第二話
車でおよそ十五分。市民会館には大勢の着飾った人々が詰めかけていた。
秋休みとはいえ、世間では平日の午後、まだ時間も早いことを考えると、わざわざ休みをとって観にきた人も多いのだろう。
聞くところによると、奈月の兄も休暇をとるつもりが、急な仕事で来られなくなってしまったのだという。
香奈の場合は、就業時間に関してフレキシブルな対応が可能で、この日は半休をとったのだと話してくれた。
案の定、職場は日月製薬で、技術職についているのだそうだ。
彼女には、郁もオフィスに出向いたことがあるとは話していない。
てっきり奈月がとうに伝えてあるのかと思っていたが、どうやらそんな様子も見受けられない。
パンフレットを購入して座席についた。やや後方寄りだが、位置はセンターだ。
香奈の隣に奈月、さらにその隣に郁が座った。
本日は、英国のバレエ団による日本公演なのだそうだ。
会場の入り口にはイメージフィルムが映し出され、演目の『ボレロ』の文字が躍っている。
ぱらぱらとパンフレットに目を向けて、おおまかな内容くらいはあらかじめ聞いておくべきだったなと思う。
そうすれば、事前に予習ができて、より深く楽しむことができるはずだ。
たとえば、バレエ団の傾向とか、演目のテーマなど、知識のあるなしで味わいかたが異なる場合もあるだろう。
そんなことをつらつらと考えていたら、奈月が振り付け師の写真を指さして言った。
「公演元は英国だけど、振り付け師はベジャールの流れをくんでいるんだって。ボレロは好き?」
「実は、バレエは古典を二度ばかり観たことがあるきりなの。ボレロは初めて」
「そう、気に入るといいね。僕は好きなんだ。以前観たときはダンサーが男性でね、今回は女性でしょう。そういう点でも楽しみだね」
ベジャールというのは高名な振り付け師だ。彼が振り付けた『ボレロ』の名は、郁も耳にしたことがある。
クラシックの名曲がどう転ずるのか、緊張をはらんだ興奮が会場でくすぶっているようだった。
開幕を告げるアナウンスが流れると、徐々に照明は光度を落とし、客席のざわめきもおさまっていった。
静まりかえった人々の意識がステージへと集中したのがわかる。
沈黙に満たされた暗闇に、ゆるやかなヴァイオリンの音色が流れ始めた。
幕が上がる。
前半は、月面に造成された緑の園を題材とした、コンテンポラリー・ダンスだった。
星の海に浮かぶ荒野に、現れては消えていく森林を表しているのだろう。
紗や羽で身体を飾ったダンサーが、ステージを右へ左へ、現れては消えていく。
生命にあふれる人工的な楽園と、広大な自然の荒野の対比が印象的だった。
やがて楽園が滅んだ後も、天体は沈黙を守り、宙にある。
現代舞踊の題目は、そんな終わり方をした。
拍手とともに幕が下り、客席に光りが戻った。
心地よいノイズのような雑音が湧き上がるが、人々の間にただよう緊張は、いっそう増しているかのようだった。気持ちが研ぎ澄まされるようなこの感覚は、おそらく期待の表れであるのだろう。
どの顔も、正しくは現実に立ち返っていないように見える。
わずかな休憩をはさんで、再び会場に暗闇がもたらされたとき、その感覚は顕著になった。
観客は、今やステージへと収束する視線という名の、ベクトルでしかないような気にすらなった。
痛いほどの静けさの中、幕が上がる。
初め、その音を風かと思った。ゆるやかに音が上下し、ようやくそれがボレロの導入部だと気づく。
ステージの中央に、赤い円卓があった。
鈍い赤。赤色巨星を連想させる、重い色だ。
そこに、ひとりのダンサーがいた。
背の高い、肩の下まで伸びた、ざんばらの髪。細い赤毛が照明の光を受けて輝いている。
上半身を肌色の布地で覆ったその人の足は素足だ。
円卓に立つ姿は野生にあふれ、胸がさわいだ。
音階にのせて、足を踏む。えらく美しい筋肉のうねりに圧倒される。
静かなメロディーとともに、動作のひとつひとつが流れるようにつながっていく。
(なんて柔らかいんだろう)
よどむことなく流れていく動作のすべてが、人の身にはありえない動きに見えた。
磨き抜かれた肉体は、これほどになめらかなのかと、腕のひとふりですらも尊いものに感じられ、永遠に記憶に焼き付けてしまいたくなる。
決して乱れることのないリズムがくり返される中、彼女は動く。
郁にはそれが、踊りとは思えなかった。
足運びのひとつひとつが、祈祷であるように見えた。
もっとも根源的な祈りのように、――胎動のように、炎のように、その人は卓を踏みしめた。
命とはやわらかいのだと、教えられたかのようだった。
研ぎ澄まされた感性と肉体のなせる技なのだろうか。
はるか昔、石器を手に狩猟を行っていたほどの昔に、人々が囲む炎のように、生々しい生命のエネルギーを感じさせた。
反復する一定の音階も、くり返しの中で変化を見せる。
関節の縛りを超越したような動きもあいまって、彼女は人間には見えなかった。
反面、人間でしかないようにもまた見えた。
ほとばしるパワーに惹きつけられるのに、荒々しさはさほど感じない。
今目にしているものが何なのか、郁には正しく把握できずにいた。
ただ同じリズムのくり返しが心地よく、いつまでもひたっていたかった。
今回のダンサーが女性であることが楽しみなのだという、奈月の発言を思い出す。
郁も思った。彼女でよかった。
重力にとらわれて、これほどのことができるのだと、押し寄せる痛みは感動だろうか。
まぎれもない感謝の念の中で、郁は見つめた。
音楽がクライマックスに向けて盛り上がりをみせる。
やがて、高く上りつめた音がダダンと落ちて、舞台は終わった。
立ち上がっての喝采が惜しげもなく降り注ぐ。
特別だった時間を惜しみながらも、郁は心をこめて拍手をおくった。
長く続いた拍手の波が落ち着いたころ、隣に立つ奈月を見上げた。
「恐ろしいものを見てしまった気分……」
そんな言葉しか出てこない自分を殴りつけてしまいたい。
「篠山くん、ありがとう」
連れてきてくれたことに、感謝した。
そのあと連れていかれたのは、上品な初老の男性が個人で開いているという洋食屋だった。
木材をベースカラーとした落ち着きのある内装が、家庭的な雰囲気を醸し出している。
「ピザがおいしいのよ」
香奈は言ったが、一皿目に出て来た豆のポタージュが既にすばらしい味だ。
「わ、おいしい。なめらかですね。色もきれい」
「お豆の味がしっかり出てるわね。……よかったわ、気に入ってもらえて」
クロスがかかった四人がけのテーブルに、香奈と奈月が並び、対面に郁が座った。
間接照明のランプの明かりが、オレンジ色に揺れている。
三人は、今観てきた舞台の話をほとんどしなかった。
感想を、個人的なものとしてとどめておきたい人たちなのかもしれない。
友人でたとえるならば菜々のように、ここぞとばかりに感情を共有しようとする人もいれば、沙也のように表面上はさっと流してしまう人もいる。
郁もさきほどは圧倒されるばかりで、自分がどう捉えたのかきちんと把握できていなかったため、感想を問われないことにほっとした。
「でも安心したわ。伊月と奈月くんはね、会ってもいつもそっけないのよ。会話だってほとんどないし。なのに、そんな奈月くんが十和田さんのような子と親しくしているなら、それって伊月とも実は相性がいいってことなんじゃないかしら」
「まだそんなこと言ってるの」
奈月はあきれ顔だ。
「だって、もどかしいんだもの。男兄弟ってそんなものだって伊月は言うけど、あれでも彼、奈月くんのこと相当気にかけてるのよ。家に残してきた家族を心配するのは当然かもしれないけど、それならもっと優しく接すればいいのにって思うのよね」
「兄弟で仲良くなんて、気味が悪いでしょ」
「そんなことないわよ。二人とも、ケンカもしないじゃないの。兄弟なのに」
聞けば、奈月と兄の伊月は、年が八つ離れているらしい。
「ねえ、十和田さんはご兄弟は?」
「私は一人っ子で、母も幼い頃に他界してるものですから、父と二人暮らしなんです」
「まあ、そうなの。私も一人でね、……子どものころは兄弟がほしかったのよね」
「そうですね、私も、お姉さんがいたらいいなと思ったことがあります」
「……家族なんて少ないほうがいいと思うけどな」
釈然としない様子の奈月は放っておき、香奈がわずかに身を乗り出す。
「私は上は欲しくなかったわね。言うことをなんでもきいてくれる弟が欲しかったの」
横で口元を曲げる奈月の顔が面白い。そんな立場はごめんだと考えているのがありありとわかる。
「でも、実際に義弟ができてみると、あんまり言うこときいてくれないのよね。育ちすぎちゃったのかしら」
「香奈さんは兄弟にたいして夢を見すぎているんだと思うよ」
「あらだって、従兄弟もみんな年上で、私に対する扱いったらそりゃあひどかったのよ。しまいには奈月くんまで、私より、伯父や従兄弟になつくんだもの。ひどいわ」
そう言って、ふくれてみせる表情がかわいらしい。
「こうして見てると、奈月くんと香奈さんは本当の姉と弟のように見えます。少しうらやましいな」
口にしてから気づく。香奈につられて、奈月を名前で呼んでいる。
ちらっと視線を走らせるが、当人はまるで気にしたそぶりもないので、問題ないと判断をした。
一方の香奈はご満悦だ。
「十和田さんも、姉と思って……とはいかないだろうけど、もし男親には相談しにくいこととかあったら、いつでも言ってね」
「ありがとうございます」
「私、来客があるのって好きなの。今度奈月くんと一緒にごはん食べにいらっしゃいよ。孝くんも来たことあるのよ」
「そうなんですか。あ、でも、それはさすがに申し訳ないような」
「女の子が来てくれると、場が華やいでうれしいわ」
華やぐような柄ではありませんがと、言いたくなる。
「きっと十和田さんは、伊月と話が合うわね。奈月くんももっと来てくれればいいのに、コードにばかり行って、誘わないと顔も見せに来てくれないんだもの」
「……コードってなんですか?」
「あら、奈月くんとは行ったことない? 伊月とは対極にあるような、出来の悪い従兄弟が働いてるカフェなの」
「そりゃあ、僕が行くのは遅い時間が多いからね。誘ったりしないよ」
「お気に入りのお店なの?」
「うん、コーヒーがおいしいんだ。家からも近くてね」
「そっか。近所においしいコーヒーが飲めるお店があるのはいいね」
間に香奈が入ってくれるおかげだろうか。奈月とは気後れすることなく、普通に会話ができている。
もっとも、気まずくなるような話題がのぼる機会も、この調子だとなさそうだ。
(でもなんだか、うれしいな)
思えば、夏休みの間は、『香奈さん』の家族構成も知ることがなかった。
こうして見る奈月の顔も、学校とは違うプライベートなものだろう。
なにげない会話のなかで、いろいろと知ることができるのは、妙に心をくすぐるものだ。
「奈月くん、たまにそこで歌ってるのよ」
ぴくりとスプーンを持つ手が動いた。
(え……!)
「香奈さんったら、そんなこと言わなくてもいいのに」
「伊月が心配してたんだから。ふらふらと遊び歩いてばかりいて、ちっとも受験勉強に身が入ってないって」
「そんなことは……、あるけど」
「ほらね」
学業に専念するのは大事なことだ。しかし、郁はどうしても気になった。
「……歌ってるの?」
胃の奥がうずうずした。
「その場の雰囲気でたまに。遊びでだよ」
「私も行きたい」
知らず知らずのうちに、かなりの前傾姿勢になっていた。
「おねがい。だめかな?」
奈月が眉根を下げて目をそらし、香奈はぱっと笑顔になった。
「あら、あら、かわいいおねだり。これはきかないわけにはいかないわね」
それでも結局、奈月は連れて行くと約束はしてくれなかった。
その後に出てきた料理はどれもおいしくて、デザートがあっさりとしたムースだったのも、ふくれたお腹にはうれしかった。
ふたたび家まで送ってもらい、ちょうど帰宅したばかりの父と、香奈が型にはまった挨拶を交わした。
「おやすみ」
そう言って奈月がドアの向こうに消えると、郁はどこか物足りなさを感じたのだった。