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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第三章 : バレエの律動
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第三話

 朝の七時。奈月は孝からの電話で起こされた。

「なんだってこんな時間に」

 重い頭を抱えて手を伸ばす。

 布団にもぐったまま、指先で通話を指示した。

「何の用?」

 あからさまに気乗りのしない、くぐもった声になってしまったのは無理もない。


「おう、おはよう。あのさ今日さ、草野球しねえ?」

「冗談だよね」

「いやいや、誘ってんだって。天気いいし、休みだし。暇だろ?」

(野球か――)

 ぼうっとした頭で、奈月は考えた。

「やめとく」


「何でだよ。あ、またあれか。ウェブはトラブルの元だぞ、身に染みただろ」

「……何の話?」

「って、お前が言ったんじゃねーかよ」

(ウェブ?)

 最近の記憶をあさるうち、己の迂闊な言い逃れを思い出す。

「ああ、ウェブってあれか」

「そーそー、たぶんそれだ。匿名を扱いきれないやつが、匿名にたよっちゃいかんよ」


 期末テストの最終日、放課後に郁とのごたごたを目撃されて、奈月は口八丁でいきさつをにごした。

 偽名で一緒に遊んだことがあって――と、説明したところ、孝と沙也はウェブでの出来事だと勘違いをしたのだ。

 二人は、共通のゲームでアバターを通じて遊んでいたのだと誤解をしている。

 奈月には訂正するつもりもなければ、詳しい説明をするつもりもない。

 不誠実だとそしられようが、流せる部分は流すべきだというのは、奈月の信条でもある。


「ってわけで、リアルで健康的に身体を動かそうぜ」

 早朝のランニングを欠かさない孝にとって、一日はとっくにスタートをきっているのだろう。

(うう、……眠い)

「んー、やっぱりパス。野球、拘束時間長いから」

「えーっ、楽しいってぜったい」

「差し入れ持っていくよ。どこ?」

「中学の裏の公園」

 ふてくされた声で孝が告げたのは、ここらで一番大きな公園に付随している野球用のグラウンドだった。

「メンバーすぐに集まるよね、僕じゃなくても。昼……うーん、午後に顔出すから」


 ちぇー、っと、孝は不満をこぼした。

「じゃあ今度、水泳つきあえよな」

「季節外れじゃない?」

「すいてるんだよ、今時期」

「わかった」

 プールで泳ぐくらいなら、ほどよい気分転換として受け入れられる。

「じゃあね。またあとで」

 奈月はさっさと通話を切り、端末を放ると、枕に顔をうずめて目を閉じた。






 そこから起きだしたのは、さらに三時間ほどが経過してからで、朝食はシリアルバーで済ませたあと、昼までじっくり学校の課題に取り組んだ。

 一日で終わらせられる分量ではないとわかっているので、少しずつでも手を着けていくべきなのだ。

 率直なところ、課題がみっちりと出題されるのはありがたい。

 休みの期間中の学習方法について考える必要がないのだから、それだけでも手間が省けるというものだ。


 課題の内容は二種類あって、全ての生徒に共通して出される受験対策用のものと、個別の進学希望や習熟度に添って出される、ポイントをしぼり重点的に理解を深める内容のものだ。

 外語希望の奈月には、専用のカリキュラムが渡されている。これが本当にありがたい。

 とはいえ、手間取るのは共通の受験対策の部分で、奈月は英語以外がからきしなのだ。

(苦手とばかりも言っていられないけど)


 最低限は、まんべんなくこなしていないと合格できない。

 一応現段階で志望先の合格ラインには達しているものの、この時期の全体的な追い上げはすさまじいものがあるというし、基本だけはきっちりおさえておくよう心がけている。

 さして向上心があるわけではないし、要領がいいわけでもない。

 それでも、無理せず叶えられる範囲内で定めた目標はクリアできるだけの、努力は継続できていた。


「とりあえず、もういいかな」

 集中力が続くのは、二時間が限度だ。

 奈月は机の上を整理して、学習を中断すると、席を立った。

 まったく、兄はたいしたものだと思う。

 出来が良く勤勉な彼は、受験中のみならず、職について以降も向上心を失わない。

 すごいとは思うが、真似はできない。


「そうだ、差し入れするんだっけ。余計なこと言っちゃったかな」

 わざわざおやつ持参で孝の顔を見にいくというのはどういうわけだろう。

 外に出る口実としては悪くないが、いささか虚しさを覚えるのも事実だ。


 コンビニでスポーツドリンクと紙コップ、ミニドーナツと歌舞伎揚げを買って、公園についたころには試合はもう終盤だった。

「おっせーよ!」

 今頃来たのかと声をあげたのは孝だけではなく、チームの中には幾人か同じ中学の同級生の顔があった。

 三十分ほどベンチで試合を眺めて、孝のチームがきわどいところで勝ちをおさめるのを見届けた。


「腹へったー!」

 わいわいと戻ってくる面々にドリンクを配る。

 どの顔も血色が良く、その場で着替えをはじめる奴もいる。

「こんなんじゃ全然たりねーな」

 身体を動かすと腹が減る。

「そういや僕も、昼食とるの忘れてた」

 奈月が言い、全員でおにぎりを買いに弁当屋に走った。


 文字通り、なぜか走った。

 荷物は置きっぱなしにしての全力疾走だ。

 試合が終わったばかりで、どこにそんな体力が残っているのだろう。

 見学にとどめておいて正解だったと、走りながら奈月はしみじみ思ったものだ。

(体力バカめ)

 内心悪態をつくほど、孝は群を抜いて速かった。

「あー、運動不足かな」

 ふたたび公園に戻るころにはすっかり息が切れていて、「勉強ばっかしてんじゃねーぞ」と、懐かしい顔ぶれに笑われた。


「篠山おまえ、受験勉強してんの? つか、どこ受けんの」

「札大外語。学校の課題はやってるよ。それだけはどうにか」

「げっ、課題俺まだやってない」

 聞きつけた孝が嫌な顔をする。

「孝、まとめてやる派でしょ。まだ日にちはあるよ」

「あるよあるよで、先延ばしにはできないよなあ。あーもう、嫌な話題出すなよー」

 おにぎりを頬張りながら、豪快に頭をかく。


 とはいえ、久しぶりに顔を合わせたなら、話題はやっぱり受験と、あとはプライベートなことだ。

 彼女とか。デートとか。卒業旅行には二人でどこに行くのかとか。

 たあいのない軽口の応酬だが、その中にひとつだけ聞き逃せない発言があり、奈月は孝につめよった。

「え。約束してるの、小島さんと?」

 なんと孝が明日、クラスの小島 美桜と、デートの約束をとりつけたのだという。


「何話すのさ」

 華やかな美人と無骨な友人との組み合わせに、接点が見いだせない。

「いいだろ、小島。あいついいよな」

「良いか悪いかでいったら、そりゃいいだろうけど、……意外だなあ」

 本当に何をして過ごすのかと思う。


「文化祭の衣装の生地を下見しに行くんだ。本当は叶が一緒のはずだったんだけどな、あいつ予定ができたんだと」

「ああ、なんだ」

(雑用か)

 沙也もいそがしくしているというし、文化祭もそう先のことではないのだろう。

「ふうん、いってらっしゃい。でも明日も予定が入るとすると、残り二日か。課題頑張ってね」

「おまえなあ、水差すなよなー」

 おそらく美桜は課題を持て余したりしないだろう。如才ない印象が強い彼女のことだ。場合によっては、既に終わらせてある可能性すらありそうだ。


(それにもちろん……)

 前日に一緒だった郁を思う。彼女については言うまでもないほどだ。

(っと)

 おめかしした姿を思い出し、ゆるんだ頬をひきしめた。

 堅物な印象の彼女だが、あれでよく見ると仕草がかわいい。かわいいのだ。

 気が緩んでいそうなときは感情表現がストレートだし、なにより素直だ。

 そんな調子だからこうして自分につけいられてしまうのだろうと、心配になるほど、彼女の瞳はまっすぐで澄んでいる。


(そういや、何か言いたげだったけど)

 昨日の別れ際、呼び止められるかと思った。くちびるが薄く開いて、閉じるのを見た。

 ためこんでいる想いがあるのだろう。

(そりゃそうか)

 こちらから言いたいことがあまりにないので、後回しにしてしまいがちだが、不満は受け止めるべきかとも思う。

(連絡をとるのはかまわないけど、なあ)

 近づくと後戻りができなくなりそうで、なるべく距離をおきたい相手でもあるのだ。

 変わる表情を見つめていたい。そう考えただけで心が浮き立つ。

 ――そんな自分に、うんざりしている。


「楽しかったら教えて。小島さんは話題が豊富そうだから、大丈夫かもね」

「おう、まかせろ」

 どうやら孝は、すっかりデートだと思い込んでいるようだ。

 前向きな姿勢はうらやましくもある。

「うん、応援してる」

 本心だった。






 昔の友人と、思いがけずに夕方まで遊んで過ごして、帰宅をしたとたんにがくっと落ちた。

 夕飯の支度をしていた母が、奈月を出迎えるなり、上機嫌で言ったのだ。

「明日ね、あのひとが来るんですって」

 とろけるように夢見がちで、舞い上がる、現実離れしたトーンで語る。

「どんな花を飾ろうかしら。香りがきつくないものがいいわ、色は白ね」

 桜色のやわらかな素材のスカートが揺れる。

「……そう。よかったね」

 油断をしていた。腹に一発くらった気分だ。


 あのひとというのは、奈月の父だ。

 曽根 海月。

 苗字の違う、独身の、長年連れ添う母の恋人。

 奈月にとっては、『父親』ではなく、『あのひと』でしかない人物だ。


 家庭を持とうとしない父に、不満があるわけではない。

 自分をかえりみて欲しいと思ったこともない。

 それでも、彼の存在は迷惑だった。

 あるいは、父の存在にたやすく翻弄されてしまう、母の存在がか。


(まいったな)

 自分の居場所がなくなることが察せられて、憂鬱になる。

 これで、兄が同居していたころはまだよかった。

 母が奈月の存在を失念しても、兄は覚えていてくれたから、これほどの虚脱感にみまわれることはなかったように思う。


 奈月の家族はいびつだった。

 誰もが背中合わせに、外を向いているようだった。

 それでもまだ、そばに立って似たような方向を見据えていた兄が、幼い時分にはいてくれてよかったのだろう。

 自立して結婚した兄がいなくなって以降、奈月にのしかかるのは、不満でも怒りでもなく、諦めだった。


 不安定でも、父が不在の間はいい。

 ひとたび顔を出すと、こんなふうに母の目には他の何も映らなくなってしまう。

 それもまた構わない。

 ただ、父は決まって長居はしないし、――その後のフォローをする者はいない。

 奈月もただ、振り回されるだけとなる。


(これで明日は家にいられなくなったなあ)

 明日どころか、当分の間はこの場所に近寄らない方が自分のためになると知っていた。

 ひどく胃が重かった。


「さあ奈月、食事にしましょう」

 ひどく少女めいた表情で、母がすすめる食卓に、機械的に座る。

 味もメニューも曖昧な気がしてしまうのは、話題が父のことに限定されていたせいもあるだろう。

 ほとんどを聞き流し、あいづちだけをうった。


 箱入り娘だった母は、今も浮き世離れした空気を持つ。

 きれいな人だ。それにまだ若い。

 十九のときに兄を産んで以降、実家とは疎遠になっている。

 それでもその頃が、母にとっては最もしあわせだったのだろう。

 父の影が迫るにつれて、母はいつも十九の頃の娘に戻る。

 父と、母と、それに兄とだ。

 そこに奈月の存在はまだない。


 食事を終えて部屋に戻ると、端末にメールがきていた。

『昨日はありがとうございました。とても楽しかった』

 郁からだ。

 ベッドに倒れ込み、奈月は郁に電話をかけた。

「――もしもし。そう、メール見たよ。明日、時間あるかな」

 電話越しの彼女の声は実に生真面目そうなもので、心地よく耳にひびいた。

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