第九話
秋休みを翌日にひかえた学期末試験の最終日、最後の科目を終えた生徒の間にただようのは、なんといってもほっとした空気だった。
答え合わせにやっきになる者、頭をかかえる者もちらほらと目につくが、開放感にひたる生徒の数にはおよばない。
「やっと終わったあぁ」
ホームルームを前にして、菜々が郁に抱きついてくる。
「もう泣きそうだよぉ。郁はどうだった?」
「うん、まずまず」
「ええー。小憎らしいな、もう。そこは辛苦を分かち合おうよ」
「分かち合うようなものじゃないでしょ」
「うー……、だってさ、ほら、英語とか古典とか、難しかったよ。すごくすっごく」
たしかに古典は少し難度が高めだった。
「そうだね。帰ったら今日のうちに復習しておいたほうがよさそう」
記憶の新しいうちに。そう思ったのだが、菜々には受け入れがたい意見だったらしく、真っ向から否定されてしまった。
「うわ、やだやだ、やめてよ郁。テストが終わった直後にもう勉強のこと考えるなんて、間違ってるよ」
「そうかな」
「そりゃそうだよ!」
菜々が両手をぐっと握る。
「メリハリつけなきゃ。テスト終わったあとくらいは遊ぶべきだよ!」
菜々の意志はかたそうだ。
「だからさー、郁も今日の放課後どこか遊びに行こう?」
「ああごめん、今日は委員会があるの」
「え!」
「学期末だからね。いろいろあるみたい」
「一緒に帰れないの?」
「うん。先に帰って」
「遊べないの?」
「そうだね」
「うっそ、最悪! テストの後で委員会だなんて。クラス委員なんてやるもんじゃないね。郁、かわいそう」
菜々はおおげさに嘆くが、郁はさして負担に感じているわけではない。
「たいしたことじゃないよ。いろいろと区切りをつけて秋休みに入るっていうのは、気持ちのうえでもすっきりするし」
「やだああ、なにそれ。だって委員会なんて楽しくないじゃないの」
「楽しくはないけど、必要だからね」
「いやだよぉ。郁もさ、今日くらいさぼっちゃえば」
「そうはいかないでしょう」
今日はけっこう大事な連絡事項もあるはずだ。
各クラスで決まった文化祭の出し物を発表して、実行委員の名簿も作る。
休み明けには実行委員会もあるはずだし、その日時を実行委員に伝達するのは郁の役目だ。
このクラスは結局、沙也の発案の器楽演奏と創作ダンスに決定した。
実行委員も彼女がやることに決まり、衣装や振り付けなどの相談も一部の生徒の間で始まっているという。
休み明けには具体的に動き出しもするだろう。当然、郁も協力は惜しまない。
「あーあ、がっかりだよ」
不平をこぼす菜々だったが、すぐに別の人を誘おうと気持ちを切り替えたようだ。
「秋休み中もどうせ勉強するんでしょ。まあ、それでこそ郁だけど。愚痴をこぼしたくなったらいつでも連絡してね。気晴らししたくなったらつきあうからねー」
「うん」
事実、秋休みには学習以外の予定がなにひとつとして入っていない。
郁は素直にうなずいた。
放課後の委員会は思った以上に長引いて、夕刻郁は一人で廊下を歩いていた。
まっすぐに帰宅をしてもよかったのだが、もしかすると図書室がまだ開いているかもしれないと考え、普段は通らない特別教室のある棟を渡っていた。
秋休みとはいえ、休みなのは実質明日と明後日の二日だけだ。
それに週末の三連休をあわせて、五連休となる。
長いと感じるか短いと感じるかは、それぞれの過ごし方次第で、郁にとっては生活リズムが乱れるぶん、いささか扱いに困るといった具合だ。
少しでも有意義だったと思えるよう、何か本でも借りていこうとしたのだが、途中、上の階からピアノの音が漏れ聞こえてきて足をとめた。
(こんな時分に?)
階段をのぼると、音楽室の扉が中途半端に開いているのが視界に入る。
防音室も、これではなるほど意味がない。
見定めたところで音は止み、引き返そうとした郁の足を引き留めたのは、室内から漏れる友人の声だった。
「――……」
(沙也、かな)
普段、用もなく学内に留まるような子ではないため、気になって音楽室へと足を向ける。
スローなメロディが流れていたから、叶あたりと文化祭の相談をしているのだろうと見当をつける。
ふたたびピアノのメロディと話し声が、先ほどよりもはっきりと耳に届いた。
「次はこれ。歌って」
沙也の促す声がする。
このメロディには聞き覚えがある。
『モルダウ』だ。中学の頃に合唱で歌ったことがある。
(そう、こんな出だしだった)
低く、落ち着いた声音がメロディを奏でる。
ゆったりとした歌い始めを耳にして、郁はぴたりと足を止めた。
(……これ)
軽いパニックにとらわれて、心臓が圧迫されるような息苦しさを覚える。
澄んだ歌声がなめらかにのびる。抑揚は味わい深く、誘うように郁を包む。
「――っは」
呼吸が浅く、喉にからんだ。
歌声に背中を押され、よろめく足取りで音楽室の扉を押し広げる。
(なぜ。誰が……)
聞き覚えのある声だった。見知った彼女の歌声だった。
(香奈さん)
感情の波にのまれて、思考がうまくまとまらない。
音楽室に踏み言った郁の目に映ったのは、椅子に腰かけて端末を操作する沙也と、こちらに背を向けて座る西野、――それに、沙也に寄り添うようにして立ち、歌う奈月の姿であった。
郁に気づき、奈月がぎくりと動きを止める。
そのおもてから表情の抜け落ちるのを見て、郁は転がり落ちてきた結論を受け止めた。
「あれ、郁?」
振り返る沙也も、「おう」と声をあげる西野も視界には入らない。
いくぶん線の細い面差しをくいいるように見つめて、郁は奈月に歩み寄る。
気のせいだろうか、顔色がよくない。
そして郁も、なぜだろう、上手に息が吸えないみたいだ。
無言のままで正面に立ち、手を伸ばすと、彼はわずかに身をすくませた。
(見つけた)
歓喜だろうか、怯えだろうか、強い感情が腹の底から湧いてくる。
「……ごめん」
彼のうすいくちびるが言葉をつむぐ。
肩へと伸ばした手は触れることなく、奈月は大きく一歩下がると、おもてを伏せてきびすをかえした。
「待って!」
退室しようとする奈月を、鞄を放って追いかけた。
「おい」
西野が声を荒げるのを聞いた気がする。
座席を縫う奈月の背を追い、腕をつかんだのは、後ろの出入り口にほど近い壁際だった。
バランスを崩してよろける彼に、覆いかぶさるようにしてしがみつく。
壁に背中をつけた奈月は、目をそらしたままずるずると床にへたりこんだ。
「見つけた」
足をまたぐように屈み込み、細いフレームの眼鏡を外す。
どうして今まで気がつかずにいられたのだろう。
フレームに隠されていた目尻の奥に、小さなほくろがぽつりとのっている。
震える指でそっとほくろに触れてみると、彼は諦めたかのようにため息をもらした。
「――香奈さん」
呼びかけると、わずかに顎が引かれる。
「香奈さん」
「ああ、……郁」
うなるようにこたえる彼に、郁はぎゅうっと抱きついた。
どうしよう、泣いてしまうかもしれない。
全身を駆け巡るのは動揺だ。なにがなんだかわからない。
ただ、手のひらに落ちてきた事実を受け止めるだけで精一杯だ。
「香奈さん。香奈さん、会いたかった」
「ごめんね」
彼がどうして謝るのかも、自分が一体どうしたいのかもわからないまま、両腕に力を込める。
(どうしよう。香奈さんだ)
伝わる体温は、まぎれもなく香奈のものだ。
身体つきも風貌も、以前見知った彼女とは異なるけれど、ベースは同じだ。
なによりもあの歌声と、間近で見つめたときの優しい色合いの瞳が同じだ。
そっと手をとる。
女性にしては骨張った、長い手指だ。
今も、男性にしては肩は薄いほうだろうか。
この身体から、あんなに豊かな歌声がひびくなんて不思議なほどだ。
(ああ、どうしよう)
また会えるとは思わなかった。
「郁」
名を呼ばれる、それだけのことで、じんとくる。
まともにものが考えられなくて、彼が誰なのかもよくわからなくなっていて、だからもう、現状などとっくに頭からとんでいたのだ。
「――いい加減にしろよ」
突如、乱暴に背中をつまみあげられて、びっくりする。
声をあげる郁を奈月から引きはがしたのは、盛大に顔をしかめる西野だった。
「なんだってんだお前ら。押し倒すなよ。無視もすんなよ。愁嘆場はよそでやれ」
自分と香奈の間にまさか西野が割って入ってくるとは思わず、郁は目を丸くした。
見ると、たしかに奈月が下敷きになっている。
「あ……、ごめんなさい」
ぽかんと見つめて、反射で謝る。
彼はクラスメイトの篠山 奈月だ。だけど、郁にとっては『香奈さん』だ。
「香奈さん――」
手を伸ばそうとして、西野に手荒くはねのけられる。
「いや違うだろ。香奈さんじゃねえよ」
怪訝な眼差しを向けられる。だけどそんなの、理不尽だ。
「熱でもあんのか」
押しのけられて、西野が奈月に手を貸すのをぼうっと見ていた。
いつのまにかそばに来ていた沙也が、二人の顔を見比べる。
「もしかして私たち、お邪魔かしら」
「その私たちってのは、俺らのことかよ。コイツが突然、錯乱して入って来たんだろ」
どうも西野はご立腹な様子だ。
「ほらよ」
眼鏡を拾い、前髪をかきあげる奈月に渡す。
「ああ、ありがとう」
西野が舌打ちをもらす。
「ぼうっとしてんじゃねえ」
たしかにタガがはずれていたと、徐々にさめてきた頭で考える。
今も、どう言葉をかけていいのかわからない。
目が離せない。
息を詰めて見つめていると、奈月が困ったように目を細めて、頭を揺らした。
「きみが気づくと思わなかったんだ。いろいろ言いたい文句もあるよね、ごめん」
さっきもこうして、謝ってはいなかっただろうか。
「うん、ううん」
「……こんな時間にどうしたの。驚いたよ」
声は淡々として、近いのに遠く感じる。
「委員会があったの。その帰り。音が聞こえたから」
「そう。閉め忘れてたんだね。さっき孝が出入りしたから」
「俺?」
西野が奈月をじろりと睨む。
奈月は意に介す様子もなく、穏やかな口調のまま郁に訊ねた。
「怒ってる?」
(私が?)
何を怒るというのだろう。
「どうして?」
かぶりを振ると、彼は違った受け止め方をしたのかもしれない。
「だますつもりはなかったけれど、名乗るつもりもなかったからね」
訊きたいことがたくさんあった。おそらく、伝えたいこともたくさんあった。
(ああでも)
「……私だって、知ってたの」
「知ってた。初日に。わりとすぐに気がついた」
「私は気がつかなかった」
「そうだろうね」
「うん」
では彼は本当に『香奈さん』なんだ。じわじわと実感がわいてくる。
同時に、たくさんの疑問が渦を巻く。
「私……」
何から話せばいいのだろう。
どんな顔をして向き合えばいいのだろう。
(私だって知っててあんなことしたんだ)
最終日、香奈と過ごした一夜が脳裏によみがえる。
「わ、やっ……」
思わずうわずった声をもらし、郁は一気に赤くなった。
(わ。わああ)
くちびるを手の甲できつく押さえる。
一転して、急に誰の顔もまともに見られなくなる。
後ずさる郁の足に何かが当たった。
見ると、沙也が郁の鞄を持っていた。
「あ、ありがとう、これ、私の」
ひったくるように鞄を受け取り、かすれた声で一気にまくしたてる。
「えと、文化祭の曲でも考えてたのかなと思って、軽い気持ちでのぞいたの。邪魔するつもりはなかったんだけど、騒いじゃってごめんなさい。あの、私、混乱してて……、ごめんね、気にしないで、――ええと、さよなら。帰ります。どうぞ続けて」
「郁? 待ってよ、一緒に――」
沙也の呼び止める声がする。
西野が打ち鳴らす爪先が視界をよぎった。
足早に音楽室を出て行こうとした郁の足を止めたのは、またしても奈月の声だ。
「郁」
にじむ視界で振り向いた。
「電話するよ。後で、落ち着いた頃に」
うなずくのが精一杯だ。
扉を閉め、郁は廊下を駆け出した。
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