第六話
「おはよう、起きて。もう朝だよ。……ええと、奈月、くん」
そう、声をかけるのには気合いが必要だった。
ぎゅっと頭を締め付けられるような、羞恥心が全身を巡る。
布団に潜り込むようにして寝ていた奈月の腕が伸びた。
「――もう少し」
世にきく、これが、あと五分というやつだろうか。
「まだ眠いの?」
力のこもらない、かすれた声が返事をした。
「眠いというより……、布団の中は温かいよ、ほら」
腕を引かれて、つまづいた。
同時に布団がめくられて、シーツに膝をついていた。
「おいでよ、こっち」
胴に腕がからみつき、あえなく布団に引っ張り込まれる。
驚いた。けれどもそれ以上に、温かかった。
「もしかして、寝ぼけてる?」
「そうだね、寝ぼけてる。だから大目にみて」
肩に額が寄せられて、髪が頬をくすぐった。
おずおずと、頭をそっとなでてみる。
「もう一度、起こしてみてよ。一度じゃ起きられそうにないんだ」
おかしな気分だ。誰かを甘やかすと、自分も満たされた心地になるものだろうか。
「おはよう、奈月くん。朝だよ、起きて」
「ん、……おはよう、郁」
「おはよう、今日はいい天気だよ」
手のひらがしあわせだった。
(髪の毛、きもちいい)
少しだけ、布団から出たくないという奈月の気持ちがわかった。
(一人じゃないからかな。ほっとする……)
「誰かに起こしてもらうなんて、何年ぶりだかわからないな」
「そうなの? ああでも、そうだね。私もとんと記憶にないや」
奈月が口を開くたび、布地がこすれてくすぐったくなる。
「かなりいい気分。だけど、これがクセになったら困るね」
「一人では起きられなくなりそう?」
「いや。それ以前に、一人では眠ることもできなくなりそう」
「それは困るね」
思った以上に、彼は人肌を恋しがるタイプなのだろうか。
まったくそうは見えないが、気づけばいつも手の届く距離にいる。
奈月といると、郁もその味をしめてしまいそうで、そんな自分を意外に思う。
人付き合いは嫌いじゃないが、あまり誰かに触れる機会などない。
それなのに、気づけばこうしてくっついて、たいした抵抗も感じずにいるのだからわからないものだ。
(奈月くんは、距離の縮めかたが上手いのかな)
人の身体のぬくもりを、教えてくれたのもこの人だ。
癖になったら困る。それは自身にも当てはまるようで、それはまずいと郁も思った。
髪をなでるのは気持ちがいい。ふとしたひょうしに触れる、素肌の熱が心地良い。
べったりとはりついたまま身じろぎもしない。奈月もくつろいでいるのだろうか。
ぽかぽかとしみる体温が、眠気をさそった。
(二度寝は、よくない)
誘惑に流されてしまうと、生活のリズムは狂うし、体調にだって影響を与えてしまう。
郁は意を決すると、奈月の髪に頬ずりをしてから、身体を起こした。
回されていた腕はすんなりと離れ、奈月ものろのろ上体を起こす。
「んん、今日の予定は?」
「私は特に何も。奈月くんは?」
「僕のほうも、何も」
ソファから抜け出し、郁は、あくびをもらす彼に告げた。
「だったら、まずはシャワーを浴びて、そのあと朝ごはんにしましょうか」
バスルームに奈月を放り込んだあと、寝具を片づけ、キッチンに立った。
「僕は郁のあとでいいよ」
そう奈月は言ったけれど、郁はとうにシャワーも自主学習も済ませていたのだ。
服装はいくぶん迷ったが、自宅にいるのに気をまわしてもしかたがないと、若干ルーズなカーキのパンツに、長袖のパーカーをかぶった。
まるきりの部屋着姿だが、出かけるとなったら着替えればいい。
ちぎったレタスの水分を、水切りをぐるぐる回して飛ばしていると、バスルームから奈月が出てきて背後に立った。
「サラダ作ってるの? 手伝うよ」
なぜか真後ろから聞こえる声がやけに近い。
「う、うううん?」
そんままぎゅっと抱きつかれ、口からおかしな音が漏れた。
「なに、なに。どうしたの」
まさかまだ寝ぼけているわけでもあるまいに、抱きつき癖でもついたのだろうか。
動くと頭がぶつかりそうだ。
背中が熱くて、恥ずかしいわけでもないのに、顔に血の気がのぼるのがわかる。
「手が勝手に……」
「勝手に!?」
「なぜだか抗えなくて。両手が」
(なにそれ)
意味は不明だが、距離が近いと気持ちが高まる。
嬉しいんだか、困惑しているんだか、胸の内がむずむずざわざわ落ち着かなかった。
「さっきのおかえし」
耳元で声がして、頭に頬がこすりつけられるのがわかった。
ついでにこめかみをくちびるが挟んでいって、動悸はますます高まった。
(わぅ)
郁の身体は硬直したように動かなかった。
思考がぐるぐる渦巻いて、しばらく顔を見ることはできそうにない。
「何作るの。せっかくだから、一緒にやろう」
(せっかくだから……、うん、せっかくだからね)
何がせっかくなのかもわからないまま、ぎこちなく二歩ぶん真横にずれて、場所をゆずった。
「ではでは、そこに洗ってある野菜を切ってもらえますか。私は卵を焼こうと思います」
こころなしか口調までもがぎこちない。
「わかった」
しっとりとした声のする方に顔は向けられず、前を向いたまま、郁はボウルに卵を割り入れた。
「トースト、焼きます。チーズ入れて、オムレツ焼きます。ベーコンも。それに、サラダでいいですか」
「いいですよ」
「そうします」
いつも一人のキッチンに、誰かがいるのがめずらしかった。
簡単な作業も、どこか心は浮き立ったままだ。
「ところで奈月くん、ケチャップは好き?」
意識して深く呼吸をくり返すと、どうにか普通に声が出るようになった。
「うん、まあ。どうして?」
「塩こしょうとケチャップ、どっちがいいかと思って」
「卵? だったら塩かな」
「うん、了解。そうする」
紅茶をいれるためのお湯も沸いた。
朝食の準備は、スピード勝負だ。
お皿を運んでくれる人がいるのは、ありがたかった。
二人で向かい合って座り、朝食をとる。
「卵焼くの上手だね」
「ありがとう、よく焼くの。それに、今使ってる新しいフライパンも優秀でね、ちっとも焦げないんだよ」
ダイニングに移動する頃には興奮も収まっていたので、会話にとまどうことはない。
「明後日からまた学校だ。秋休みは日数が半端だね」
「うん。でも、私はいい息抜きになったかな」
「それは僕もだ。おかげさまで、無事に課題も終わったし」
「あとは見直しをしておけば完璧だね。この時期になると、もう毎日、復習ばかりになっちゃうね」
「復習ね、……同じ事くり返すのって、苦手だな」
「そっか。それでもほら、理解が深まるのって嬉しいことはない?」
「嬉しい……? うーん、まあ、場合によるかな」
「わからないことを放っておくのは、落ち着かないというか」
「そういうところは、うちの兄に似てるね。僕は流しっぱなしだ。なかったことにしてしまうのは得意だから」
「そう?」
郁は首を傾げた。そんな風には見えなかったが、これでとりつくろうのは上手なのかもしれない。
「学校が始まったら、すぐに学園祭でしょう。それが終わったら、……卒業まで、きっとあっという間なんだろうなあ」
「うん、やっとだ」
「奈月くんは、卒業が楽しみ?」
「卒業がというより、進学がね。はやく独り立ちがしたいから」
「そうかあ。立派だね」
周囲を見回しても、前だけを見据えている人ばかりが目につく。
「……もしかして、卒業してしまうのは淋しい?」
「ううん、私も楽しみだよ。学習内容を自分で選択できるようになるのって嬉しいよね。やりがいがありそう」
その言葉に嘘はないが、押されるように環境が変化していくことに、時折不安を覚えるのもまた事実だ。
おそらく自分に自信がないのだろう。
(もっと、しっかりしなくっちゃ)
自分の成長が追いつかないからといって、待ってもらうわけにはいかない。
悩んだところで、できることといったら、こつこつ頑張ることくらいだ。
(こんなとき、不器用だって思うよね)
ひとつの目標に向かって突き進むことは得意でも、柔軟に視野を広くたもつことは不得手だ。
(いいなあ)
奈月を見て思う。
あんなふうに、自然体でいられるというのは、どんな心持ちがするものだろう。
いつも気負ったところがないようで、そんなところが羨ましい。
じっと見つめていたら、目が合った。
ほほえみを返されて、それがどうにもくすぐったかった。
学校にいるときのように騒々しくなく、机に向かっているときのように気が張ってもいない。
甘やかされてでもいるかのような、そんな空気に、頭の働きがにぶくなる。
紅茶の香りも、いつにも増して、染みわたるようだった。
午前中はソファに並んで腰かけて、やけに距離は近かったけれど、ニュースを見ながらだらだら過ごした。
常に届くところに体温があるのが、まるで猫でも手なずけているかのようで、つい手を伸ばして幾度となく髪をなでた。
あたりまえに受け入れてくれるのが嬉しくて、さきほど奈月が口にしていたように、手が勝手に動くというのも納得できた。
触っても怒られないというのは、なんだかとても、満足がいく。
「そろそろ帰るよ」
「え?」
昼前に、奈月が言い出したときには、何を言われたのかとっさに理解ができなかったほどだ。
「どうして?」
なぜだかずっと、一緒にいられる気がしていた。
「もう十分に、長居をしてしまったからね」
「そんなの、まだいいのに」
「うん、ありがとう。また今度、休みの日にでもね」
「うん……」
引き留める理由はなかった。
「じゃあ、駅まで送るね」
「うん、平気だけど」
「いいの、いやなの。送らせて」
みちみち指さしながら、よく行くコンビニだとか、お気に入りの花屋さんだとかを紹介して歩いた。
あまりきれいな町並みではないけれど、ありきたりな碁盤の目に区切られた住宅街は、この日ものどかだ。
困ったことに、おしゃべりしながら歩いていると、駅にはすぐについてしまって、さようならを告げるのは気が進まなかった。
(なんだか、しょっちゅうさようならばかり言ってるみたい)
夏の別れは、今も心に重く残る。
「気をつけてね」
「また明後日。お世話になりました」
「そうだね、明後日。学校で」
手を振って、地下へと消える奈月を見送った。
明後日なんて、すぐだとわかっていたけれど、学校だと違うのだ。
(学校では、ろくに話もしてくれないくせに)
奈月を責めているわけではない。
今日と同じようになど、郁だって話しかけられはしない。
学校にいるときの郁は、クラス委員として振る舞うべきだという意識が強すぎる。
ひとの目もある。耳もある。
リラックスなど、できるはずもなかった。
帰宅して、リビングのソファに座ったとたん、あるはずのない違和感を覚えてとまどった。
(どうして一人なんだろう……)
喪失感は嫌いだった。
自分がひどく心許ないものに思われて、それが理不尽だとさえ感じるほどだ。
部屋に戻ると、机の上のトンボ玉が目にとまる。
おそらく奈月も、交換した片割れを持っている。
小さな玉を、指でつつくと、硬くてつめたい。
(そうだ)
思いついて、端末を取り出した。
履歴から、『香奈さん』の項目を呼び出し、修正を加える。
大切だったその人の名前を消して、『篠山 奈月』と登録をしなおした。
郁からみて、その二人がようやく同じ、彼だと思えるようになった証だ。
ここに至って、ようやく郁は、はっきりと自覚した。
「そうか、私、……奈月くんが好きなんだ」
父が戻ってくるまで、あと三日。
一人の時間は長そうだった。




