第八話
郁はためいきをつきたかった。
マナーに反すると考えていなければ、朝から何度だってついていただろう。
(どうしてこんな……)
自分の気持ちに気づいて以降、だめだった。
どうしても、過剰に奈月を意識してしまう。
(同じ教室なのに。見ると、ふらふらと近づいていってしまいそうで、この、手とか足とかが)
自制しようとしすぎて、逆にひたすら彼を避ける結果となっている。
(こんなつもりじゃ、ないんだけど)
ぎくしゃくしていて、みっともない。
(よわったなあ)
後ろ姿を見ると、頭をなでたくなるし、顔を見ると、今度は声が聞きたくなる。
一体自分はどうしてしまったのかと、問い詰めてもう三日がたつ。
いいかげん、嫌になる。
そんな調子で、新学期に入ってから、挨拶以外ろくに言葉も交わしてないのだ。
せめて電話を。
そう思うが、いざかけようとなると、ふんぎりがつかない。
仕方なしに、配布された音楽データの歌声を、暇さえあれば聴いていた。
おかげでリズムはばっちりだ。
(このままではいけない)
第一、相手に失礼だ。早急にどうにかしなければ。
「きいてよ郁、ミオったらひどいんだよ」
休み時間に、泣き言を言ってきたのは菜々だった。
「てんで聞く耳もたないの」
「今度はどうしたの」
菜々が美桜に腹を立てることはめずらしくない。
不満を聞かされることが嬉しいわけではないが、こうも素直に気持ちを表に出されると、それはそれで美徳であるような気もしなくもない。
「ステージの衣装あるじゃない。あれね、もっと派手なほうが見栄えがすると思ったの」
「うん、それで?」
「手ぬぐいもさ、統一感があるっちゃあるけど、みんな同じなんてつまんなくない?」
郁も菜々も、美桜と同じでダンスの担当になっている。
郁は、みすぼらしくなければそれでいいと考えていたが、こだわりたいという意見もあるのだろう。
「なのにさー、ミオったらさー」
本人のいる教室で同等とぶつくさもらすものだから、美桜までこちらにやってきた。
「やぁだ、まだぶちぶち文句言ってるの?」
「なによう、頭ごなしにダメって言ったのミオじゃない。郁はちゃんと話聞いてくれるもん」
「同じのをたくさん頼むから安くあがるの。そんなの、いちいち聞かされる委員長さんだってたまったもんじゃないわよ」
菜々がむっとしたのがわかった。
「あたし今は郁と喋ってるんだから。ミオは口出ししなくていいですよーだ」
なるほど。事のあらましはだいたいわかった。
「購入まで、もうしばらくあるよね。もし変更を希望するなら、他にも意見を募ってみて比較しながら検討する必要があるね」
「……べっつに、そこまでイヤってわけじゃないよ。ただちょっと、――もうっ、もういいよ」
ほっぺをまるくふくらませて、菜々は教室を出ていった。
「子どもっぽーい」
見送って、美桜がつぶやく。
「さっきから妙にからんできてたのよね。どうして叶じゃなくて西野と衣装見に出かけたんだとか言ってきて、……そんなのどうだっていいとは思わない?」
「そのへんの事情はよくわからないけれど」
郁は美桜に向き直った。
「そういえば、衣装を任せきりにしてしまってごめんなさい。とてもありがたいと思っているの」
「あらやだ、真面目。それって委員長さんがお礼を言うこと?」
「クラスの一員だもの。委員長としてじゃないよ。……納得してない人もいるみたいだけど、菜々にはあとでもう一度聞いてみるね」
「あれはただちょっとすねてるだけでしょ。理由もほんとはあたしじゃないのよ」
「どういうこと?」
思わせぶりな視線を向けられても、郁には心当たりがない。
「委員長さんが構ってくれないから、淋しいんだって。さっき言ってた」
「私が?」
「女心をもてあそんじゃだめよ? それはそうと……」
美桜は郁に顔を寄せた。
「ねぇねぇ、やっぱりあれなの、お友達につれなくしちゃうくらい、男関係もめちゃってるの?」
「……はい、って、え?」
話の飛躍についていけない郁に対し、美桜はいかにも楽しげだ。
「興味あるのよねー。あたし、委員長さんはさ、もっと年上でがっつりエリートなタイプにいくと思ってたの。なのに、あれでしょ?」
顎で奈月の側を指され、郁は内心悲鳴をあげた。
(こ、小島さんまで……)
自分の態度はそこまで露骨なのかと、落ち込むほかない。
「わお、赤くなっちゃってかわいいんだぁ。ね、ね、どっちから先に言い寄ったの?」
「わ、私……かな」
「えー、意外! 素敵! もっとくわしく教えてよ」
「そう言われても」
話すことなど、ろくにない。
「いつから付き合ってるの」
「付き合ってないよ」
「うっそ、ほんとに?」
うなずく郁に、美桜はますます声をひそめた。
「でも二人で出かけたりはするんでしょう。委員長さん、見てると露骨に避けてるよね。ケンカでもした? それとも何か、いかがわしいことされちゃった?」
郁は真っ赤になって、首をぶんぶんと横に振った。
「違う、違うの。ちっともそういうんじゃなくて、私が一方的に意識してるだけというか。奈月く……、篠山くんは、悪くないの」
「ふうぅん」
満面の笑みの美桜の、迫力はすさまじかった。
「本当にただ、どう接していいのか、わからないだけ」
「好きなの?」
「そうみたい」
「いいわね、そうこなくっちゃ。でも避けちゃうような、悩みとか問題とかでもあるの?」
あらためて訊かれると困る。
(私、何か悩んでいたんだっけ?)
「悩んではいないかも。ただちょっと、自分の気持ちに気づいてしまうと、抑えが効かないようで、とまどってしまって……」
「うわぁ、なにやら純真な情熱の香りがするわね」
興奮した様子で、美桜は郁に抱きついた。
「やぁだ、かわいー!」
大声を出すものだから、クラスメイトの視線が突き刺さる。
「びっくりした。小島さん、声が大きい」
「ふふー。ねえ委員長さん、放課後ヒマ? たまには一緒にお出かけしない?」
「え、今日?」
「そうよ。いいでしょう?」
あまりに接点のなさそうな彼女に、誘われるとは思わなかった。
「いいけど」
「やったぁ」
美桜は本当に嬉しそうだ。
「たくさんおしゃべりしましょうね。私、そういう話は得意なの」
こうして二人は、放課後買い物に来た。
「ねえ委員長さん、普段どんな下着つけてる?」
なぜかやってきたのは下着屋だ。
「実は私、服より下着のほうが好きなのよね」
あれがいい、これが似合うと、郁にあれこれすすめて、美桜は言った。
「やっぱり、少し大人びたデザインのほうが似合うわよ」
「でもこれ、度胸がいるよ」
手渡されたのは、黒に白いふちどりのついた総レースの下着だ。
「色がはっきりしてるほうがいいんだってば。パステルカラーは似合わないからやめなさいね」
「わかった」
いかにも自信ありげな彼女の言動は、どちらかといえば苦手だったはずなのに、こうもはっきり物を言われると、素直に言うことをきいてしまいそうになる。
「これを身につけて彼の前に立ってごらんなさいな。あれこれ悩む必要なんて一切なくなるわよ」
「うええ」
よほど思い切りがよくないと、そうまで大胆にはなれそうにない。
「はっきりした色なら、フルーツカラーもいけそうね。ほらこれ」
明るいオレンジとライムグリーンを交互に示す。
「オレンジのほうがおいしそうね。あとは着け心地。身体に合うのが一番よ」
そのまま試着室に連れ込まれて、もみくちゃにされた。
色とりどりの下着に囲まれているのは心が浮き立つし、必需品でもあるのだからアドバイスはありがたいのだけれど、試着室だけは過酷な場だと思う。
購入を終えた美桜はいい笑顔だった。郁も謎の達成感を覚えていた。
「いーい? 下着は武器にもなるんだからね。なあなあで使ってちゃだめよ」
彼女のこの意識の高さは、なかなか見習えるものではない。
それでも、郁は美桜にお礼を言った。
「ありがとう。けっこう面白かった」
「買い物はてっとりばやく元気になれるからね。さてと、少し休憩しましょうか」
近場にあったコーヒーショップに入って座った。
もう秋だ。温かい飲み物の季節になってきた。
美桜がカフェオレを頼むのを見て少し迷ったが、ミルクティーを注文した。
ロイヤルミルクティーの濃厚さがたまに恋しくなることがある。
木漏れ日を連想させる緑のホロが踊るテーブルに向かい合って腰かけ、カップを取った。
白いカップのどっしりとした丸いフォルムがかわいらしい。
これほど近くで観察したことはなかったけれど、飲み物に口をつけるときも、美桜は格好が良かった。
感心するばかりで、見習おうと思えるレベルを越えている。
自らに多くを求める精神が立派だなあと、拍手を送りたくなるほどだ。
きっと彼女は、眠っているときですら、のんきに口を開けていたりはしないのだろう。
「それで? 詳しく教えてよ」
そう美桜は言うが、語ってきかせるほどのことはない。
くわしいいきさつははぶいて、意識しだしたら挙動不審におちいってしまった最近の心情だけを簡潔に伝えた。
「前から、好きは好きだったと思うんだけど、それが恋愛感情だとは気づかずにいたの」
己の現状も把握できていなかったなんて、美桜に伝えるのはいささかの羞恥を覚える。
「今まで普通に話せていたのに、急にどう接していいのかわからなくなっちゃって。……情けないよね」
馬鹿にされるかもしれないと覚悟していたのに、意外にも美桜の反応は穏やかなものだった。
「あら、それが恋心ってものじゃないの。取り乱すのは当然よ」
「え、そうかな」
「そうよぉ。感情の振り幅が大きくて、理詰めで動けないんでしょう。それだけ真剣だっていうことなんだから、気にすることないわ。そこも含めて味わいつくしなさいよ」
「なかなか味わうだけの余裕がなくて」
「向こうは委員長さんのこと、どう思ってるのよ」
それは郁も知りたいほどだ。
「わりと親しいほうだとは思うんだけど」
「まさかとは思うけど、触ってきたりする?」
「ええと? どうして?」
たぶん、する。
いくぶん赤面するのを自覚しつつ、郁は肯定した。
「けど、それはお互い様というか、私もつい手が伸びちゃうし……」
めずらしく、美桜がおかしな顔をした。
「やだぁ、それって両想いなんじゃないの? ふぅん、手が伸びちゃうんだ。で、向こうも避けたりしないんでしょう」
そうなのだ。それで余計に、いつまでも触っていたくなってしまう。
「興味あるわね、委員長さんはどこに手が伸びちゃうの?」
(どうしてこんな話になってるんだろう)
「頭……かな。触り心地がよくて」
だんだんいたたまれない気持ちになってきた。
「まあ、考えていても無駄なんだし、潔くお付き合いを申し出てみたらどう?」
「受験の邪魔になってしまったりはしないかな」
「そんなことくらいでつまずくような男は願い下げでしょ」
ばっさりと美桜は言い切る。
「それに私、付き合うっていうのがよくわからない部分もあって」
「付き合い方は人それぞれよ。マニュアルなんてないの。好きに接していればいいのよ」
美桜に断言されると、やけに説得力があるように感じてしまうのが不思議だった。
「そういうもの……?」
「一人で決められるものじゃないってこと。だから一人で悩むのもムダ。時間がもったいないから、ぶつかってごらんなさいな」
「うん」
「ダメだったら、そのときは泣き言聞いてあげるから。いい?」
背中を押されたんだか、励まされたんだか、なぜか郁も素直にうなずくことができた。
「わかった。まずは素直に伝えてみる」
「ん。いい子ね」
帰り際に、少し待っているように言われて、美桜は小走りに雑貨屋に入っていった。
すぐに戻ってきた彼女の手には、小さな包みが二つある。
「はい、これ」
そのうちの片方を手渡されて、開けてみると美桜が手にする片割れと、そろいのリボンが入っていた。
「これって」
流行りの友情の証だとかいう品ではないだろうか。
「委員長さんらしく、きりっとした紺のストライプ柄にしてみたの。端末出して」
郁の手からリボンを奪って、美桜は郁の端末のストラップ部分にきつく結んだ。
「さ、これでいいわ。これ見て明日はがんばりなさいな」
美桜も、自分の鞄の持ち手にくるくる巻いて、結び目を設けた。
「結果をあたしに報告するまで、ほどいちゃダメよ」
彼女なりの励ましだろうか。
まさかリボンを誰かと共有する日がくるとは思ってなかった。
(しかも相手が小島さんだもの)
前向きなエネルギーがあふれる、不思議な人だ。
「ありがとう」
どことなく、くすぐったいような心地になって、郁は彼女にお礼を言った。




