第八話
地下鉄の駅から住宅街に向かって三百メートルほど進んだ場所に、そのバーはある。
昼はカフェで夜はバーに変わるその店は、時代遅れなまでに落ち着きのある外装をしていた。
流行りのホロも壁面処理もなく、ただ木材の看板に光量をおさえたライトをあてているだけだ。
エクステリアはグリーン仕様で、なんでもオーナーの奥方の趣味で、生木をアレンジして、季節ごとに配置をあらためているらしい。
看板にある店の名は『 chord 』。コードと読む。
生演奏が特色としてあげられ、オーナー自身も稀にベースとして参加することがある。
提供される音楽の傾向はまばらで、奏者の気分や居合わせた客層によって日々異なる。そんな店だ。
奈月と沙也の二人がこの店を訪れたのは、週末の午後七時。
ちょうど店内のコンセプトが切り替わる時間帯だ。
「海さんいるかな」
沙也の足取りは軽い。
奈月にとってもここは、通い慣れた避難場所だ。
店は防音の都合上、半地下にあり、二人は幅の広い階段を並んで下った。
夏だからだろうか。扉の周囲をサボテンが囲んでいる。
(トゲトゲしいなあ)
肉厚の個性的なフォルムを眺めて、扉をくぐる。
と、アップテンポなピアノの音色が身体をつつんだ。
(海さんの音だ)
軽やかな音色はよどみがなくて心地よい。
オーナーの基には、よく「あいつの音は軽すぎて色気がない」とケチをつけられているが、奈月は彼の気負わない演奏が好きだった。
「わああ」
横で沙也がよろこびを噛みしめている。
居心地の悪い自宅から逃れてきた奈月と異なり、海が目当ての彼女としては当然の反応だ。
「よかったね」
背中を押して、隅の席へうながす。
この時間、店内は人気もまばらで、ゆったりとした雰囲気がただよっている。
あまり遅くまで滞在するつもりはないが、時間が過ぎると客層も世代が上向きになる。
それにそなえて、障りになりにくい隅の方を選ぶ習慣ができていた。
ポップアップするメニューからコーヒーをふたつオーダーする。
日中はコーヒーをメインに出しているだけあって、質が良い。
ぽーっとなって演奏に酔いしれる沙也と、小さな丸テーブルを囲んで待つと、やがてオーナーがカップを二客、トレーに乗せてやってきた。
「よう坊主。今日は香奈は一緒じゃないのか」
がっちりとした体型の、ひげ面の男だ。
奈月にとっては、新しくて遠い親戚でもある。
「こんにちは、基さん。香奈さんは職場で歓迎会だって」
言うと、基はいぶかしげな顔をした。
「こんな時期にか」
「やだな、まさにそんなシーズンじゃないですか。九月入社の」
「おお?」
「僕らも週明けから学期末試験があって、その後は秋休みですよ」
基はがしがしと豪快な仕草で頭を掻く。
「もうそんな時期か。ってえことはお前、お嬢ちゃんも、こんなとこふらついていちゃまずいんじゃないのか」
「息抜きですよ。勉強はしてます。沙也はとくにね、真面目だから」
気もそぞろな沙也が、目線はピアノに釘付けのまま、こくこくとかぶりを振る。
「そうかあ? 品行方正にふるまえよ、若人」
いかつい手が、ふつりあいなほどそうっとカップをテーブルに置く。
「いい香りだね」
「俺がいれたんだ。当然だろう」
ほこらしげに胸を張る。
ひとくち含むと、ストレートなコクと苦みがひろがる。
(うう)
「おいしい」
奈月の好みにあわせて、酸味を調整してくれている。
「だろう」
オーナーは自信満々だ。
「まあ、ゆっくりしていけ」
立ち去る姿を目で追いながら、冷めて味が変わる前にと、カップを口にはこぶ。
(これがあるから通っちゃうんだよな)
同じ豆でも、いれる人によってまざまざと味は変わる。
一度頼んで自分でいれさせてもらったことがあるが、こんな風に風味を引き出すことはかなわなかった。
「才能だよなあ」
オーナーがいるかぎり、この店は安泰のような気がする。
「ん、なにが?」
いつになく締まりのない顔をした沙也が振り向いた。
「オーナーのコーヒー。沙也も飲んだら? 熱いうちに」
「うん」
沙也はミルクだけをたっぷりとそそぐ。
色がやさしい色に変わっていくのを、なにげなく見ていた。
ミルクをいれないと胃に負担がかかるんだとかで、気の毒なことだと思う。
(そのまま飲むのが一番おいしいのにね)
甘いカフェオレなども、好まないわけではない。
ただ奈月の中で、コーヒーと甘い飲み物とは別物なだけだ。
そのままが一番おいしい。
もちろん、そうあるように手をかけて提供されているわけだが、それでもそんな有り様はゆるぎなくて美しい。
(人間はなかなかそうはいかないよね)
飾らずに勝負なんて、できようはずもない。
デコレートされた奥からにじむ、素材の香りに惹きつけられることは多々あれどもだ。
ゆったりと息をつく。
ピアノの音色とコーヒーの香りにひたると、力が抜ける。
同じ環境に身を置いていても、沙也は肩に力がこもる一方のようだけれど。
(お腹すいたな)
夕飯をとろうと、ふたたびメニューをたちあげる。
「沙也もなにか食べる?」
「……胸がいっぱい」
「ああそう」
ホットサンドとソーセージを注文した。
食べたくなったら、彼女も勝手に何かたのむだろう。
「おまちどう」
食事が届いてぱくつくころには、海の演奏も終わり、店内に一時の静けさがもたらされた。
もっとも、居合わせた客のざわめきは止むことなくたゆたっていたが、音の余韻にまどう耳がそう判断するのは自然なことだ。
「奈月くん。沙也ちゃんも」
やがてロングのグラスを片手に、海がふらりとやってきた。
「わ。海さん、こんばんは」
「はい、こんばんは」
「飲んでるの?」
グラスを満たす透明な液体に目を向け、奈月が訊ねると、彼はくったくのない笑顔をみせた。
「栄養補給。気分をあげていかないと」
「またそんな」
酔っていて仕事がつとまるのかと、つい呆れたまなざしを向けてしまうが、海の指は夜がふけるのとともに軽やかになっていく。
「いい仕事だろ?」
「はい。素敵です」
そううなずく沙也に、ウインクをひとつ送る。
「弾き手が楽しんでいると、客にもそれが伝わるもんさ」
「ここは居心地がとてもいいです」
「ありがとね」
空いているほうの手で、海はぽんぽんと沙也の頭をなでた。
(あーあ、罪作りな人だ)
さほど明るくはない店内でも、沙也が顔を赤らめたのがわかる。
けれど海は既に視線を奈月に向けていた。
モラトリアムな雰囲気をまとっていて若くは見えるが、これでも三十路だ。
高校生をそういった意味で意識することなどないのだろう。
奈月からすると沙也の態度はあからさまだが、当の海には気づく素振りも見られない。
もしかすると、素知らぬふりをしているだけかもしれないが、眼中にないのはどのみち一緒だ。
「今日は遅くまでいるのかい、受験生」
「いえ、それほどには」
「そうか。ジェマがまた一緒にやろうって言ってたんだ。このあいだのセッション、気に入ったみたいだね」
「そうですか。僕もジェマさんの歌は聴きたいですけど、まだまだ来ないですよね」
「早くて九時だろうな」
ステージで多様な歌声を披露するジェマは、大柄でエキゾチックな美女で、客からの支持が厚い。
低くて深い歌声は、叙情的で心にうったえるものがあるが、温かな人柄も大きな要因であっただろう。
先月香奈とともに来た夜に、三人で歌を歌った。
子どもの遊びのようなものだが、気分はよかった。
「一緒に歌ったの?」
うなずくと、「ずるい」と、沙也がふてくされる。
「まあ、受験生を拘束するわけにもいかないしな」
海が身をかがめて、冗談めいた口調でささやく。
「落ちたらうさばらししに来なよ。励ましの曲をささげてやろう」
「ひどいな。落ちる予定なんてありませんよ」
「どこ志望してるんだっけ」
「札大の外語です」
「沙也ちゃんは女子大だったよね」
「あ、はい、そうです」
「こいつと違って勉強できそうだもんね」
「奈月も英語だけは得意なんですよ」
「へえ、そうなんだ。たしかに発音はよかったかな」
(英語だけって)
しかし事実なだけに、おもてだって反論する言葉もない。
「まあ、気楽に受けなよ。ドロップアウトしたら、ここで働けばいい」
「つとまりませんよ」
海の存在は店の空気に馴染んでいる。
さわやかな風を装ってはいるが、まとう気配は夜の香りを放っている。
「海さんには天職のようですけど」
「おまえは違う? うらやましいだろう」
ひそやかに笑う姿は、まるっきりだめな大人だ。
「似てませんね」
「誰に。オーナーに?」
海は細身で、オーナーとは確かに似ていないが、雰囲気には共通するものがある。
「いえ、香奈さんに」
「ああ。あの堅物」
肩をすくめるこの男は、香奈のいとこだ。
「たしかに香奈より、奈月くんのほうがうちの家系っぽいけどね」
「奈月が困った顔をしてる」
沙也の口から、指摘はあってもフォローはない。
「働くには、奈月には情熱が足りていないと思う」
「自立しようという意欲はあるんだけど」
「意欲と情熱は似てるけどちがう」
しかし実際、情熱よりも自立が大事だ。
「たしかにこいつ、ジェマのおっぱいにもなびかないんだよな」
「なんですそれ」
「豊満で魅力的だろ。なのにまあ、しれっとしちゃって、可愛げのない」
「貧乳派なんですよ」
「ほう。マニアックな」
海の瞳が光る。
「好きな子いる? やっぱり貧乳なの」
「並です」
言ったそばから、考えをあらためる。
(いや、少し小さい……か)
思いおこすのは、体操服姿の郁の体つきだ。
「ううぅ」
(ん?)
気づくと対面で、沙也が口をへの字にさせていた。
「んー、どうした沙也ちゃん」
「奈月、好きな人がいるなんて、いままでひとことも言わなかった」
「そりゃあ、言う必要がないから」
「私は隠し事なんてしていないのに、水くさい」
目が据わり、うなり声をあげられた。
(えー)
「そりゃあ、沙也があけすけすぎるんだよ」
海が奈月の背中をたたく。
「女の子には、特に言えないことも多いよなあ」
まったくもってその通りだ。
ことに奈月は、何につけても自分のことを話すのに慣れてはいない。
「おっと」
オーナーに手招かれて、海が二人に手を振った。
「呼んでる。じゃーね」
なめらかに身体をひねり、海はカウンター裏に消えていった。
「ああ、行っちゃった」
残念そうにつぶやいた沙也だが、すぐに奈月に向き直る。
「誰?」
(うわあ、勘弁)
「沙也には関係がないと思うんだ」
「誰なの」
「教えない」
いっそう目つきが悪くなる。
「……つきとめるわ。ねえ奈月。誰かと語り合う中で、自分の気持ちに整理がつくということもあるものよ。私、恋愛観について話す相手がほしいと思っていたところなの」
「僕じゃなくてもいいんじゃないの。ほら、女子が相手のほうが、気持ちも共有できそうだろう」
「そんな会話を好んでしようという相手はいないもの。……郁はまるで興味がない様子だし」
「そう?」
それはなんとも複雑な心境になる見解だ。
「自分の恋が実らないという現実については、もういいの。ただ、もう一歩気持ちを昇華させたいのね。誰もがまどう道なのだと、安心したいのよ」
「なるほど。それでも、僕はあまり役に立たないと思うな」
色恋沙汰にかまけている自分というのは想像できない。
「当面はいいわ。気が変わったら話しましょう」
「そうかい。だったらソーセージをどうぞ。マスタードがおいしいよ」
食べかけの皿を差し出す。
沙也はお腹をさすった。
「いただく。でもこれだけだと足りないみたい。何か体力のつくものが食べたいわ」
そう言って、彼女はメニューをつぶさにながめた。