第一話
奈月から電話があったのは、そろそろ零時を回ろうかという頃だった。
「遅くてごめんね、寝てたかな」
ぎゅっと心臓が縮み上がった。これほど自分は小心だったかと、意外に思う。
「ううん、起きてた。いつもは寝ている時間なんだけど、今日はね」
かかってきた番号は香奈の名前で登録されているもので、郁は再度現実をつきつけられる思いがした。
それでも、どうにか平静を装った声が出せたのではないだろうか。
電話の向こうの声は落ち着いたもので、こちらばかりが動揺をあらわにするのは割を食ったような気分になるので、避けたかった。
「突然だけれど、明日の午後は暇かな。バレエのチケットが一枚余ってるんだ。三時からなんだけど、一緒にどう?」
「……明日?」
「そう。もし来られるなら、本物の香奈さんを紹介するよ」
予想だにしない申し出だった。
「香奈さんに本物と偽物がいるの?」
奈月が笑いをこぼすのがわかった。
電話越しに彼の声を聞くのは、おかしな気分だ。
「僕が扮していたのが偽物。本物の香奈さんはね、僕にとっては義理の姉にあたるんだ」
「お姉さんの名前を借りていたということ?」
「まあそうだね。本名を名乗る度胸はなかったから。あんな格好をしているときにはね」
なるほど、しかし、それでも郁にとっては共に夏を過ごした香奈のほうが本物であるように思う。
「お姉さんと一緒にバレエを観に行くの? 仲がいいんだね、篠山くん」
「兄夫婦と行く予定だったんだよ。けれど兄だけ急に予定が入ったらしくてね。今日の明日だと、誘うのもどうかと思ったんだけど、せっかくだから」
「そっか。それならせっかくだから、行こうかな」
気持ちの整理がつかず、何を問いたいのかが定まらない。それならいっそ、会って話がしたかった。
「よかった。それなら、明日の昼過ぎに迎えに行くよ。家はどこ?」
「わざわざ来てくれなくても平気だけど」
「車で行くことになると思うから」
「そうなの。だったら……」
ざっと、住所と道順を説明すると、すんなり伝わったようだった。
「二時くらいかな。支度をして待っていて」
「わかった。ありがとう」
これってデートかなと、ちらりと思う。
(保護者同伴だったら、違うよね)
とまどう反面、ふたたび『香奈さん』と関わりが持てたことを嬉しく思う気持ちは否定できない。
たとえそれがクラスメイトだったとしても、彼女の気配は、きっと彼の内にあるはずなのだ。
(私ってもしかして、未練がましいのかな)
しかしこうして誘ってくれたということは、決して彼の側でも、あの一週間をなかったことにしたいわけではないのだろう。
(――嬉しい、な)
じわじわとこみ上げてくる熱がある。おそらく自分は高揚している。
「夕飯をごちそうするよ。僕がじゃなくて、香奈さんがだけど」
「それはさすがに申し訳ないよ」
「気にしないで。行けなくなった兄のぶんまで予約してあるんだ。急なキャンセルは心苦しいからね、君がいてくれると助かるよ」
それはとっても、ずるい言い方だ。
「……ごちそうになります」
「帰りは八時くらいになるかな。心配するといけないから、おうちの人には伝えておいてね」
「うん、そうする」
夏休みと違い、今週末までは父が家に居る。
明日は仕事があるため、八時だとまだ帰宅していない可能性もあるが、無断で出かけるわけにはいかない。
(お父さんの夕飯、用意しておかないと)
そのほかにもいくつか、算段をつけておく。
「あの、誘ってくれてありがとう。楽しみにしているね」
バレエにも興味はあるが、おそらく急なお出かけに心が浮き立っている。
「また明日」
「明日ね」
通話を切ると、とたんに熱くなる頬を手のひらでごしごしこすった。
「うう、恥ずかしいよ……」
自分を偽っていた夏の間は、好意をおおっぴらにしても平気でいられた。
(今はもう無理)
普段の自分を知っている相手ならなおのことだ。
真面目で真っ当で、公平かつ堅実であることを旨としているような自分が、どうして感情的になんてなれるだろう。
(やっぱりあのときは、特別だったんだ)
電話でならまだよかった。明日はどんな顔をして会えばいいのだろう。
平静を保って会話ができる自信がなかった。今日も実際、音楽室では取り乱してしまったではないか。
腕の中に、温もりがよみがえる。
「わっ、わ、だめだめ」
芋づる式に、余計なことまで考えてしまいそうで、慌ててかぶりを振る。
「とりあえず、深呼吸」
今一番大事なのは、落ち着いて自分を見つめ直すことだ。
「香奈さん……」
ベッドに転がり、目を閉じる。
(会いたかった)
そしてどうやら、本当に会えた。
「どうしよう」
今の心境を、これほど的確に言い表している言葉もなかった。
予定は午後の二時。時刻はちょうどのことだった。
インターフォンが来客を告げる。
姿見に映る自分にさっと目を走らせて、郁は荷物を手に取った。
バレエを観に行くということで、いつもよりフォーマルな格好をしている。
モスグリーンのワンピースに、細いカチューシャと、金のビーズが散っている厚地のショール。
靴はベージュのパンプスだ。かかとは低いが、年齢を考えると、このまま結婚式に出てもぎりぎり許されるのではないかという装いだ。
歩きにくいということはないが、唯一困るのは、手にした鞄が小さいということ。
鞄が小さいと、ごちそうしてもらうことを前提としているようで、引け目を感じる。
玄関のドアを開けると、ゆるくネクタイをしめた奈月と、もう一人、――見覚えのある女性が立っていた。
年の頃は二十代の半ばだろうか。きびきびとしていて有能そうな印象を与える人だ。
「はじめまして、十和田 郁です。本日はお世話になります」
頭をさげつつ記憶を探るが、どこで会った人なのかが思い出せない。
「やあ」
奈月がやわらかな笑顔を向ける。
「かわいいね、その服。落ち着いた色がよく似合ってる」
こんなふうに臆面もなく装いをほめる同学年の男子を初めてみた。
家族に女性が多いのだろうか。マナーとしてたたき込まれるほど、普段から鍛えられているのかもしれない。
「ありがとう」
郁の父はそんなことに気の回る人物ではないから、そんな配慮を向けられるのは新鮮だ。
「篠山 香奈です。こんにちは。今日はよろしくね、十和田さん」
前下がりのボブは、切り口もシャープだ。瞳には生気が溢れ、輝いている。
「香奈、さん」
ではやはり、この人が『本物の香奈さん』なのだ。義理の姉というだけあって、奈月とはまるで似ていない。
(あっ)
似ていないで思い出した。
初めて奈月の扮する『香奈さん』に会ったとき、日月製薬のオフィスでコンタクトを手渡していた『姉』がいた。
あのときはちぐはぐな姉妹だと感じたものだが、あれこそが、この人物だったのだろう。
(篠山くんは、日月製薬に縁のある人だったんだ)
だからといって、奈月がああして女性としての夏を過ごしていた理由まではわからないが、ひとつ納得のいった心地にはなる。
「今日はご家族でお楽しみのところにお邪魔をしてしまって申し訳ありません。迎えにまで来ていただいて、ありがとうございます」
「あら、いいのよ。付き合ってくれて嬉しいわ。奈月くんと二人じゃ淋しいもの」
「これは紅茶と、あとは近くにおいしい洋菓子屋さんがありまして、そこのバウムクーヘンなんです。よろしければお召し上がりください」
午前中に用意しておいた紙袋を手渡すと、香奈は目を丸くして受け取った。
「ありがとう。ずいぶんと気の回るお嬢さんね。ありがたくいただくわ、バウムクーヘンも紅茶も大好きなの」
「よかった。おすすめなんです。お口に合うといいんですが」
送迎に加えて夕飯までごちそうになると聞いては、手ぶらでは会いづらい。
和菓子とどちらにするか迷ったのだが、奈月には洋菓子のほうが似合うイメージがあったので、その親族ということでこちらを選んだ。
「やだもう」
とつぜんけらけらと笑い出して、香奈は奈月の背中を小突いた。
「十和田さんったら、学生時代の伊月にそっくり」
「伊月……さん?」
きょとんとする郁に、奈月が困り顔で教えてくれる。
「ええと、僕の兄なんだ。香奈さんの旦那さん。いや、けど似てないよ、大丈夫」
「何言ってるの。似てるわよ。いかにも筋金入りの優等生じゃない」
「香奈さんったら。郁に失礼だよ」
「だって、あまりに似ていてかわいいんだもの! 知らなかったわ、奈月くんってブラコンだったのね」
「それだけはないよ!」
やっぱり仲が良いんだなと思う。他に義理の姉と弟という間柄をもつ知り合いがいないので比較はできないが、本物の家族だと言われたら信じてしまいそうな距離感だ。
「さてさて、行きましょうか」
戸締まりをしてついて行くと、黒の四駆が止まっている。雪道でも安心そう……と、感じてしまうのは道民の性だ。
奈月とならんで後部座席に座る。
「郁は孝と一緒に学級委員をやってるんだ」
「孝くんってあの、元気のいい子でしょ」
学校の様子などを話すうちに、香奈が孝にも会ったことがあると知る。
「孝はたぶん、郁には頭が上がらないんじゃないかな。お世話になりっぱなしだから」
「そんなことはないよ」
むしろ毎度叱られてばかりいる。
もっとうまくやっていければいいのにと思うこともあるくらいだ。
自分のどこが彼の気に障るのか、わかっていないわけではないが、性分なのでどうにもならない。
彼の走りっぷりを見るにつけ、縮こまってばかりで自由に羽ばたくことのできない自分が認められないのは、無理もないように思える。
郁は彼のスポーツに打ち込む姿には、尊敬にも似た念を抱いているのだが、そうと伝えたならば、おそらく彼は非常に嫌な顔をするのだろう。
「篠山くんと西野くんは仲がいいよね」
以前は気にもとめなかったが、今なら二人の共通点に気づく。
孝のトラックを駆ける姿と、奈月が喉を震わせて歌う姿は、どちらも郁に風を感じさせた。
エネルギーに満ちていて、飾ることなく己を表現できる有り様に、焦がれるほどの憧憬を抱くのだ。
「二人とも、まっすぐなところが合うんだろうね」
そう告げると、奈月は得体の知れないものでも見るような目で郁を見つめた。
「……まっすぐだなんて、生まれて初めて言われたよ。郁はさ、感性が個性的だよね」
運転席で、香奈が声を上げて笑い出した。
「十和田さんってばほんとに面白いのね。伊月と同じこと言ってるわ」
「えっ」
ぞっとした様子で顔をしかめる奈月の反応が極端で、郁もつられてくすっと笑った。