第四話
頭をすっきりさせておきたくて、早朝の受験勉強が一段落したあと、自転車をこぎに行った。
動くうちに身体は温まったけれど、思った以上に今日は気温が低い。
気づけばもう十月だ。すっかり秋だし、月末までには雪だって降るだろう。
帰宅してシャワーを浴び、冷蔵庫を開ける。
郁の父は、昨日の午後から再び出張で家をあけている。
月のうち半分はそんな調子だから、一人でいることは気にならない。
いつも通りを心がけて生活するだけだ。
そんなわけで、時間に追われているような感覚があるのは、父の不在のせいではなく、午後に約束が入っているためだろう。
相手が相手だ。足場が不安定なような、落ち着かない気分になる。
(一時に待ち合わせだから、十二時半までには食事をすませて、……えっと、何を着ていこう)
昨夜の残りを温め直しただけの朝食をすませて、お茶を飲む。
じわじわと忍び寄る緊張感も、きっと直接顔を合わせれば晴れるだろう。
案じている段階が、一番よくない。
たとえば、何を話せばいいのかとか、どう接するのが自然なのかとか、そもそも自分たちはどんな関係なのかとか、余計なことばかり考えてしまう。
自分一人では答えの出せない問いばかりだし、かといって相手に尋ねることもできやしない。
勘を働かせようにも、元となる経験だってさっぱりなくて、どっちに進んでいいのやら、こういう状況を暗中模索というのだろうか。
「ああぁ、とりあえず、掃除でもしようかな」
ぶんぶんとかぶりを振って、郁は家事に没頭した。
「洗濯を終えたら買い物に行って、……それでそのあと、準備をしよう」
(大丈夫、大丈夫)
呪文のようにそう唱えて、てきぱきと手を動かす。
なんだかんだで、食料品を買いに行って、帰ってきたらもう十一時だ。
(あわわわわ……)
食品をしまい、クローゼットに向かう。
「こまった。こまったよ」
洋服選びで一番大切なのは、TPOをわきまえること。今日行くのは、図書館だ。
「ということは、つまりええと、勉強しやすい格好? うう、わかんない。どうしよ」
そこではっと気がつく。
「あっ、ちがう。あったかい格好すればいいんだよ。今日寒いもの」
そうだそうだと喜んで、丈が長めのニットのワンピースを取り出す。
「いいんだよね? お友達と外出する格好でいいんだよね?」
手にしたワンピースの色はとっても地味だ。ブラウンといえばあたりさわりがないかもしれないが、ありていにいえば土の色をしている。
「でも、靴だって茶色だし。カーディガン羽織れば……」
襟ぐりの開いているサーモンピンクの服が目にとまる。
明らかにこちらの方がかわいらしい感じはするが、間違いなく保温性には欠ける。
(うー……)
悩んだすえに、選んだのは茶色い服だ。
「健康第一」
自分に言い聞かせて、着替えをした。
判断は間違っていなかったと思う。
外に出ると風が冷たかった。
結局カーディガンは学習道具とともに鞄につめて、薄手のコートを着た。
靴は冬靴だし、タイツは七十デニールだ。たとえ帰りが遅くなっても寒くはない。
待ち合わせたのは、大通駅の地下、改札を出たところだ。
地下にもぐってしまえば暑いくらいで、駅について地下鉄から降り、改札をくぐると、すぐに定番の待ち合わせ場所がある。
時間にゆとりをもたせて移動したのだが、奈月は既にそこにいた。
腰かけつきの柱にもたれて、ぼんやりしている横顔を見つけるのに、時間はかからなかった。
この日は彼もカジュアルな服装で、なんでも入りそうな大きな鞄を肩からさげている。
「篠山くん」
声をかけると、振り向いてふわっと表情をゆるめてくれた。
「やあ」
(やっぱりこれ、なつかしいな)
おだやかなほほえみは、『香奈さん』のものだ。
鼓動がわずかに高鳴るが、同時にじんわりほっとする。
「食事は済んだ?」
「うん、食べてきた」
「よし、じゃあ行こう」
並んで歩くのはおかしな気分だ。横目で見ていたら、「どうかした?」と訊かれた。
「……身長とか歩き方とか香奈さんと同じなのに、篠山くんといるんだと思うと不思議な気がして」
「ああ、なるほど」
曖昧に目を細めて、正面を向く。その顔はやっぱりクラスメイトの奈月のものだ。
面影はあるけど、同じようで少し違う。
(これはやはり、香奈さんではなく篠山くんとして接したほうがいいのかな)
どちらにしても、妙に気恥ずかしいのは間違いない。
今日は保護者もいないのだ。
(マフラー、かわいいな)
柿の色とカラシの色とのボーダーだ。巻くほど寒くはないようで、たらりと首からさげている。
手近な階段を上がり、地上に出た。
図書館へは、ここから市電に乗り換えだ。
「私、乗るのひさしぶり。一年ぶりくらいかも」
利用者は多いはずだが、沿線上に住んでいないかぎり、あまり利用する機会はない。
それこそ郁は、中央図書館に行くときくらいしか乗らないし、本を借りたいだけなら、最寄りの支所に届けてもらったほうが早くて便利だ。
「僕もあまりないかな。たまに乗ると、気分が変わって楽しいよね」
「そうだね、少しわくわくする」
車体はレトロなおもむきで、全体的にころんとしていてかわいらしい。
土曜日でもこの時間だとすいているらしく、ふたりで並んでシートに座った。
これといって会話はなかったけれど、居心地は悪くなかった。
むしろ、面と向かっていないですむぶん、ほっとした。
車内は足元が暖かくて、眠気をさそうほどだった。
やがて図書館前に市電は停車し、降りると外気の冷たさに目が覚めた。
「自習室と閲覧室、どっちがいい?」
奈月が訊いた。
「閲覧室のほうがいいかな。図書館に来たっていう気分にひたれそう」
机が並んでいるだけの自習室のほうが、勉強ははかどるかもしれないが、本に囲まれて机に向かう閲覧室のほうが雰囲気がいい。
「それもそうだ。喋っていても叱られないしね」
「そうだね」
一階の、児童書や一般文芸を取り扱っているコーナーは、人も多くてにぎわいがある。
二階に上がり、学習参考書がそろっている方へ向かうと、ほどよい静けさと、キーを打つ音やページをめくる音、声をひそめて会話する音などがノイズとなって耳についた。
静けさの中に、雑然とした空気が混じる。
同じように目的を持って来ている人の集まりだ。
悪くない雰囲気だった。
「たまにはいいね。一人で部屋にこもっているのも集中できていいけど、こういうところで他の人が頑張っている姿を見るのも、励みになるかも」
窓辺の席に並んで座った。
「今日は一人じゃないからね。一人だったら余計な本ばかり手にとってしまって、ちっとも勉強なんてはかどらないだろうな、僕だったら」
「普段読まないようなたぐいの本がたくさんあるもんね。書棚を眺めているだけでも面白そう」
今も紙媒体の書籍は根強い人気がある。
ここに来る途中に目についただけでも、色とりどりの背表紙やデザインに、個性があらわれていて興味をひかれた。
「僕、今日で課題を終わらせようと思ってるんだ。郁はもう終わってる?」
「うん、私は一通り済ませたけど、見直しがまだなの。少しひっかかったところもあって、そこを重点的に復習するつもり」
「頼もしいね。わからないところがあったら訊くよ」
「そうだね、私も難しいところは訊くし、ひっかけ問題なんかは一緒に考えようか」
机の上に課題をひろげて、そこからしばし、そろって課題に没頭した。
学校の休み時間以外で、クラスメイトと相談しながら問題を解いていくことはあまりない。
それぞれ、ひっかかるところが違って、面白い。
質問に答えるのも、自分の理解を深める役にたった。
なんとなくわかったつもりになっていたことも、口に出して説明するとなると、整理し直す必要にせまられる。
そうやって見直していくことが、一人だとなかなかできない。
「終わった。とりあえず。よし」
二時間ばかりが経過して、奈月は小さく両手を握りしめた。
「あー、これで肩の荷が下りたよ、ありがとう」
「よかった。すっきりしたね。やっぱり課題が終わっていないと、ゆとりができないもの」
「秋休み、短いわりにボリュームたっぷりだったからね、どうしようかと思った」
「あと二日残して終わらせられたんだから、まだいけそうじゃない?」
「息抜きする時間がなくなるよね。これで、別に予備校の講習も受けてるようなやつは、大変だろうな」
「勉強漬けだね。時期的に、仕方のない気もするけど」
「郁は、嫌気が差したりはしない?」
「私、勉強は嫌いじゃないから。苦になるほど追い込んだりもしないし。……篠山くんは?」
「僕は、文句が言えるほど真っ向から取り組んでもいないから。ほどほどにね」
そう言って奈月は肩をすくめる。
「そういえば、郁は大学、どこ受けるの」
「北大の法学部を考えてる。総合法政。公務員狙いだから」
「うわ、堅実」
「……だよね」
こういうとき、根拠のない後ろめたさにみまわれる。
(つまらないって、やっぱり思う?)
進路は、中学の頃からそう決めていた。
情熱ではなく、理性で選択した進路だ。自宅から通えて、将来も選択の幅があって、親にも安心してもらえるところ。
なのに時折、自分がひどく機械的でつまらない人間に思えるのだ。
今だって、他に選びたい道があるわけでもないのに、心だけが重くなる。
「篠山くんは?」
奈月の希望が同じ市内の英語学科だときいて、ほっとした。
「おうちから通えるね。ほら、けっこう出て行っちゃう人もいるでしょう、よかった」
「よかった?」
「うん、仕方ないとわかっていても、離れてしまうのは淋しいもの」
「そうか、……そうだね」
まばたきをしながら見つめられて、いささか気まずい沈黙が落ちる。
余計なことを言ってしまったかもしれない。
「ええと……」
(気まずいついでに、訊いてもいいかな)
問いただしたいことが、たくさんあるはずだった。
ありすぎて、何から訊ねていいのかわからないほどだ。
「あの、ずっと気になっていたんだけど」
「なんだい」
奈月が身体をこちらに傾け、うながした。
「夏休み、……どうしてあれが私だってわかったの?」
本当は、一番に、自分のことをどう考えているのか訊ねたかった。
(私はあなたの何ですか……なんて、やっぱりそんなの、訊けっこないよね)
羞恥心が勝った。だから、時間を追っていくことにした。
奈月はさして表情をあらためもせず、自然な態度でこう答えた。
「ああ、あれ。ほら、端末が僕とおそろいだったでしょう。知ってたんだ、同じの使ってるって」
「え。そうなんだ。そっか」
「それでもまさかと思って、名前を訊いてみたら、そのままだったし」
(う……わあ)
まさか見抜かれていたとは思わなかった当時の状況を思い出し、照れくささにいたたまれなくなる。
「頬、赤いよ」
指の腹で頬をなでられ、肩が跳ねた。
「ちょっと、恥ずかしくて。私、相当痛々しい振る舞いをしていた気がして」
「僕も相当だったけどね」
「どうして、あのう」
「うん」
(どうしよう)
どうして女性になっていたのか、訊ねるのは不躾なようでためらわれた。
理由のないはずがない。郁にしたって、身の内でくすぶる鬱屈した感情を、素直におもてに出せる自信はない。
「ごめんなさい。ええと、そうだ、学校が始まっても、知らんぷりをしていたよね。――私、気づかないほうがよかったのかな。もし、なかったことにしたかったのなら、申し訳なかったのかもと思って」
「黙っていたことを、怒るかと思ったけど」
郁は首を振った。
「怒ってはいないよ。びっくりした。びっくり、してるかな、今も」
「なかったことにしたいなんて、思ってない。僕にとっては、夏も今も、少し器が違うだけで、他に何が違うということもないつもりだからね」
「ええと、それなら」
いくぶん前のめりになって、郁は訊ねた。
「私、香奈さんも奈月くんも、ひとくくりにして同じ篠山くんだと思っていいの?」
奈月が、「まぎらわしいね」と、笑い混じりにうなずいた。
「少なくとも僕は、ずっと同じ郁だと思っていたよ」
「あ、じゃあ……」
(いろいろしたのも? その、さ、触ったり……とかその、……とか)
またしても余計なことを思い出して、郁はことさら真っ赤になった。
「あの、あのね、だったら、これからも仲良くしてくれる?」
「仲良くって、どのくらい?」
長い指が、郁の短い髪をすいた。
「どのくらいって」
間近に見る、眼鏡の向こうの瞳の色が、底知れなく見えた。
「そんなふうに背中を押されると困るな。仲良く、できるといいね」
もし髪が長ければ、その手は長く留まっていたのだろうか。
郁は言葉もなく、離れていく手を見送った。
夕刻まで図書館で気ままに過ごしたあと、近くのお店でスープカレーを食べた。
話題は終始気負わずにすむもので、夏休みのあの日々のような居心地の良さを感じた。
何が解決したというわけでもなく、そもそも何が問題なのかもわからないままであったが、なぜか彼の前だと郁はらくに呼吸ができた。
奈月がそばにいることに、だんだん慣れてきたのかもしれない。
家にいるときとも、学校にいるときとも違う。何も求められていないことが嬉しかった。
再び市電に乗って、終点の大通で降りた。
地下鉄の改札で、奈月が足を止める。
「次は、学校でかな」
「篠山くん?」
円山に住んでいると言っていたはずだ。それなら、路線は違うが、同じくここで乗り換えのはずである。
「まだどこか、用があるの?」
「いや、ちょっと時間を潰そうかと思って。気をつけて帰りなね」
まるっきりいつもと同じ口ぶりだが、郁はその場にとどまった。
「帰らないの、何時まで?」
「うーんと、さあ、どうだろう」
言葉をにごす姿が、どこか遠く感じられた。嫌だと思った。
「……用事、ないんだよね」
「まあね。まっすぐ帰るのもどうかってだけ」
「帰らなくて平気なの」
「まあね」
「来て」
気づけば郁は、奈月の腕を引いていた。
「何?」
「帰らなくていいんでしょう。だったら一緒にいればいいよ」
学習道具を入れるにしては、おおぶりな鞄が気にかかった。
「郁?」
自分でもよくわからない強引さをみせて、郁は奈月ともども、地下鉄に乗り込んだ。
「どこに行くの」
曖昧な表情をみせて、奈月が訊いた。
「私の家。今日は父もいないから。ゆっくりしていって」
はたと奈月は口を閉ざした。
奈月との間に感じた距離に、郁はいくぶん、腹をたてていた。
無言のまま、二人はそろって帰路についた。




