第九話
昼休みに、ダンスの練習が始まった。
音楽室を借りて、踊り手の一同は、叶の丁寧な指導を受けた。
上手には踊れなくとも、身体を動かすのは楽しいものだ。
運動不足もこれで解消できるといいのだが。
「けっこうスッキリするね」
そんな意見もちらほら上がる。
郁も同意見だ。
「叶くんが言うポイントさえ意識して合わせれば、どうにか見られるものになりそうかな」
ラインダンスのように動きをそろえる必要のある振り付けではないのがありがたかった。
群舞はステップを踏んで動き回っている時間が長く、楽しげに身振りを大きくとってさえいれば、どうにかなると叶は言う。
勢いだけで押すぶん、締めるべきところはくり返し練習が必要だ。
それでも、覚えることが少なくて、誰もがほっとした表情を浮かべている。
この時間、打楽器のチームも生物室で太鼓作りに打ち込んでいるはずだ。
今のところ、準備はスケジュール通りに進んでいて、見通しも明るい。
「今日はここまでにしよっか。来週の昼休みも、昼食後にここで練習があるから」
一通りを教わったところで、叶の合図で解散になる。
一度にとれる練習時間は二十分ほど。振り付けが簡単なもので助かった。
教室に戻る前に、更衣室で体操服から制服に着替える。
「週末に忘れちゃいそうだよねー」
手早く着替えを済ませながら、菜々が言う。
「来週になったら、きっとまたすぐに思い出すよ」
「郁は自宅で一人で練習とかしちゃいそうだよね」
菜々はまぜっかえすが、あいにくとそこまで努力を要する振り付けではなかった。
「やらなくてもついて行けそうだったから、たぶんやらないよ」
必要がありそうな場合は、やっていた。
「職員室に用があるから、私、先に行くね」
更衣室は混雑している。他のクラスの生徒も利用していて、長居するのははばかられる。
「あー、なんか頼まれてたね。手伝おうか?
「ありがとう。一人で大丈夫だよ」
プリントを取りに来てほしいと頼まれている。その前に手も洗いたい。
郁と菜々は、更衣室を後にした。廊下に出ると、ほっとする。
締め切った室内に、大勢で詰め込まれているのはあまり居心地がよくないものだ。
端末を取り出して、スケジュールの確認をした。
時間のゆとりはあまりない。
「それじゃ、あとでね」
別れようとしたところを、硬い声の菜々に呼び止められた。
「待って。なにそれ」
菜々が指をさしているのは、端末に結ばれたストライプのリボンだ。
「ああ、これ」
「……あたし、それ見たよ。ミオのバッグについていたのと同じ」
細部まで、よく記憶にとどめているものだ。
「昨日、小島さんにもらったの」
「なんで?」
「どうしてと言われても」
菜々の表情から温かみが消えている。
「友情のリボンだよね。郁はそういうの、嫌いだと思ってたのに。ミオと、友達になったの?」
「うーんと、そうだね。昨日少し、相談にのってもらって」
「相談?」
菜々の眉間にシワが寄る。
「ミオに相談なんてするの? あたしじゃなくて?」
「ええっと……」
どうも雲行きがあやしい。郁は問いかけるような視線を向けた。
「あたしより、そりゃあミオのほうが頼もしいってことなんだろうけど、それはわかるけど、だからってひどい」
「菜々?」
「郁までミオを選ぶんだ。そんなのちょっと……、あたしはイヤだよ!」
押し殺したように語気を強めて、菜々は吐き捨て、その場を去った。
「待ってよ!」
彼女の背中はすぐに廊下の向こうに消えてしまい、郁はためらったものの、職員室へとそのまま向かった。
後で話す時間を、とろうと思った。
結局菜々には無視をされつづけて放課後になり、郁の元に、紙の束を抱えて沙也がやってきた。
「歌詞について、いくつかのパターンで悩んでいるの。聞いてもらえるかしら」
「もちろんだよ」
来週には音入れがある。メロディラインを歌うわけではないが、方針だけはきっちりと固めておきたいのだそうだ。
録音は、ホームルームの時間に音楽室を借りて行う。
そう何度も機会を設けられるものではないし、誰もがなるべくなら一度で済ませたいと考えているだろう。
実行委員の側が的確な指示を出すことができるなら、時間のロスも減らせるはずだ。
本格的な居残り作業は週明けからの予定だが、この日も教室に居残りをする生徒は数多くいた。
郁も自分の席についたまま、沙也の話に耳を傾けた。
「スペイン語で統一するのは、いいと思うよ。音が明確だし、曲にもあってると思う」
「よかった。あとはここね。要所要所に入るセリフを、意味を大事にするか、語感をとるかで、意見が割れてて」
沙也の持つリストをひとつひとつ潰していく。
「私は、語感をとった方がいいと思う。けど、意味を大事にしたいっていう意見もわかるし、クラスの皆にも訊いてみたらどうかな」
「うーん、そうね、そうするわ。他の連絡事項とあわせて、全員にアンケートをとってみる。そのあと、もう一度叶くんと話し合えばいいわね」
「……叶くんとは上手く連携がとれているみたいだね」
「いい人だったから」
「よかった」
実行委員の間でコミュニケーションがきちんととれているなら、行事はたいてい上手くいく。
今回最も心配していたのもその点だった。
けれど、気を揉む必要なんてなかったのだろう。接点の薄かった人と親しくなるというのは、こうした行事の醍醐味でもある。
(うんでも、本当によかった)
沙也は、以前よりも表情が明るくなった。
決して活発になったり人付き合いが良くなったわけではないが、そこは個人の性質なのであろうから、変わる必要もないように思う。
ただ、意欲がにじみ出るようになったことが、友人として喜ばしい。
やはり、前向きな人というのは、それだけで魅力的だと思うのだ。
「楽しみだね、本番。この学年にしては、うまくまとまってるほうだもの、きっと上手くいくよ」
沙也の視線の、焦点がぶれる。
「こんなに個人的な動機で動いていていいのかと思うこともあるの。それでも、何かつかめたらいいなと、思っているのよ」
淡々とつむがれた言葉だったが、瞳はいくぶん所在なさげに揺れていた。
音楽に触れて、自分の気持ちを昇華したいのだと、折に触れて彼女は言う。
「もう、つかんでいるんじゃないかと、私は思うよ」
「そうかしら」
眉を寄せて、沙也が郁に視線を転じる。
彼女は変わった。新しいことに着手して、変わらない人などいないのだ。
『実行委員の話し合いに参加します。そのあと、一緒に帰って少し話をしませんか?』
菜々にメールを送ったが、返事はなかった。
もしかすると、先に帰ってしまったのかもしれない。
郁は沙也と叶、美桜と孝、それに演奏班の山崎と、教室で輪になってスケジュールを調整した。
郁と孝は催しの中心にいたわけではないが、実行委員と担任の戸山の間を取り持つのは、クラス委員の役割のうちだ。
進捗具合や問題点はしっかりと把握しておきたい。
けれど話し合いそのものに口を出すことはほとんどなく、話し合いは三十分程度でお開きとなった。
「太鼓の置き場所は、再度先生と相談してみよう」
「衣装はこのまま、ロッカーの上でいいわね」
「よし、じゃあ月曜にもう一度集まろっか。今日はこれでもういいよね」
叶の一言に口々に相槌をうち、皆は立ち上がった。
どのクラスも、資材の置き場に困っているようだ。
郁のクラスはまだ、かさばるものが太鼓だけだから、見苦しくはあるが教室の隅に積んでおくこともできる。
大道具などをこしらえないといけない演目を選んだクラスは大変そうだ。
廊下に出ると、学内は活気に満ちていた。
この時期特有の、浮き足立つ空気は嫌いじゃない。
「委員長さん、調子どう?」
教室を出てすぐに、美桜に呼び止められた。
調子というのが何を指すかはわかっている。
「実はまだなの」
「もう放課後じゃないの。帰っちゃったんじゃないの?」
「たぶん、生物室にいる」
昼休みに引き続き、生物室では太鼓作りに励んでいる生徒が幾人かいるはずだ。
「俺、生物室寄ってくわ。作業途中だから」
ちょうど孝が沙也と連れだって、廊下に出て来た。
「私も行く。音を聴いてみたいもの」
「あらぁ」
美桜が郁の腕を小突く。
押し出される形で、郁は沙也に声をかけた。
「私も……、行こうかな」
「んー、じゃああたしも付き合っちゃう」
なぜか美桜まで加わって、四人で生物室に向かった。
孝が振り向きもせずにズカズカ歩いていってしまったために、正確にいうと三人だったが。なかなか風変わりな三人連れだ。
「音にこだわってなかなか完成しない人もいるんだってね」
無難な話題を探して口にのぼらせる。
「山崎なんか調子にのって、みっつもよっつも作ってるらしいわよ」
「作るたびに音が違うって言ってたから。皆、こだわりがあるみたい」
ぽこぽこと陽気な音が聞こえてきた。
「子どもの遊び場みたいね」
ドアを開けるなり、美桜が言った。
生物室はにぎやかだった。
生物部らしい生徒が奥のほうで発表用のパネルを作っている。
余った前方のスペースを他のクラスと折半して借用しているのだが、誰もがわいわいと騒ぎながら作業しているのに加えて、太鼓の音もまばらに聞こえる。
孝は既に奈月の隣に腰をおろし、太鼓の周囲を縄でぐるぐる巻きにしていた。
沙也は一足先に着いていた山崎を見つけて声をかけ、美桜は入り口で腕を組み、にやにやしている。
郁の見つめる先で、奈月がこちらに気づいて微笑んだ。
「あたし普段はこんなことしないんだけど。呼んできてあげましょうか」
「ううん、いい」
美桜から離れて、郁は奈月のいる方へ向かった。
なんだろう、突き上げるような音がする。
規則正しいそのリズムが、自身の心臓の音だと気がついたのは、奈月の脇に椅子をひとつ引っ張り出して、ちょこんと腰かけたときだった。
(ああこれ、情熱のリズムだ)
あの日観た、ボレロのリズムだ。溢れ出すほど、音楽は身の内に存在している。
「機嫌はなおった?」
いつもと変わらぬ、穏やかな物言いだ。
視界の端で、孝がいぶかしげにこちらに目をくれるのがわかった。
「ごめんなさい、私べつに、機嫌を損ねていたわけじゃないの」
こうして真っ正面から顔を見るのは一週間ぶりだ。
少し前髪が伸びた。眼鏡のフレームにかかっていて、指で払ってあげたくなる。
「混乱してたの。あのね」
「うん?」
内緒話をするように両手を添えて、耳にくちびるを寄せた。
この部屋がうるさいのか、自分の鼓動がうるさいのか、わからない。
「気づいたの。私ね、奈月くんが好き。見ると触りたくなるし、いつも一緒にいたいと思う」
「――――……は?」
めずらしく呆けた顔をして、奈月がまじまじと郁を見た。
フレームの奥で、目が丸くなっているのがよく見えた。
その瞳に見とれていると、奈月は大きくため息をついて頭を抱えた。
「どうしてこんなところで言うのかなあ」
「なにかまずかった?」
「うん、まあね」
ちらりと向けられた顔は、笑いをこらえているかのようだ。
「気が合うね。実をいうと、僕もだ」
そうして時計に目を向けて、こうつけ加えた。
「一緒に帰る?」
郁はぱっと笑顔になった。
「うん」
奈月が席を立ち、孝と何やら言葉を交わしていたが、内容は頭に入ってこなかった。
郁も使用した椅子を片づけて、そこで美桜の視線に気がついた。
端末を取り出してリボンを揺らしてみせると、彼女が満足げにうなずいてみせる。
郁もなにやら高揚した気分になった。
何が変わったというわけでもないのだろうに、不思議なものだ。
「今日はもう終わりにするよ。片づけ、手伝ってくれるかな」
「うん。どれを運べばいい?」
組み立て途中の太鼓は奈月が持ち、残りの材料を放り込んだ紙袋を郁が教室まで運ぶ。
「じゃあねー」
すれ違いざまに、美桜が手を振る。
「ありがとう」
郁が美桜に手を振り返すと、奈月が訊ねた。
「何が?」
「いろいろと世話をやいてもらったの」
「へえ、いいね」
帰り道、話したいことがたくさんあった。
まずは、どれほど自分が奈月を好きか、わかってもらうところから始めようと思う。
一週間、ずっと求めていた。
声も、眼差しも、温もりも。すぐそばにあるのが、幸せだと思う。
「帰ろう」
並んで歩く。外に出る。
悩む必要も迷う必要もなかった。
相対する人によって、居心地の良い距離は異なる。
それが、彼の場合は極めて近い距離だったというだけの話だ。
肩の触れあうこの距離が、自然なのだと、腑に落ちた。
これで三章はおしまいです。
次から最終章に入りますが、また少し間があくかもしれません。




