第五話
「ただいま」
「――おじゃまします」
自宅の玄関をくぐったところで、ようやく郁は我に返った。
「どうぞあがって。好きにしてね」
「え、っと、ありがとう……?」
奈月が視線をさまよわせる。郁は、狙って平静なふるまいをこころがけた。
(だってあんな、私などいないような顔をするんだもの)
自分でも、どういった衝動にかられてのことか、把握はできていなかった。
それでも、放っておけなかったのだから仕方がない。
なぜだか、しっかりつかまえておきたくなったのだ。
こんなふうに、衝動に駆られることなどめったにないから、郁も現状がよくわからない。
「ソファに座って。あ、洗面所は向こう」
リビングに案内をして、部屋のスクリーンを下ろす。
奈月の表情から、彼も納得のいっていないのが見てとれる。
「なぜ僕は、易々とここに連れ込まれているのでしょう」
そんなことをつぶやくものだから、郁も雰囲気で返事をした。
「無防備な顔をして、立っているのが悪いのです。篠山くんは、隙だらけです」
息をつくような微笑を彼がもらす。
「いいの? 本当に朝までいるよ」
「いいよ。嘘なんてつかないよ」
「そう」
うなずく彼に、ざっと指さし、案内をする。
「バスルーム。あと、私の部屋。向こうは父の部屋だから、そこは入らないで」
「わかった。ねえ、郁の部屋には入らないでって言わないの?」
「そんなにたいそうなものではないもの。お茶いれるね」
「手伝おうか」
「大丈夫。座って待ってて」
時計を見る。夜の八時だ。
それが早いのか遅いのかすら、理解の及ぶところではない。
「アップルティーと玄米茶、どっちがいい?」
「その二択なの? そうだな、玄米茶かな」
「お腹はすいてないよね、何かつまむ?」
「いいや、いらない」
ちょうど家に、おすすめの玄米茶があるのだ。
抹茶や緑茶の味の違いはいまいちわからない郁も、玄米茶の違いはわかる。
「どうぞ」
「ありがとう、いい香りだね」
「あまり露骨なお茶漬けのような匂いはしないでしょう、抹茶が多いのかも。おいしいよ」
きちんと適温を見計らってお茶をいれてある。
湯飲みをふたつテーブルに置き、隣に座った。
あらためて思う。ここにこの人がいるのは、なんだか不思議だ。
「いただきます。――本当だ、おいしいね」
やった、と思った。
「父のお土産なの。最近のお気に入りで、また買ってきてほしいなと思って頼んだんだけど、どこで買ったのか忘れたっていうんだよ。ひどいよね」
「お父さんは、ひんぱんに家を空けるの?」
「そうだね、出張は多いほうだと思う。一ヶ月ずっといることはないかな」
「淋しい?」
「そうでもない。慣れているし、家に一人だからといって、それとひとりぼっちなのとは別でしょう」
「それはたしかに、そうかも」
「だから、私は平気なんだけど、父のほうは最近疲れがたまっているみたいで、それが心配かな」
「きっと、家に帰ってくるとほっとするんじゃないかな。そんな気がするよ」
「そうだといいんだけどね」
「郁は、一人のときは何をしてるの」
「いつもと変わらないよ。判で押したように同じ。朝は少し早めに起きて勉強をして、休みの日の午前中は家事をしていることが多いかな。午後は少しのんびりして……、ごはんを作って」
「遊びに行ったりはしない?」
「お友達に誘われたときは出かけるけれど、普段はあまり。こんなことを言って情けないと思われるかもしれないけど、何をして遊んでいいのかよくわからないの」
「ふうん、まあ、無理して遊ぶようなものでもないからね。それに、何をするかより、誰と過ごすかのほうが大事だったりするから」
「それはそうかも」
「一人でいるのは、僕も好きだよ。一人の時間がないと、バランスがとれなくなるし」
「篠山くんは、いつもとても落ち着いているように見えるけど」
「それはないな」
奈月は否定するけれど、声のトーンが同年代の男の子に比べると、落ち着きがあって安心できる。
「肩の力が抜けているようでうらやましい。あっ、やる気がないとか、そういうんじゃなくてね。肩肘張ってる感じがしないの」
自分が肩肘張っている自覚があるだけに、一度美点に気づいてしまうと憧れる。
「私は、義務とか目標とか、そういうものにとらわれがちだから。自分でも不器用だなって、よく思う」
「不器用じゃない人なんて、あまりいないんじゃない」
「そうかな」
「たぶんね」
ぽつりぽつりと、とりとめのない話をする。
「意欲があるのはいいことだよね。僕からすると、郁ってずいぶんけなげなんだなと、ずっと思ってた」
「……けなげ?」
初めて言われた。
「堅物だとか、面白味がないとかじゃなくて?」
奈月がくすりと笑う。
「そういうふうに思われるのが負担?」
「そんなことはないけれど……。つまらないんじゃないかとか、このままじゃいけないんじゃないかとか、そう思うことはあるの」
「まだ高校生だからね」
奈月の視線が湯飲みに落ちた。
「これは親戚の受け売りなんだけど、高校生のうちは、息苦しくてあたりまえなんだって。飛び上がる前の助走や溜めの期間だから、進学したり社会に出たりして環境が変わると、人もころりと変わるらしいよ」
(なぐさめてくれてるのかな)
愚痴をこぼすことには不慣れで、どこまで甘えていいのかわからなくなる。
「そうだといいな。あまり、成長して変わった自分なんて想像できないけれど」
「明確なビジョンなんて、ないほうがむしろいいよ」
「そういうもの?」
深い瞳で、彼はたしかにうなずいた。
「がんじがらめになる」
「視野や可能性が狭まるということ?」
「それもあるだろうけど、……あるべき姿に届かない自分を認められずに、歪むこともあるんじゃないかな」
「なんだか、実感がこもっているみたい。それは篠山くんの体験談?」
まばたきをひとつして、奈月はかぶりを振った。
「ごめん。いや、僕はそこまでの目標なんてないからね。兄にも、もっと真面目に勉学に取り組めなんて、はっぱをかけられるくらいで」
「お兄さんがいるんだったね。ええと、あまり似ていないんだっけ」
「そうそう、出来が良くてね、自立心が旺盛で」
「兄弟が居ると、比べられる?」
「いいや、まったく。あいにくとね」
年が離れているときいたので、そのせいもあるのだろうか。そう思った。
そうしてしばらくくつろいだ状態で話すうちに、奈月があくびをかみころすのに気がついた。
「篠山くん、眠い?」
「少し。めずらしく、朝早くに起きたから」
「だったら、寝床を用意するね。ソファでいいかな、掛け布団もってくるから」
ソファは三人掛けだ。眠るのに、さほど不自由は感じないだろう。
「うち、お客さんが来ないものだから、予備のベッドがなくて。でも背もたれを倒したら、けっこう広々寝られると思うの」
「こう?」
奈月がソファのサイドを探って、座面とひとつながりになるように背もたれを倒した。
「そうそう。枕の予備くらいはあるから。あとはええと、寝間着かな」
「このままでいいよ、上着脱げば十分」
「寝苦しくない?」
「ぜんぜん。洗面所借りるね」
「うん。予備の歯ブラシ出しておいたから、使って」
「ありがとう」
奈月が眼鏡をはずしてテーブルに置いた。
彼の素顔はクセがない。
(どちらかというと、素顔のほうが好きかなあ)
髪がやわらかそうだと思う。実際に、やわらかいのを知っている。
指が長いと思う。声が澄んでいると思う。話し方がきれいだと思う。
性別が変わっても、変わらないことはたくさんある。
(笑い方も、体温も、物腰も、歌声も)
惹かれるのはなぜなのだろう。
そしてやはり、こんな自分を彼はどう感じているのだろうかと気にかかる。
洗面所に背中が消えて、ずっと見とれていたことに気づく。
(……っと、お布団出さなきゃ)
手のひらで頬をこすって、納戸に向かった。
ソファにシーツをかぶせて寝床をこしらえると、今度は郁が洗面所で顔を洗った。
リビングに人がいるなら、夜間に部屋から出るのはマナー違反だと思うのだ。
今のうちに用事は済ませて、睡眠の邪魔にならないように大人しくしておくべきだろう。
リビングに戻ると、湯飲みは既に片づけられていて、奈月も上着を脱いでいた。
「こんなに早くに寝るのは久しぶりだな」
「そうなの?」
郁はいつも早めに寝るよう、こころがけている。
「宵っ張りだと、朝が辛くならない?」
「うん、なる。学校のある日は、アラームを二重にかけてむりやり起きてる」
菜々も同じようなことを言っていた。必要にせまられないと、起きられないのだとか。
「明日は、郁が起こしてくれるのかな」
ソファに腰かける奈月に、手招きされて、近づいた。
「起こして欲しい時間はあるの? 朝寝坊しても、私はかまわないよ」
「名前を呼んで、やさしく起こしてくれるかな。時間はいつだってかまわない。もしも寝ぼけていたら、僕はさぞかし驚くだろうけど」
手を引かれて、隣に腰かけるよううながされた。
「もう寝るんでしょう。少しだけ、ここにいてよ」
「……うん」
手の甲を、奈月の指がそっとなでていく。
「どうして僕をここによんでくれたの。放っておけないほど、途方に暮れているようにでも見えた?」
「ううん」
郁は己を振り返って考えた。
「別れ際は、なんだか少し淋しくて、壁を感じて嫌だった。だからだと思う。わがままなんだけど、もっとちゃんと、私を見ていてほしかったの」
「それは……」
奈月の眉が下がり、口元は引き結ばれた。困惑しているような、なともいえない表情だ。
「ごめん。ちょっと照れた」
視線が外される。恥ずかしがられるようなことを言ったつもりはないのだが。
テーブルの上の眼鏡が郁の視界に入った。
「視力は、どのくらい良くないの?」
「若干ぼやけて、小さな文字を追おうとすると疲れるくらいかな。急に何?」
「私の顔は見える?」
「見えるよ」
再び視線を向けられて、我知らず微笑んだ。
「よかった」
見てもらえないのは淋しい。そんな風に思うのは初めてだった。
手を包む、指の力が強くなる。
「――弱ったな」
「うん?」
「いや、自宅にいると、表情がやわらかくなるね。もしかしたら自分では気がついていないのかもしれないけど、郁はけっこう素直に気持ちが顔に出ることがあるよ。そういう無防備なところ、僕はけっこう好きだと思う」
手を取られて、指先が奈月のくちびるに押し当てられた。
合間から、漏れる空気が暖かかった。
「おやすみ。ゆっくり休んで、また明日」
「……おやすみなさい」
解放された手が、なごりを惜しんで、郁に何かを訴えていた。
そのシグナルをどう受け止めていいのかわからないまま、郁は立ち上がって、じりじりと自室に後退していった。
「明かり、落とすね」
リビングの調光を最小まで落とす。
室内はぼんやりとした形が判別するていどまで暗くなり、奈月の顔も見えなくなった。
「おやすみなさい、奈月くん。また、明日」
郁は静かに、扉を閉めた。




