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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第三章 : バレエの律動
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第四話

 頭をすっきりさせておきたくて、早朝の受験勉強が一段落したあと、自転車をこぎに行った。

 動くうちに身体は温まったけれど、思った以上に今日は気温が低い。

 気づけばもう十月だ。すっかり秋だし、月末までには雪だって降るだろう。

 帰宅してシャワーを浴び、冷蔵庫を開ける。


 郁の父は、昨日の午後から再び出張で家をあけている。

 月のうち半分はそんな調子だから、一人でいることは気にならない。

 いつも通りを心がけて生活するだけだ。

 そんなわけで、時間に追われているような感覚があるのは、父の不在のせいではなく、午後に約束が入っているためだろう。

 相手が相手だ。足場が不安定なような、落ち着かない気分になる。


(一時に待ち合わせだから、十二時半までには食事をすませて、……えっと、何を着ていこう)

 昨夜の残りを温め直しただけの朝食をすませて、お茶を飲む。

 じわじわと忍び寄る緊張感も、きっと直接顔を合わせれば晴れるだろう。

 案じている段階が、一番よくない。


 たとえば、何を話せばいいのかとか、どう接するのが自然なのかとか、そもそも自分たちはどんな関係なのかとか、余計なことばかり考えてしまう。

 自分一人では答えの出せない問いばかりだし、かといって相手に尋ねることもできやしない。

 勘を働かせようにも、元となる経験だってさっぱりなくて、どっちに進んでいいのやら、こういう状況を暗中模索というのだろうか。


「ああぁ、とりあえず、掃除でもしようかな」

 ぶんぶんとかぶりを振って、郁は家事に没頭した。

「洗濯を終えたら買い物に行って、……それでそのあと、準備をしよう」

(大丈夫、大丈夫)

 呪文のようにそう唱えて、てきぱきと手を動かす。


 なんだかんだで、食料品を買いに行って、帰ってきたらもう十一時だ。

(あわわわわ……)

 食品をしまい、クローゼットに向かう。

「こまった。こまったよ」

 洋服選びで一番大切なのは、TPOをわきまえること。今日行くのは、図書館だ。


「ということは、つまりええと、勉強しやすい格好? うう、わかんない。どうしよ」

 そこではっと気がつく。

「あっ、ちがう。あったかい格好すればいいんだよ。今日寒いもの」

 そうだそうだと喜んで、丈が長めのニットのワンピースを取り出す。

「いいんだよね? お友達と外出する格好でいいんだよね?」


 手にしたワンピースの色はとっても地味だ。ブラウンといえばあたりさわりがないかもしれないが、ありていにいえば土の色をしている。

「でも、靴だって茶色だし。カーディガン羽織れば……」

 襟ぐりの開いているサーモンピンクの服が目にとまる。

 明らかにこちらの方がかわいらしい感じはするが、間違いなく保温性には欠ける。


(うー……)

 悩んだすえに、選んだのは茶色い服だ。

「健康第一」

 自分に言い聞かせて、着替えをした。


 判断は間違っていなかったと思う。

 外に出ると風が冷たかった。

 結局カーディガンは学習道具とともに鞄につめて、薄手のコートを着た。

 靴は冬靴だし、タイツは七十デニールだ。たとえ帰りが遅くなっても寒くはない。


 待ち合わせたのは、大通駅の地下、改札を出たところだ。

 地下にもぐってしまえば暑いくらいで、駅について地下鉄から降り、改札をくぐると、すぐに定番の待ち合わせ場所がある。

 時間にゆとりをもたせて移動したのだが、奈月は既にそこにいた。


 腰かけつきの柱にもたれて、ぼんやりしている横顔を見つけるのに、時間はかからなかった。

 この日は彼もカジュアルな服装で、なんでも入りそうな大きな鞄を肩からさげている。

「篠山くん」

 声をかけると、振り向いてふわっと表情をゆるめてくれた。

「やあ」


(やっぱりこれ、なつかしいな)

 おだやかなほほえみは、『香奈さん』のものだ。

 鼓動がわずかに高鳴るが、同時にじんわりほっとする。

「食事は済んだ?」

「うん、食べてきた」

「よし、じゃあ行こう」


 並んで歩くのはおかしな気分だ。横目で見ていたら、「どうかした?」と訊かれた。

「……身長とか歩き方とか香奈さんと同じなのに、篠山くんといるんだと思うと不思議な気がして」

「ああ、なるほど」

 曖昧に目を細めて、正面を向く。その顔はやっぱりクラスメイトの奈月のものだ。

 面影はあるけど、同じようで少し違う。


(これはやはり、香奈さんではなく篠山くんとして接したほうがいいのかな)

 どちらにしても、妙に気恥ずかしいのは間違いない。

 今日は保護者もいないのだ。

(マフラー、かわいいな)

 柿の色とカラシの色とのボーダーだ。巻くほど寒くはないようで、たらりと首からさげている。


 手近な階段を上がり、地上に出た。

 図書館へは、ここから市電に乗り換えだ。

「私、乗るのひさしぶり。一年ぶりくらいかも」

 利用者は多いはずだが、沿線上に住んでいないかぎり、あまり利用する機会はない。

 それこそ郁は、中央図書館に行くときくらいしか乗らないし、本を借りたいだけなら、最寄りの支所に届けてもらったほうが早くて便利だ。

「僕もあまりないかな。たまに乗ると、気分が変わって楽しいよね」

「そうだね、少しわくわくする」

 車体はレトロなおもむきで、全体的にころんとしていてかわいらしい。


 土曜日でもこの時間だとすいているらしく、ふたりで並んでシートに座った。

 これといって会話はなかったけれど、居心地は悪くなかった。

 むしろ、面と向かっていないですむぶん、ほっとした。

 車内は足元が暖かくて、眠気をさそうほどだった。


 やがて図書館前に市電は停車し、降りると外気の冷たさに目が覚めた。

「自習室と閲覧室、どっちがいい?」

 奈月が訊いた。

「閲覧室のほうがいいかな。図書館に来たっていう気分にひたれそう」

 机が並んでいるだけの自習室のほうが、勉強ははかどるかもしれないが、本に囲まれて机に向かう閲覧室のほうが雰囲気がいい。

「それもそうだ。喋っていても叱られないしね」

「そうだね」


 一階の、児童書や一般文芸を取り扱っているコーナーは、人も多くてにぎわいがある。

 二階に上がり、学習参考書がそろっている方へ向かうと、ほどよい静けさと、キーを打つ音やページをめくる音、声をひそめて会話する音などがノイズとなって耳についた。

 静けさの中に、雑然とした空気が混じる。

 同じように目的を持って来ている人の集まりだ。

 悪くない雰囲気だった。


「たまにはいいね。一人で部屋にこもっているのも集中できていいけど、こういうところで他の人が頑張っている姿を見るのも、励みになるかも」

 窓辺の席に並んで座った。

「今日は一人じゃないからね。一人だったら余計な本ばかり手にとってしまって、ちっとも勉強なんてはかどらないだろうな、僕だったら」

「普段読まないようなたぐいの本がたくさんあるもんね。書棚を眺めているだけでも面白そう」

 今も紙媒体の書籍は根強い人気がある。

 ここに来る途中に目についただけでも、色とりどりの背表紙やデザインに、個性があらわれていて興味をひかれた。


「僕、今日で課題を終わらせようと思ってるんだ。郁はもう終わってる?」

「うん、私は一通り済ませたけど、見直しがまだなの。少しひっかかったところもあって、そこを重点的に復習するつもり」

「頼もしいね。わからないところがあったら訊くよ」

「そうだね、私も難しいところは訊くし、ひっかけ問題なんかは一緒に考えようか」

 机の上に課題をひろげて、そこからしばし、そろって課題に没頭した。


 学校の休み時間以外で、クラスメイトと相談しながら問題を解いていくことはあまりない。

 それぞれ、ひっかかるところが違って、面白い。

 質問に答えるのも、自分の理解を深める役にたった。

 なんとなくわかったつもりになっていたことも、口に出して説明するとなると、整理し直す必要にせまられる。

 そうやって見直していくことが、一人だとなかなかできない。


「終わった。とりあえず。よし」

 二時間ばかりが経過して、奈月は小さく両手を握りしめた。

「あー、これで肩の荷が下りたよ、ありがとう」

「よかった。すっきりしたね。やっぱり課題が終わっていないと、ゆとりができないもの」

「秋休み、短いわりにボリュームたっぷりだったからね、どうしようかと思った」

「あと二日残して終わらせられたんだから、まだいけそうじゃない?」

「息抜きする時間がなくなるよね。これで、別に予備校の講習も受けてるようなやつは、大変だろうな」

「勉強漬けだね。時期的に、仕方のない気もするけど」


「郁は、嫌気が差したりはしない?」

「私、勉強は嫌いじゃないから。苦になるほど追い込んだりもしないし。……篠山くんは?」

「僕は、文句が言えるほど真っ向から取り組んでもいないから。ほどほどにね」

 そう言って奈月は肩をすくめる。

「そういえば、郁は大学、どこ受けるの」

「北大の法学部を考えてる。総合法政。公務員狙いだから」

「うわ、堅実」

「……だよね」


 こういうとき、根拠のない後ろめたさにみまわれる。

(つまらないって、やっぱり思う?)

 進路は、中学の頃からそう決めていた。

 情熱ではなく、理性で選択した進路だ。自宅から通えて、将来も選択の幅があって、親にも安心してもらえるところ。

 なのに時折、自分がひどく機械的でつまらない人間に思えるのだ。

 今だって、他に選びたい道があるわけでもないのに、心だけが重くなる。


「篠山くんは?」

 奈月の希望が同じ市内の英語学科だときいて、ほっとした。

「おうちから通えるね。ほら、けっこう出て行っちゃう人もいるでしょう、よかった」

「よかった?」

「うん、仕方ないとわかっていても、離れてしまうのは淋しいもの」

「そうか、……そうだね」

 まばたきをしながら見つめられて、いささか気まずい沈黙が落ちる。

 余計なことを言ってしまったかもしれない。


「ええと……」

(気まずいついでに、訊いてもいいかな)

 問いただしたいことが、たくさんあるはずだった。

 ありすぎて、何から訊ねていいのかわからないほどだ。

「あの、ずっと気になっていたんだけど」

「なんだい」

 奈月が身体をこちらに傾け、うながした。


「夏休み、……どうしてあれが私だってわかったの?」

 本当は、一番に、自分のことをどう考えているのか訊ねたかった。

(私はあなたの何ですか……なんて、やっぱりそんなの、訊けっこないよね)

 羞恥心が勝った。だから、時間を追っていくことにした。

 奈月はさして表情をあらためもせず、自然な態度でこう答えた。


「ああ、あれ。ほら、端末が僕とおそろいだったでしょう。知ってたんだ、同じの使ってるって」

「え。そうなんだ。そっか」

「それでもまさかと思って、名前を訊いてみたら、そのままだったし」

(う……わあ)

 まさか見抜かれていたとは思わなかった当時の状況を思い出し、照れくささにいたたまれなくなる。


「頬、赤いよ」

 指の腹で頬をなでられ、肩が跳ねた。

「ちょっと、恥ずかしくて。私、相当痛々しい振る舞いをしていた気がして」

「僕も相当だったけどね」

「どうして、あのう」

「うん」

(どうしよう)

 どうして女性になっていたのか、訊ねるのは不躾なようでためらわれた。

 理由のないはずがない。郁にしたって、身の内でくすぶる鬱屈した感情を、素直におもてに出せる自信はない。


「ごめんなさい。ええと、そうだ、学校が始まっても、知らんぷりをしていたよね。――私、気づかないほうがよかったのかな。もし、なかったことにしたかったのなら、申し訳なかったのかもと思って」

「黙っていたことを、怒るかと思ったけど」

 郁は首を振った。

「怒ってはいないよ。びっくりした。びっくり、してるかな、今も」

「なかったことにしたいなんて、思ってない。僕にとっては、夏も今も、少し器が違うだけで、他に何が違うということもないつもりだからね」


「ええと、それなら」

 いくぶん前のめりになって、郁は訊ねた。

「私、香奈さんも奈月くんも、ひとくくりにして同じ篠山くんだと思っていいの?」

 奈月が、「まぎらわしいね」と、笑い混じりにうなずいた。

「少なくとも僕は、ずっと同じ郁だと思っていたよ」

「あ、じゃあ……」

(いろいろしたのも? その、さ、触ったり……とかその、……とか)

 またしても余計なことを思い出して、郁はことさら真っ赤になった。


「あの、あのね、だったら、これからも仲良くしてくれる?」

「仲良くって、どのくらい?」

 長い指が、郁の短い髪をすいた。

「どのくらいって」

 間近に見る、眼鏡の向こうの瞳の色が、底知れなく見えた。

「そんなふうに背中を押されると困るな。仲良く、できるといいね」

 もし髪が長ければ、その手は長く留まっていたのだろうか。

 郁は言葉もなく、離れていく手を見送った。






 夕刻まで図書館で気ままに過ごしたあと、近くのお店でスープカレーを食べた。

 話題は終始気負わずにすむもので、夏休みのあの日々のような居心地の良さを感じた。

 何が解決したというわけでもなく、そもそも何が問題なのかもわからないままであったが、なぜか彼の前だと郁はらくに呼吸ができた。

 奈月がそばにいることに、だんだん慣れてきたのかもしれない。

 家にいるときとも、学校にいるときとも違う。何も求められていないことが嬉しかった。


 再び市電に乗って、終点の大通で降りた。

 地下鉄の改札で、奈月が足を止める。

「次は、学校でかな」

「篠山くん?」

 円山に住んでいると言っていたはずだ。それなら、路線は違うが、同じくここで乗り換えのはずである。

「まだどこか、用があるの?」

「いや、ちょっと時間を潰そうかと思って。気をつけて帰りなね」

 まるっきりいつもと同じ口ぶりだが、郁はその場にとどまった。


「帰らないの、何時まで?」

「うーんと、さあ、どうだろう」

 言葉をにごす姿が、どこか遠く感じられた。嫌だと思った。

「……用事、ないんだよね」

「まあね。まっすぐ帰るのもどうかってだけ」

「帰らなくて平気なの」

「まあね」


「来て」

 気づけば郁は、奈月の腕を引いていた。

「何?」

「帰らなくていいんでしょう。だったら一緒にいればいいよ」

 学習道具を入れるにしては、おおぶりな鞄が気にかかった。

「郁?」


 自分でもよくわからない強引さをみせて、郁は奈月ともども、地下鉄に乗り込んだ。

「どこに行くの」

 曖昧な表情をみせて、奈月が訊いた。

「私の家。今日は父もいないから。ゆっくりしていって」

 はたと奈月は口を閉ざした。

 奈月との間に感じた距離に、郁はいくぶん、腹をたてていた。

 無言のまま、二人はそろって帰路についた。

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