第二話
奈月と孝が登校すると、教室を横切って、目の合った郁がやってきた。
「おはよう」
「ん、おはよう」
挨拶を交わすと、彼女の顔がほころぶ。
「んあ? おー」
挨拶だかなんだかわからない返事を孝はする。
「また一週間が始まったね。物理の課題は終わった?」
郁はまっすぐに奈月を見つめて訊いた。
「終わったよ。昨夜一人でどうにかね」
「一番最後、難しい問題があったよね」
「ああ、実はそこだけ白紙」
わからなかったので、考えるのをやめて放り出してしまった。
「だめだよ、わからないところはクリアしておかないと」
「うーん、まあ、そうなんだけどね」
やる気の起きる問題と起こらない問題があるのだ。
「私はさっき、沙也と答え合わせをしたの。……ひとつ間違ってるところがあった」
不服げに郁がこぼす。
「ちなみに私は、みっつも間違ってた。見直しはしたほうがいいかも」
ひとつ前の席で、振り向いた沙也が言う。
「勉強以外にすることないのかよ」
孝がしかめっ面をする。
まあ、気持ちはわからなくもない。
「机に向かう意欲を分けてもらってると思えばいいんだよ。励みになるなって」
「なるわけねーだろーが」
「まあね」
「励みなさいよ」
すげなく沙也があしらった。
「三人は仲がいいの?」
郁が見回す。
「中途半端に家が近いの」
「そうなんだ。羨ましいな」
「は? 何で?」
けげんな眼差しで孝がねめつける。
「何ってこともないけど、いいなって」
「何がだよ……」
「あ、時間。じゃあ、またね」
時計に目を向け、郁が席に戻る。
「なんだあれ。意味がわからん」
孝は気味悪がって、腕をさすった。
机に向き直り、沙也がキャンディーを指で転がしている。
「石か?」
孝がのぞき込むが、違う。
週末に郁と奈月で折半にした、岩石キャンディーだ。
「郁にもらったの。お土産だって。楽しげでしょう」
沙也が口に放り込むのを見て、孝は首をひねった。
「食欲失せる見た目してるように見えるんだがなあ」
「普通においしかったけど。いる?」
話に乗り遅れるのも気の毒かと思い、奈月も鞄の中からキャンディーを取りだし、ひとつ孝に分けてやった。
「……勘弁してくれよ」
何かを察したのか、孝は投げやりな態度で首を振って、キャンディーを噛み砕いた。
「熱っ」
沙也が笑う。
以前より、さっぱりした笑顔を浮かべるようになったと、奈月は思った。
「寒いよな。身体動かしたくない?」
昼休み、本来ならば太鼓の制作や練習にあたらなければいけないはずなのだが、誰かがこんなことを言い出した。
「ダンス班はいいよなー」
「動かないとさ、こう、ぐあーってなるよね」
流れからして、話がこう落ち着くのは妥当なところだ。
「サッカーするか!」
そんなわけで昼食後、孝と共にグラウンドへ向かった。
適当に二つに分かれて、奈月は太鼓製作班のリーダーでもある山崎と同じチームになった。
敵対チームとして見ていると、孝がいかに動き回るかがよくわかる。
「あいつ速いよなー。陸上部だっけ?」
そんなふうにもらすチームメイトも、たしか水泳部だったはずだ。
この時期、部活を引退してしまって運動不足に悩まされる生徒も多いのだろう。
自分でできるトレーニングはもちろんあるが、生活リズムが変わってしまうのは仕方がない。
「いったぞ、とめろー」
終盤、相手チームの放ったロングシュートを、腹で受け止めた。
トラップしたボールはすぐにパスを出し、腹をさすると、山崎に背中を叩かれた。
「よく止められたなあ!」
正直なところ、少し痛かった。
「腕力はないけど、腹筋なら少しはあるんだ」
「そっか、オレとは逆だね」
「ああ、ドラムやってるんだっけ」
「そうそう」
それなら確かに腕も太くなりそうだ。
得点差を把握もしないまま、予鈴と共にサッカーはお開きになった。
「あー、もうこんな時間かー」
動き足りないのだろう。
不満をもらす声がいくつもあがる。
「放課後こそは練習しないとな」
孝もしぶしぶといったふうに頭をかく。
そんな態度をとりつつも、いざ太鼓と向き合うと熱心に叩くのだが。
「篠山、リズム感いいよな」
山崎は言うが、おそらく彼にはおよばない。
「山崎のは速すぎて、何がなんだかわからないよ」
ドラムに限らず、打楽器をやる人間のリズム感はどうなっているのかと思う。
「棒とか見えないよなー!」
賛同の声もちらほらあがる。
「もうちょっとしたら、雪中サッカーやろうな」
「勉強いいのかよー」
「気晴らしだよ、気晴らし。大事だろ」
ここらの奴らは、冬でも構わず外で遊ぶ。
雪中サッカーは手軽だが、体力の消耗具合が普段とは比べものにならない。
「足にくるんだよなー」
とはいえ、この先いつまでこうして空き時間にボール遊びをするのかと、ふと思う。
大学生、社会人――、想像してみようとするが、上手く像が結べない。
少なくとも、奈月は自主的には遊ばないだろうから、孝が隣にいるかどうかが大きな分かれ目になるのは確かだ。
いくつになろうと、いればやるし、いなければやらない。
歌はいつでも歌えるが、休み時間の過ごし方は人の輪次第だと、ぼんやりと考える。
休日の過ごし方も、また然りだ。
放課後、廊下でふたたび郁に会った。
「今日は寒いね。夜は雪が降るかもしれないって言ってるよ」
これから衣装合わせがあるのだという。
どこの班も、準備は順調のようで、なによりだ。
「雪か。もうそんな季節なんだね」
「十月だもの。……学園祭が終わったら、あっという間だね、きっと」
おそらくそれは、三年生ならば誰もが感じていることだろう。
卒業式までとりたてて大きな行事もなく、受験一色になって、登校日も減る。
顔を見る時間が減るのかと想像すると、少し物足りなく思う。
「ダンスの調子はどう?」
「うん、まあまあ。動きはばらばらだけどね、楽しくやってるよ」
「そう。見てみたいな」
太鼓の製作は進み具合が人によってまばらで、合同練習はまだ果たせていない。
「もう来週だものね。頑張らないと」
本番まで、あと十一日だ。
週末を除くと、さほどの余裕も感じてはいられない。
「奈月くん、あのね」
「ん?」
呼ばれる声が耳にくすぐったい。
「今日じゃなくていいんだけど」
前置きをはさんで、彼女は言った。
「都合のつく日に、今度、一緒に帰ろう」
「いいよ」
ほっと力の抜けたように、彼女は微笑む。
「よかった。いつもじゃなくていいの。普段も少しは、一緒にいたかったから」
「……あー、うん」
つい生返事をしてしまう。
気乗りしないわけじゃない。
この率直さはどういうことかと、返答に困るだけだ。
「あとで、夜に電話をしてもいい?」
郁が訊ねる。
「うん」
「何時だったら迷惑じゃないかな」
「いつでもいいよ。出られるときしか出られないから」
「そうだね、わかった。といっても、何か用事があるわけじゃないんだけどね」
はにかむ笑顔を向けられているのが、自分だというのは、おかしな気分だ。
そこへ、山崎が通りかかった。
「お、篠山。生物室集合だぞ」
「そうだね。じゃあ」
「うん、ばいばい」
手を振る郁と、そこで別れた。
帰宅して、リビングに向かうまで、奈月は異変に気がつかなかった。
花瓶にこれ見よがしに飾られた花が真新しい。
「誰か、来たの」
母の顔を見れば、問う必要もないことだ。
「あら、おかえりなさい伊月。遅かったのね」
足が止まり、身体が一気に重みを増す。
喉がつかえた。
「――うん、ただいま」
またかと、思った。
「すぐにお夕飯にしましょうね」
「うん」
食事中、母はずっと上機嫌で話し続けた。
奈月は時折相槌を返したが、おそらく母は気づいていない。
そもそも母の視界に奈月の姿は映っておらず、ずっと伊月の名で呼ばれ続けた。
「だから今度ね、アレンジメントの講座を受けてみようと思うの」
「そう、いいんじゃないかな」
「とても評判がいいのよ」
このところ仕事も順調なようで、明るい話題が続く。
「ごちそうさま」
「あら、もういいの。食が細くて困るわね」
「宿題があるから、部屋に戻るね」
「偉いのね、頑張って」
慈しみに満ちた眼差しを向けられて、目をそらした。
そんなふうに見つめられているのが、自分ではないと知っていた。
自室にこもって、ほっと肩の力を抜く。
どんな名で呼ばれようとも今となっては構わないが、甘く両手でくるむような目で見つめられることだけは耐えられなかった。
「気持ち悪……」
母の声ばかりが耳に残り、何を口に運んだのかも既に記憶にとどまってはいない。
父が来たあとは、いつもこうだ。
二人の間に第一子が生まれたばかりの頃は、今よりも幸せで、今よりも父との絆が強かったのに違いない。
母の心は既に流れてしまったはずの当時に捕らわれ、当分の間は戻ってこない。
そしてその頃の母の記憶に、まだ生まれていないはずの奈月の存在はない。
(来るなら前もって連絡しておけばいいのに、本当に迷惑)
事前に心構えができているかどうかで、大きく異なる。
不意を突かれると、幼い頃ほどではなくとも、動揺はする。
これでしばらく、家では兄の名で呼ばれ、兄として扱われることになる。
週末だと出歩いているうちにやり過ごせることもあるが、平日だとそれも難しい。
いい加減、全てに慣れてしまえばいいものを、未練がましく腹の内がこわばるこの感覚が嫌いだ。
窓の外を、ゆっくりと雪の粒が流れていく。
「初雪って言ってたっけ」
雪は静かだ。
空から落ちてくるときも、積もってからの真っ白なあの景色も、全てが静寂に満ちている。
じっとたたずんで見つめていると、音のなかった部屋に着信音が流れ始めた。
(電話だ)
ほんの数時間前に交わした会話がよみがえる。
用件もないのに、かけてきてくれた電話だ。
親しみと好意の表れとも言えるだろう。
手に取ればそれだけで、心をくすぐるあの声とつながる。
それでも応対に出る気分ではなくて、奈月はそのまま綿のように白くやわらかそうな雪の降るのを眺め続けた。
ほどなくして呼び出し音は途絶え、それと同時に、ふと感じた。
「やっぱり、無理かもしれないな」
何気なく口からもれただけの言葉は、意外なまでの説得力をもって心を縛った。
大切だったはずのまっすぐな眼差しは、なぜかぼやけて靄の向こうで霞んで揺れた。




