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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第一章 : 映画には主題歌がある
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第二話

 一週間はおそらく短い。

 最低限の準備を整えたなら、外に出るべきなのは間違いがない。

「よし」

 意気込んで、郁は自宅を後にした。

 実際に変体を遂げた自分を見て、欲しいと思ったアイテムがある。

 それらを求めて、買い物をしがてら身体に馴染んでいこうと思う。


 玄関を出る際、鏡の前でいつもの鞄が今の自分にはそぐわないことに気がついた。

 他の男子はどうしているのか不思議に思いつつ、財布と端末だけをポケットにつっこんで、鞄は置いて家を出た。

 持って歩きたいものはたくさんある。荷物はなるべく軽くしたい郁でさえ、鞄がないのは心許ない。


(ポケットが足りないよね)

 ハンカチもティッシュも、鏡もリップクリームも、あとはキャンディやあぶらとり紙だって持ち歩きたい。

「ウエストポーチでも買うべきなのかな……」

 なかなかに前途は多難な気配がただよう。

(ちょっと観察してみよう)


 平日だとはいえ、夏休み期間中でもある。きっと街中には、参考になる男性のサンプルがひしめいているはずだ。

(あとは、服も追加で欲しいし、サングラスもね)

 サングラスというものにあこがれを抱く。

 理知的な眼鏡ならまだしも、普段の郁にサングラスはまるで似合わない。


(今ならもしかしたらいける?)

 素材が同じなのだから望み薄だが、試さずにはいられない。

(それに、ゴツゴツしたシルバーのアクセサリー)

 見た目が中学生の郁にも似合う品がきっとあるはずだ。

「ふふ。たのしみ」

 小声でぽつりとつぶやいた。






 駅の地下にあるショッピングモールを歩くうちに、人混みにまぎれることができる自分に気がついた。

 最初は人目が気になってしかたがなかったものだが、すぐに誰も郁に目をとめないと察したのだ。

 それはつまり他人に違和感を抱かせずにすんでいるということであり、ありがたいことであった。

 鏡などがあればつい目を向けてしまうものの、徐々に肩の力も抜けてくる。

(意外と平気なものなのね)


 普段は足をとめないような店舗をのぞくのも楽しかった。

 シャツとベルトを購入して、サングラス売り場へと足をのばした。

「う……」

(まいった。かんべんしてよ)

 当然、紳士用を手に取った。そしてがくりとうなだれたのは、サイズがまるで合わなかったためだ。

(大きすぎ)


 落ち着いて考えてみれば当然だった。性別が変わったところで、体格まで大きく変化したわけではない。多少、肌質や骨格が変化したような気がするていどだ。

(足のサイズも変わらなかったものね)

 それはそれでスニーカーが使い回せて助かったのだが、中学生サイズの現状をまざまざと見せつけられるようで、やや落ち込む。


「まあもう、しょうがないか」

 嘆息をついて、婦人用の売り場へと目を向ける。

 未練はあるが、あそこで買うのはなにやらくやしい心持ちがするものだ。

(どうしたものかな)

 すっぱり諦めようかと思ったとき、売り場で試着をする同年代の女の子のバッグから、リボンがほどけて落ちるのが目についた。


「あ」

 当人は気づいていないとみて、郁は近づき、声をかけた。

「これ、さ。落ちたよ」

 あやうく敬語で声をかけるところだった。どうにか思いとどまったのは、リボンを拾う際に試着用の鏡が視界に入ったためだ。


「あら」

 ぱっと明るい顔立ちの娘だった。

 色が白いせいか、オレンジのリップがよく似合う。ショートパンツから伸びた足がきれいだった。

「ありがと。あたしの。気づかなかった」

「いや」


 彼女はひょいとリボンを受け取ると、肩にかけてたバッグの取っ手に手早く結んだ。

「それ、流行ってるの?」

「ん、どれ?」

 郁はリボンを指さした。

「そういうの。他にも何人かやってるの見たから」


「ああ、これね。流行ってるっていうか、んとね、友情の証なんだよ」

「友情?」

 怪訝な顔をしてしまったのはしかたのないことだと思う。

「そ。友だち同士でね、おそろいのを身につけるの。かわいいでしょ?」

「うん、……まあ」


「あたしもね、何本も持ってて、一緒に歩く子によってつけるリボンも変えるんだよ。ときどき、どれがどの子だっけってわかんなくなる」

「そうなんだ。大変だね」

 彼女は声をあげてけらけらと笑った。

「やだ、おかしい。ぜんぜん大変じゃないよ」

「そう?」


 わずらわしいことこの上ないと思うのだが、彼女は頓着していなさそうだ。

「じゃあ、今日はそのリボンの子と買い物?」

 何気なくたずねてみると、その子はレジに目を向け、手を振った。

「うん、あの子。買い物友だち。高校は違うんだけどね。あっちはね、いい学校行ってるんだ。でもすっごくいい子。かわいいでしょ」

「え――」


 ふり向き、郁は凍りついた。

 喉が鳴る。

(小島さん……だ)

 冷や汗が出そうだった。思わずぱっと目をそらす。


 小島 美桜。同じクラスの、有名人だ。

 見た目も豪華で、華やいだ話題に事欠かない人物だ。

 郁とはさして親しくないが、存在感があることから嫌でも視界に入ってくるし、日々の会話にも名前があがる。

 嫌いではない。だが、苦手な人物ではあった。


(どうしよう)

 正しい男子のありかたとしては、ここは美桜に見とれるべきなのだろう。

 なにせ彼女はスタイルがいいし、大人びた色気もある。

 見た目中学生男子としては、興味を抱くのが健全というものだ。

 だが、郁にはもちろんそんな心の余裕はなく、頭の中ではこの場から逃げ出すことだけをぐるぐると思い巡らせる。


(ちゃんと顔を合わせる前に立ち去ったほうがいい)

 それはもう、絶対だ。

 郁が誰であるのか、すぐにバレるとは思わない。

 そこは信じているけれど、心臓に悪いのはもう間違いなかった。


「あの。ごめん、もう行かなきゃ」

「あれ? そうなの?」

「うん。じゃあ」

 美桜の近づいてくるのが視界に映る。


「そっか、ばいばーい」

 無邪気な少女に手を振られ、ほほえみ返して背を向けた。

 途端に笑顔がこわばるのが自分でわかる。

「美桜、あのねー」

 後ろで二人が交わす会話が耳にとどいた。


「誰、いまの」

「知らない。でもね、ちょっとかわいかったでしょ。ナンパされたんだぁ」

(え)

 ふり向きたい衝動と戦った。

(ナンパ? ナンパなんてしたの。私が?)

 足早に立ち去りながら、じわじわと疲労がしみた。

 世の中は、複雑すぎて手に負えない。そう感じた。






 図らずも、経験してみたかったシチュエーションのひとつを体現してしまった郁は、慣れないことは疲れるものだと頭をさすり、買い物もそこそこに帰宅することにした。

 帰りの駅前で、男性向けの雑誌をいくつか買い込んでの帰宅である。


 この日も家には誰もいない。

「ただいまっと」

 習慣で声だけはかけて靴を脱ぐ。

 郁が男になるのを選んだのは、父の不在を狙ってのことだ。

 母はとうに亡くし、父と二人暮らしをしてはいるが、出張が多くて不在なことも多い。


(トイレ、トイレ……)

 ひとつ問題が発生していた。

 外出先で男子トイレに入るのは、想像以上に抵抗があるということだ。

 結局我慢して、帰宅するなり駆け込んだ。


「さて、何にしようかな」

 手を洗い、買ってきたものをリビングのテーブルの上に放り出し、キッチンへ向かう。

 ひとりのときでも、自炊をこころがけている。

 習慣でもあるし、健康のためというのもある。節約にもなる。しかし、それ以上に父親のためだった。

 ひとりで生活している間も子どもが自炊をしていると、おそらく親は安心する。


「かんたんなものがいいな」

 冷蔵庫の中をのぞく。

 鶏肉があったので、玉ねぎを多めに入れて親子丼を作ることにした。それとサラダで完成だ。

 お腹が満たされればいいので、手順にこだわりはない。


 好んで使う白だしを入れて、煮込んだところに溶き卵を流し込む。

 サラダはもちろん市販のドレッシングを使う。野菜は好きだ。特に生野菜は、洗うだけでいいところがたまらなく好ましい。

「いただきます」

 テレビから流れるニュースに耳を傾け、食事をとった。

 父の土産の七味をふりかけ、もりもり食べる。いつもよりお腹がすいていた。


(なにか物足りないような)

 食後にふたたび冷蔵庫をあさり、ヨーグルトにバナナも食べた。

(腹ごなしをしないとなあ)

 そうと決めたら、やることはひとつだ。

 郁はトレーニングウェアに着替えて、外に出た。


 駐輪場に、愛用のクロスバイクが置いてある。

 スポーツにはさして縁のない郁の、屋外における唯一の趣味だ。

 普段は父の目もあることから、はやくに目が覚めてしまった日の早朝や休日の午前中に走っているが、今は少年でもあることだし夜に乗っても構わないだろう。

 多少は持久力も変わっているだろうか。気になり、期間中に一度は乗ろうと決めていた。

 飲み物だけくくりつけて、身軽にまたがり、こぎだした。


(……ん)

 座り心地がいささか悪く、腰を浮かす。

(なんだかいろいろ、細かいところで不便なんだよね)

 文字通り、座りがわるい。あまりサドルの細くないタイプを選んで乗っているのにこの有様では、本気で自転車を乗り回しているような人たちはどうしているのだろうと心配になる。


 前傾姿勢をとると股間が痛いので、ゆるく腰かけ、気張らずにこいだ。

「はー……」

 元々スピードは出せない。ただ風を感じたくて乗っているのだ。

(やっぱりいいな)

 自転車は好きだ。路面を走るのは怖いから、いつも創成川沿いのサイクリングロードを利用する。


(夜だと違う)

 見慣れた景色も、色合いが異なった。

 早朝の澄んだ大気とはまるで違う、ぬるく包み込むような空気を感じる。

 風と共に、景色が流れる。並ぶ街灯の光の外で、黒い影と化した木々が揺れていた。

 思った以上に人気があるし、虫の声もする。犬の散歩をする人も目につくし、手をつないで散策する人々もいる。


 それでも郁はひとりだった。

 家でもひとりなことが多いが、あの家は父親のものだ。不在なときも、そこかしこに父の気配を感じる。

 ゆっくりと呼吸がしたくて、郁は外に出る。

 汗が流れる。

 息苦しさもしがらみも、風とともに後ろに置き去りにできるようで、深く息を吸い込んだ。

 夏の盛りだ。気温は高いが、夜風がとても、心地がよかった。

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