第一話
「明日の午後一時に、科学館前で」
約束通りの時刻に、奈月は待ち合わせ場所に現れた。
「おはよう」
顔を見るとほっとする。
彼と並んでいると、なぜか深く呼吸ができるように思える。
科学館のエントランスで、展示室とプラネタリウムの入場がセットになっているチケットを購入した。
プラネタリウムの予約は、最終公演のものをとったので、それまで展示室で科学に親しむことにする。
「ここに来るのは久しぶり」
小学生のときは集団でよく来た場所だが、高校に入ってからは初めてだ。
雰囲気は変わっていないものの、展示内容にはいささかの変化が見られるようだ。
「僕も、兄に連れられてよく来たな」
「科学が好きだったの?」
「いや、科学館や動物園って、義務教育の間は入場が無料でしょう。時間をつぶすのに都合がよかったんだよね」
時間はつぶすものではなくて、活用するものだと思うのだが。
「公園で遊んだりはしなかった?」
「兄と一緒のときは、あまり」
郁の中で、奈月の兄の人物像が、どんどん生真面目そうな人物として固められていく。
「子どもの頃にね、近所に住んでいた人が、ここの職員さんだったの」
その人の容姿は思い出せないが、話して聞かせてくれた事柄は印象的だ。
「学校の先生よりも説明が上手でね、科学の実験にまつわる話とか、聞いてるだけで楽しかった」
机を前にしての学習はもちろん有意義なものなのだが、そもそもの前提として身の回りの事柄に興味を持つというのは、大切なことだと思うのだ。
「だから今日は楽しみ」
二人連れだって、展示室へと上がっていく。
「わ、鏡がたくさん」
スペースコロニーを模した展示室の天井部分には、星空が瞬いていた。
音の反響や磁石を利用した様々な展示物が並ぶ中、ミラーハウスばりに鏡の並ぶ一角がある。
凸面鏡や凹面鏡、左右が反転せずに映る鏡もあれば、合わせ鏡に自分の姿が果てなく並んでいくコーナーもある。
魚眼レンズ越しに映った郁を見て、奈月が笑った。
「ユニークな目鼻立ちになってるよ」
「奈月くんこそ」
極端に背が高く見えるものもあれば、寸胴になる鏡もある。
「痩せて見えるより太って見えるやつのほうが見応えがあるね」
奈月はどうやら、横に間延びして見える鏡が気に入った様子だ。
「ほっぺもぱんぱんだ」
横に並んだ郁の頬を笑顔でつつく。
床が斜めになっている小部屋もあった。
内装は一見普通のリビングなのだが、枠組みが歪んでいるせいで落ち着かない雰囲気だ。
壁や家具はまっすぐなのに、床だけが傾斜がきつく、めまいがしそうだ。
「端から端まで移動するだけで大変だね」
平衡感覚がおかしくなり、傾斜の下から上へ上がるのに苦労した。
だが、下りはもっと怖かった。
「そこの、斜めになっているソファに寝転ぶと面白いらしいよ」
郁よりだいぶ身軽な動作で、奈月がソファに身を横たえた。
「うっわ」
ぜひ体験してみるべきだとうながされて、郁も横になってみた。
「うー、怖い」
傾斜に沿って横たわると、余計に部屋が歪んで見えた。
「落ちそう……」
バランスを崩すほどの傾斜ではないのだろうが、ソファの脇に設置された手すりにつかまらなければ立てなかった。
「ほら」
そのあとも足元がふらつく気がして、部屋を出るまで奈月の手を借りた。
「……どうしてそう平然としていられるの」
「視野を狭く保てば平気だよ」
言われて、進行方向の一点だけを見つめて移動した。
随分と気の張る部屋だったが、普段いかに視覚にまどわされがちなのかがよくわかった。
壁沿いには、実験用に気温を低く保っている部屋もあれば、音の反響をおさえた部屋もあった。
「郁はどの形が好き?」
雪の結晶が拡大されて並ぶのを、ひとつひとつ指さしながら奈月が訊く。
「これ、かな」
いかにも結晶らしい多角形もいいが、すっきりとした柱のような形も好ましい。
「シンプルだね」
展示室には次々と遊び道具が並べられていて、退屈することがない。
砂鉄でオブジェを作ったり、静電気の色を変えたり、環境クイズに挑戦したり、目につくものに片っ端から手を出していく。
てこの原理を利用したシーソーでバランスをとったり、滑車を回して互いの身体を持ち上げたり、ハンドルを回して水槽に波を発生させたりもする。
わずか二メートルの短距離ダッシュでは郁が勝ったが、握力と肺活量の測定では大きく水をあけられてしまった。
「科学館でこんなに身体を使うとは思わなかったな」
「本当にそうだね」
人体をテーマにした迷路を抜けて最上階に到達すると、また趣が変わり、機械や乗り物、ロボットが多く目につくようになった。
「私、あれをやってみたいな」
郁が目をつけたのは、小型無人探査船の手動操縦シミュレーターだ。
操縦レバーを傾けると、傾けたのとは逆の方向に動くというものだが、これが予想の外難しかった。
「あれ、あれ?」
操作は単純なはずなのに、意図したのとは反対方向に手が勝手に動いてしまう。
「くやしいな、ちっとも上手くいかないよ」
「意外と不器用なんじゃない?」
失敗するたび、奈月が嬉しそうな声をあげる。
「慣れたらきっと上手くできるよ。練習が不足してるんだよ」
向けられた視線が温かくて、いたたまれなさに顔が少し熱をもった。
十五時を過ぎたあたりで、プラネタリウムの案内放送が流れた。
「あれ、もうこんな時間か」
入館してから二時間。あっけなく時間は過ぎた。
プラネタリウムは一階だ。
「行こう」
階段を駆け下りて向かうと、既に行列ができている。
通路に映し出される天体ホロを眺めていると、気分も高まる。
「奈月くんはプラネタリウムが似合うね」
率直に思ったとおりのことを口にしたら、おかしな顔をされた。
「そんなこと初めて言われたよ」
「そう? 静かな場所が似合うのかな。落ち着いているものね」
「おかしなことを言うね。自分のほうが落ち着きがあるとは思わないの?」
「私?」
そういえば、若々しさが足りないと、以前菜々に言われたことがある。
「ああ……、そうだね。どうなんだろう」
落ち着きはないよりあったほうがいいとは思うが、ありすぎると枷になることもある。
何事も、見方次第、場合次第、程度次第だ。
「でも、静かなところは好き。奈月くんと一緒だから、余計に嬉しい」
「えー」
なぜか奈月には困った顔をされてしまったが、わずかに下がった眉も好ましく感じてしまうのだからたちが悪い。
開園時間になり、中に入ると、端の方に並んで座った。
薄暗い場内では、誰もが声をひそめるもののようで、ざわめきも低く心地がよい。
「はい」
リクライニングを調節すると、すぐに手のひらを差し出された。
「少し照れくさいね」
肘掛けの上に置かれた奈月の腕に、そっと手を重ねる。
くすぐったさと気恥ずかしさの両方を感じていたけれど、なぜか彼といると無性に触れたくなるので、距離の近さがありがたかった。
「郁はよくわからないね。さっきのは平気なのに、これは恥ずかしがるの?」
「さっきのって?」
なにかおかしなことをしただろうか。
すると奈月は、急に真顔になってささやいた。
「……一緒にいられて嬉しいのは、僕も同じ。だけど、なかなか素直に言えたものじゃないよね」
「うわ。驚いた。なあに、それ。心臓に悪いね、恥ずかしい……」
「先に自分が言ったくせに」
呆れた目を向けられる。
「あっ、そうか。言った。ごめんね」
タガがゆるんでいるのだろうか。困り顔を向けられるはずである。
「私、浮かれているのかも。奈月くんといるときだけ、なぜだかすごくほっとするの」
思えば、最初に会ったときからそうだった。
複雑な感情を抱くこともあるのに、離れがたくてならない。
こんなふうに誰かに執着するなんて、やっかいだし、少し笑える。
「自分でもおかしいと思わないわけじゃないけど、仕方ないよね。どうしようもないんだもの」
隣にいられないと、息苦しい。
だから、寄り添っていてもいいのだと、許可がもらえて幸運だった。
からめた指を、握る力が強くなる。
開演を告げるブザーが鳴って、照明が落ちても、ずっと感じていられる体温に慰められた。
暗い夜空に、一番星が姿を現す。
『これは、本日七時の夜空です――』
ゆったりとしたトーンのナレーションが流れる。
ぽつぽつと、星が数を増していく。
『街の明かりを消してみましょう』
地平線の明かりが消えると、夜空は星でいっぱいになった。
「きれい……」
プラネタリウムで、一番好きな瞬間だった。
普段は決して見ることのない、一面の星空が頭上に広がる。
(こんなの、昔の人は本当に見ていたのかな)
見知った星空とかけ離れすぎていて、にわかには信じられない。
(きれいだけど、少し怖い)
夜が来るたびにこんな光景が広がっていたら、人は影響を受けずにはいられないだろう。
目に映る光景が虚像だとわかっていても、広がる世界の広大さに肝が冷える。
大気の影響を受けて、星が瞬く。
そのせいで、余計に美しくも、恐ろしくも見えるのだ。
つないだ指先に力を込めた。
広い世界を目にしたときに、飛び立ちたいと感じる人も多いのだろう。
(私は、無理だ)
こうして手にすがりついて、地上に縮こまっているのがお似合いだ。
しがらみをふりほどき、その身に風を感じさせる人がたまにいる。
トラックを駆けるときのクラスメイトもそうだし、歌うときの奈月もそうだ。
そのたび郁は、目を奪われる。
憧れと羨望が胸をひたす。
自分は同じように振る舞えないことを突きつけられて、苦々しさも感じる。
どうしてあんなふうになれないのだろうと、枠を越えていけない自分に嫌気がさす。
あまりに美しいその姿が、羨ましくて、好ましくて、たまらないのだ。
『秋の星座を探す前に、まずはペガススの四辺形を探してみましょう』
夜空に線が引かれていく。
秋の四辺形だ。
ここから、アンドロメダ座、一等星のフォーマルハウトを有するみなみのうお座、さんかく座、みずがめ座――。
勇者ペルセウスの神話をはさんで、数々の星団も紹介されていく。
『そしてこの季節は、オリオン座流星群も見頃となります』
流星群なんて、子どものころは星屑のシャワーが見られるものだと誤解をしていた。
まだ小学生のころ、親にねだって夜中に見せてもらったことがある。
実際は流れ星がたまに落ちてくる程度で、拍子抜けはしたけれど、それでも張り切って願い事をたくさんとなえた。
(今、願うとするなら――)
考えて、落ち込んだ。
以前はいくらでも口にできた願いが、まるで形にならない。
父には幸福であってほしいし、手をつなぐ隣の人と、ずっと一緒にいたいとも思う。
進学してからだって、充実した毎日を送りたい。
しかしそんな漠然とした想いを表に出して、星に願うのは違う気がした。
願い事ひとつも満足にできない。
つまらなくて、重たい。
(どうしてなのかな)
もっと気軽に、自由でいられたらいいのにと、諦め混じりに感じていた。
プラネタリウムは映像も音声もすばらしく、あっという間に公演時間は過ぎていった。
「終わっちゃったね。……なんだか夢を見ていたみたい」
明るさを取り戻していく場内に、淋しさを覚える。
「さて」
奈月は立ち上がり、小さく肩を回した。
「もう少ししたら閉館時間だね」
そこで、二人で売店に足を伸ばした。
「あ、私これ欲しい」
郁が手に取ったのは、ユーグレナのシリアルバーだ。
ミドリムシがたっぷりとのうたい文句が頼もしい。
棚にはユーグレナのクッキー、ペースト、塩、スープといった様々なラインナップが並んでいる。
「うわー、ミドリムシ」
「嫌い? 栄養価を考えると、差し入れにもいいかと思ったんだけど」
「差し入れするの?」
「うん、父のおやつにどうかと思って」
「おやつにこれか……」
奈月の反応はいまいちだが、不足しがちなミネラルを補うには悪くないと思う。
渋みのある緑も、いかにも健康によさそうだ。
「ほかには何かあるかな?」
売店には家庭用の工作キットや、吠える恐竜のホロ、宇宙食、文房具、天体ソフトなど、面白そうな商品が並んでいる。
「これなんてどう」
奈月が興味を示したのは、岩石キャンディーだ。
見た目がごつごつした石そのもので、食べるうちに中からフルーツ味の溶岩が出てくるのだそう。
「やけどに注意って書いてある」
どうやら溶岩はそれなりに熱いらしい。
「へんなの」
皆に配ったら楽しそうだ。
「流氷砂糖っていうのもあるよ。一見するとただの氷砂糖のようだけど」
「冷たいんだね。ここ、一瞬で飲み物が冷えますって書いてある」
「冷えるのはいいけど、甘くなるのは少し困るかな」
その脇には、一週間日替わりで味の変わる七味もある。
「いろいろなものがあって面白いね」
どこにでも文字が書けるレーザーペン、丸一日だけ色を変えられる染料、日中でも星空が見られるレンズに、虫除けミスト。
遊び心があるものと実用的な品がごちゃ混ぜになっている。
閉館のアナウンスが流れるまで売店で過ごし、外に出た。
「お土産も買えたし、満足。今日はありがとう」
帰り道、手をつないでもいいかと訊ねると、彼はこころよく了承してくれた。
「楽しかったぶん、帰りはどうしても名残惜しくなっちゃうね」
存在を近くに感じるぶん、余計に放したくないと感じる。
(ここは居心地がいいから……)
ずっとひたっていたかったけれど、乗り換えの駅に着いてしまえば、さよならを言わざるをえない。
「じゃあね、郁。また学校で」
「そうだね、またね」
手を振って、帰路についた。
大変遅くなり、失礼をいたしました。




