拭うチャンスかと思い、声をかけた。
しかし、菜々が見ていたのは、絆創膏に書き加えられた落書きだった。
「ミオと仲、いいんだね」
発せられた声は硬い。
「菜々、あのね……」
言葉を重ねようとしたが、菜々は拒むように首を振った。
「郁は少し変わったと思う」
それきり背を向け、手早く着替えを済ませると、菜々は更衣室を出ていった。
彼女が腹を立てているのはわかるのだが、感情の推移までは察しがつかない。
結局のところ郁には、彼女が気持ちがやわらぐのを待つことしかできないようだ。
ため息を押し殺し、郁も無言で支度を済ませた。
それでも放課後ともなれば、気分は上を向くのではないかと考えていた。
視界に姿を写すだけで、心の浮き立つ存在がいたからだ。
この日はまだ一度もゆっくりと言葉を交わすチャンスが訪れていない。
放課後ならば、互いだけを見つめて過ごせる時間がとれるはずだ。
成すべき事柄をあれこれとこなしながらも、心の隅では、ずっと声を聞きたいと願っていた。
いくら同じ教室にいても、視線がからまなければ、共にいるという実感は得られない。
だから放課後、奈月のほうから声をかけにきてくれたときには嬉しかった。
「これからダンスの練習でしょう。その前に少しいい?」
「うん、もちろん」
今日は衣装を身につけて動いてみる日だ。
衣装を用意するのに、いくらか開始まで時間がある。
「だったら、そうだね、食堂に行こうか」
なぜ食堂なのかと不思議に思いはしたが、この時間の食堂ならば人も少なくて、落ち着いて会話ができるかもしれない。
そう考えて、奈月のあとについて行く。
奈月の後ろ姿は、どこかしんとした印象を与える。
普段から物静かなほうではあるが、連日の準備や練習に、少し疲れているのかもしれなかった。
少し足を速めて横に並ぶと、顔色もあまり良くないように見える。
「大丈夫?」
「うん、何が?」
柔らかな声が耳をうつ。
「元気がないように見えたから」
無理はしてほしくない。
体調を崩したらたいへんだ。
「優しいんだね」
そう返す奈月の態度に、ひっかかりを覚える。
(あれ……?)
理由はわからない。ただ違和感が、胸の内で重みを増した。
「奈月くん――」
呼びかけたところで、どう言葉を継いで良いのも知らず、いくら見つめたところで、彼のどこかが変わったとも思えない。
特別によそよそしいわけでもない。
穏やかに微笑みかけてもらえないわけでもない。
声が冷ややかなわけでも、険しい眼差しをしているわけでもない。
それでも確実に、何らかの予兆を感じて、胸がさわいだ。
疑念や不安を晴らすために、どこかに触れたかった。
しかし、それだけの理由も度胸もないうちに、二人は食堂の片隅で向かい合った。
「世間話をしても仕方がないから、用件だけ言うね」
けして手の届かない距離にいるとも思えないのに、腕はこわばって動かない。
威圧感にも似た空気に触れ、郁は声もなく奈月を見ていた。
「少し、距離をおこうと思うんだ」
それは、誰と誰がだろう。
訊ねたかったが、喉が内側から圧迫され、言葉が出ない。
「誤解をしないで欲しいんだけど、きみに非があるわけじゃないから」
それは嘘だと、郁は思った。
「きみが嫌いになったわけではないし、郁といるのは楽しいよ。けれどね」
――けれどね。
嫌な言葉だ。
「僕は、きみといるのが、少し怖い。余裕がないんだと思う。申しわけないけれど」
(だから。つまり――?)
「今は一人の時間が欲しい」
押し寄せる言葉の波に、喉がふさいだ。
暴れる全ての言葉を飲み下し、郁は義務感だけでうなずいた。
「……わかった」
どうにか絞り出した声は、自分のものではないかのように枯れていた。
「ごめんね。……学校祭、ダンス楽しみにしてるから。それじゃあ」
いたわりに満ちた優しい瞳が、やけに遠くに感じられた。
背を向けて立ち去る奈月を、とうとう郁は、呼び止めることが出来なかった。
(奈月くん)
その場に一人で立ち尽くすうちに、おかしなほど膝が震えた。
「奈月くん……?」
声に出せたときには、既に彼の姿もない。
郁は呆然とまばたきをくり返し、自らの呼吸の音を聞いていた。
「どういうこと」
問い詰めたくないわけではなかった。
しかし、そこまで察しが悪くはないつもりだ。
(つまり)
鼓動が痛みをともなった。
「さようならって、ことだよね……」
(本当に?)
彼の言葉を、声を、表情を思い出す。
唐突だけれど、彼に迷いは見られなかった。
何かに揺さぶられているかのように、気持ちが振れた。
「ああ。どうしよう、……本当に、だ」
打ちのめされたと、そう感じた。
まともに頭が働かなかった。
――やがて、衝動をいったん受け流すことを選んだ郁は、考えることを放棄して教室に戻った。
ダンスの練習には真面目に参加したつもりなのだが、それでもいくつかミスをした。
足を引っ張って申し訳ないとは思ったが、上手く頭が回らなかった。
――少し距離をおこうと思う。
奈月の言葉は、その日眠りにつくまで、ずっと頭に居座りつづけた。
「やだ……っ」
翌日の目覚めも、すっきりとしないものだった。
とんでもない悪夢をみたはずなのに、内容がちっとも記憶に残っていない。
全身いやな汗をかいている。
いつまでも布団にもぐっているのが嫌で、起きだした。
窓の外に目を向けると日の出も間近で、シャワーを浴びに部屋を出た。
頭も気持ちも整理されない、こんなときには身体を動かすにかぎる。
あれこれ考えるのをやめようとしたところで、渦巻く思考は止まらない。
ならば現状を改善するために、思いついたことから動いてみようと、郁は自転車にまたがった。
朝の空気は冷たくひっそりとして、冴えている。
すっきりとした晴天に、理不尽な思いがするほど、一夜明けてもなお郁は混乱していた。
(奈月くん)
感情ばかりがあふれて、どうして良いのかわからない。
たくさん言いたいことがあるはずなのに、彼とどう接して良いのかもわからない。
恨みごとを言いたいのか、なじりたいのか、すがりたいのか。
または、とりつくろいたいのか、友人ぶりたいのか、問いただしたいのか。
ひたすらペダルをこぐうちに、自らの困惑の内に、どうしようもないいたわりの気持ちがあることに気づいた。
(やっぱり、おかしい)
昨日の奈月は様子が変だったように思う。
それは、別れ話を口にすることへのためらいや気鬱といったこととは、おそらく異なる。
疲れているのかと、気にかかっていたことを思い出す。
「どうしたんだろう」
心配にならないはずがない。
(けど)
それを率直に伝えることも、今の郁には難しかった。
人のまばらな川沿いのサイクリングロードを走る。
季節のうつろいも、散歩中の犬も、ほとんど視界に入らないまま、気づけば自宅に戻ってきていた。
「学校、行かなきゃ」
それだけのことがこれほど心に重くのしかかったことは、かつてない。
ただひとつ、この日の朝は、いいことがあった。
学園祭が終わった頃に有給がとれたと、朝食もたいらげた父が言った。
「母さんの墓参りに行こう」
そう告げる父の声には張りがあり、郁は迷わず首を縦に振った。
一日を無難にこなし、総仕上げと称した放課後のレッスンも順調に進んだ。
「ようやく明日から、太鼓と合わせて合同で練習できるね」
上達したという実感があるのだろう。
皆の顔が汗と達成感に輝いている。
結局奈月とは、一言も交わす機会は得られなかった。
(避けられているんだったら、それは嫌だな)
ナーバスになっているのだろうか。
成すべき事の合間ごと、一人になるたびごとに、ずんと落ち込む自分がいる。
何が悪かったのか、彼の負担となってしまったのかと、無益に思考がループする。
好きなだけじゃいけないのかと、一緒にいたいからといって、気持ちを押しつけすぎてしまったのかと、省みては問いただす。
どうすれば歩み寄れるのかと考える一方で、歩み寄ってほしくはないと彼が言っているのだから、尊重すべきだと思い、――しかしそれでは自分は納得できそうにないのだと、途方に暮れる。
「……一緒に、帰りたかったな」
練習も終わってしまった以上、家に帰るしかない。
一人での下校が苦になるタイプではないが、なぜか今だけは人恋しさがつのる。
(誰か、じゃないな)
己の曖昧さをすぐに正す。
一緒にいたかったのは、誰かではなく、特定のただ一人だ。
それでも、友人がそばにいてくれたなら気も紛れたかもしれないが、未だ菜々とは仲直りできず、沙也は叶と打ち合わせがあるという。
特別には親しいわけでもないクラスメイトに声をかけても良いのだが、そこまでの意欲はわかず、郁は挨拶だけを済ませるなり教室を後にした。
心がよどんでいるのが、自分でもよくわかる。
もやもやしているし、ストレスを感じているし、悲しみにのまれそうでもある。
今日はやけに、美桜をまぶしいと感じる。
如才なくふるまうだけのエネルギーが、自分には明らかに足りていない。
彼女と自分を比べて、劣等感に悩まされる必要なんてない。
外面をとりつくろってばかりの自分に、嫌気がさすなど、今更そんな。
(――なんだか、私、気づけば一人ぼっちみたい)
ふとした拍子にそんな思考に飲まれそうになり、慌てて激しくかぶりを振った。
「それはさすがに、バカみたいだ」
なんと情けないことを考えるのかと、頭を抱えたくなる。
(ばか。もう、弱りすぎだよ。しっかりしよう)
「考えなくちゃ。泣き言はだめだ。もっともっと、しっかりしないとだめだ」
間違わないように。周囲に不安を与えないように。
習い性になっている、理性と努力は、言い換えれば己の選んだ理想の体現でもある。
――けれど、たまには感情的になって、ぐちゃぐちゃのままの気持ちを表に出してもいいんじゃないか。
菜々のように。
何の解決にもならないとわかってはいる。
けれど、すくなくとも、何らかの糸口にはなる可能性だってある。
ほんの一瞬、ちらっとだけ心が動いた。
(なんて、出来もしないことを私ったら。本当にどうかしている)
奈月につめよって、自分の気持ちばかりを押しつけて、そこにどんな意味があるというのか。
「もっと、もっと考えなくちゃ」
言い聞かせるために声に出し、荒れる感情を抑え込んだ。
「よく見て、考えて、――優しくならなきゃ」
相手の負担にならないように。
「強くならなきゃ……」
理性でがんじがらめになる自分が嫌いだった。
それでも、そうとしか動けない自分というものを、骨身にしみて知悉していた。
もう少しだけ落ち込んだら、その後きっと見えてくるものもある。
それが失恋だとしても、つまらない選択しかできない自分にはふさわしい展開であるようにすら感じられるのだ。
(やっぱり私、今はだめだ)
打ちのめされた胸を押さえて、睫毛を伏せて、足だけを進めていった。
冬の訪れを感じさせる乾いた空気が、頬を包んだ。




