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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第二章 : 民謡は変転する
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第五話

 この日のスタートは、あまり良いとはいえなかった。

 篠山 奈月は母のゆかりと向かい合い、朝食をとっていた。

 朝の情報番組を時計代わりに垂れ流し、塩味の卵を口に運ぶ。


 番組のコーナーが切り替わったとき、波が引くように食欲は失せた。

 味覚はにぶり、胃の腑がずんと重くなる。

『本日は、建築家の曽根 海月さんのオフィスからお届けします』

 とっさにリモコンに手がのびた。

 電源をオフにしようとしたのだが、そんな単純な希望が叶うことはなかった。

「った」

 対面から伸びた爪に甲ををひっかかれて、肩がはねる。


「まあ、どうしましょう。出演するなんて知らなかったわ。なんてみずくさい」

 ゆかりはひったくったリモコンを操作してボリュームをあげる。

 眼差しも声も夢見がちで、頬はうっすら紅潮している。

「……母さん」

 手の甲に血がにじむ。


 奈月の面からは感情が失せ、瞳は冷静に母親へと向けられた。

 ディスプレイからは、奈月が嫌うあの男の声が流れる。

 ひたむきにみじろぎもせずにそれを見つめる母の横顔を見れば、彼女の意識に当分奈月の存在がのぼることはないことは明らかだった。

 共に朝食をとっていたことも、そんな息子がいたことすら、思い出すのに時間がかかるだろう。


 奈月は無言で食器を片づけ、学校へ行く支度をした。

「行ってきます。母さんも、仕事に遅れないようにね」

 声はかけたが、耳には入っていないだろう。

 彼女は放送にのめりこみ、並外れた集中力を発揮して、くいいる眼差しでその男を見つめていた。


 万人に向けた、高名な建築家として立つ男の映像だ。

 最近たずさわったプロジェクトだとか、職場の環境だとか、一体誰がそんなものに興味を示すのだろう。

 はりのある声が、身体に巻きつくようで不快だった。

 日に焼けた顔も、自信にあふれる目つきも、不遜な印象をあたえるばかりだ。

 親しみなど感じるはずもない。

 顔立ちも性格もライフスタイルも、全てにおいて共通しない。

 同じ血が流れているなど、たちの悪い冗談のようだ。


 あの男は母を虜にして離さないが、奈月が父と認めるいわれはないし、向こうもこんな息子がいたと、記憶にのぼることはないだろう。名前を覚えていないとしても、意外ではない。

 徹底して、家庭に不向きな男だ。

 母の恋人ではあっても、父親ではない。

 母の精神に巣くった病のような存在だ。

 係わりは密で、くちばしを突っ込む隙もない。


 諦めは、物心がついて以来のパートナーだ。

 ことに、兄の伊月が家を出てからは、受け流す以上の努力をすることはなくなった。

 心は沈むばかりで、波が立つことはない。

「行ってきます」

 もう一度、声に出さずにつぶやき、奈月は自宅の扉を閉めた。






「おっと、奈月帰るなよ。ユニフォームにボタンつけるって言ったろ」

 放課後、西野に呼び止められて、奈月はいったん手にした鞄を戻した。

「忘れてた……」

「だろうな。あの服持ってきたか?」

「持ってきたよ。探すのに苦労した」

「俺も!」


「持ってはきたけど、なんでまた。普通に体操服でいいんじゃないの」

「しっ」

 西野は警戒するように視線をめぐらせた。

「女子が決めたんだよ。いいか、そういうときはな、余計な口出しはしないのが身のためなんだぞ」

「女子がやりたいなら、女子だけでやってもいいんじゃないかと思っただけだよ」


「それがなあ」

 西野が机に腰かけ、肩をおとす。

「桃川が、彼女と同じユニフォームでやりたいって言い出してよ」

 顎で示されたのは、同じクラスの女子バレーのメンバーだ。

「ああ、なるほど」

「キャプテンひきうけてもらったろ。反対意見も出なかったし」

「まあ、積極的に拒否するほどのことじゃないよね」

「そうなんだよ。まあそれくらいならいっかと思ったんだよな」

「まあね」

「ちとだるいけど、これもしょっぱい思い出だと思って我慢しろ」

「ふうん」


 奈月はこれまた習慣で、窓際の郁へと目を向けた。

 彼女もバレーのメンバーだ。指定服以外で同じものを着用するだなんて、おかしな気分だ。

 彼女はぼうっと、窓の外をながめている。

 物思いにふけっているようで、何が彼女の心をしめているのか、気にならないはずはないが、かといって積極的に訊ねる度胸もありはしない。


(ああしている時間が増えた)

 自覚があるのか、わからない。夏休みがあけてからだ。気づくと彼女は遠くを見ている。

 そんなとき奈月は声をかけたくなる。

 さりげなく、なんでもいい、わかちあえたら素敵だろう。

(たいがい僕も、未練がましいもんだ)


 つい先日、髪を切り、登校してきた彼女を見て、ほっとした。

 長期休みの前と変わらないふるまいを、確認できてよかったと思った。

 真面目で堅実で、ゆるぎのない彼女に好意をいだいていたから、すぐに気づいた。

 何かに心を囚われているのだ。

 それが今の時期にふさわしい進路の悩みなのか、人間関係によるものなのかはわからない。

 誰にとっても、おそらく夏休みは長かった。

 具体的なことがらを、訊きだそうとは思わない。


(……怖いんだろうな)

 惹かれてはいるものの、彼女との距離を縮めるつもりは奈月にはない。

 人によっては、臆病だとそしるだろうか。

 しかし、身についた事なかれ主義はとてもやさしく居心地がよく、奈月の手足をからめとる。

 近寄る気がないなら、見なければいいのに、気づけば目で追っているのだから情けなくもなる。


(ごめんね)

 正面きって謝ることなど、この先もないだろう。

 正直であることが美徳だとは思わない。

(僕は身勝手だ)

 自分の視線を、彼女に気取られたくもない。

 放課後の雑然とした空気をぬって、佐々倉 菜々が郁に近づき、声をかける。

 奈月は視線をひきはがした。

 同じ服など、着たくはなかった。


 やがて郁の指示で教室に残っていたメンバーはゆるやかな車座になり、各自ボタンを選んだ。

「好きなところに好きなようにつけてね。持って帰ってやってもいいけど、時間があるならせっかくだから、ここで皆でつけてしまいましょう」

 ボタンを受け取り、西野の向かいに座った時点で気がついた。

「あ。針と糸持ってないや」

 西野が鞄からソーイングセットを取り出し、無造作に放る。


「おう。忘れるやついると思った。貸してやるよ」

「孝っていつもこういうの持ってるよね」

「まーなー」

 針と糸を手に取り、手間取っていると、西野は既に糸が通してある針を奈月に渡す。

「へたくそめ」

「糸通しなしで通せる孝がすごいよ」

「舐めりゃいいんだよ」

「無理でしょ」


 西野が奈月の眼鏡に目を向ける。

「おまえ目ぇ悪いもんな」

「うん、関係ないからね、それ」

 クラスでも、眼鏡を着用している生徒は少ない。

 ほとんどがコンタクトを使用するか矯正してしまう。

 だが、奈月は眼鏡の使い勝手のよさが気に入っている。


「うう」

 ていねいに玉結びまで終えているものを借りたというのに、さっそく指を針でついた。

「刺した?」

「刺した」

「へっ」

 楽しげに西野が笑う。

「おまえほんと不器用」

 そういう西野はあっという間にひとつめのボタンをつけ終えて、ふたつめにとりかかっている。


「あっれー、西野はやいね。手際よくなぁい?」

 うろうろしていた菜々が目をとめ、やってきた。

「あれ、本当だ。西野くん、裁縫得意なんだね」

 つられて郁もこちらに足を向ける。

(うわ、かんべんしてよ)

 無表情をとりつくろって、奈月はボタンに集中する。


「俺、運動やってるからなー。ほつれたりとかするだろ」

「へー。そういうの自分で縫うんだ。えっらーい」

「あったりまえだろ。ボタンもよく飛ぶしなー」

「なるほどねー」

(……穴が小さい)

 こんなもの、ボタンの穴に何度か針を往復させるだけだろう。

 そう思うのにままならなくて、眉間にぎゅっとシワが寄る。


 ふと、耳にひびくかろやかな笑い声がして、おもてをあげた。

「篠山くんは苦手なんだね」

 郁が人当たりの良い笑みをうかべて奈月を見ていた。

「すごく真剣な顔してた」

「――そう。だめなんだ、細かい作業」


「器用そうな手をしてるのに」

「そうかな」

「うん。指が長くて、ピアノが弾けそうな手をしてる」

「弾けないよ。ぜんぜんだめ。あれって、右手と左手をべつべつに動かすでしょう。信じられないよね」

「そうだね。じつは私も弾けないの」


(う……わ)

 胸がよろこびにうちふるえる。

 笑顔を向けられてうれしい反面、いたたまれなさを感じた。

(まいったな、これは)

 思った以上に心を動かされる自分に気づく。

 ピアノなんて弾けなくても、郁の手はなめらかできれいだ。

 ついうっかり手を伸ばしてにぎってしまいそうな距離で、無防備に揺れている。


「よし、できたーっと」

 西野が声をあげて、糸をハサミで切り落とした。

「奈月はとうぜんまだだよな。よし、今やってる一個だけがんばれ。もう一個はやってやるから」

「やった」


「もう一回糸通したら、ボタンのまわりくるくる回して終わらせるんだぞ」

「なんかそれ、習った覚えがある」

「だろ」

「うん」

 にわかに空気が軽くなり、「がんばって」と、声をかけて郁が立ち去る。

「やっばい、あたしもつけちゃわないと」

 菜々も郁を追って席に着いた。


 西野の指導のもと、無事にボタンはつけ終わり、帰宅の途についたのは、それからまもなくのことだった。

「お。沙也だ」

 めずらしく一緒に帰宅することになった西野と地下鉄を降りると、駅前のコンビニから出て来た沙也とでくわした。


「よー。何買った?」

「消しゴム。今帰り? はやいね」

「ユニフォームつくってきた。すげえちょろいの」

「そう。奈月も?」

「僕のは半分以上孝がやったけど」

「とっとと終わらせて帰りたかったからさ」

「そう」

「沙也も着れば? 染めたTシャツ。他の競技に出るヤツも、着るって言ってるやついたし」

「私はいいわ。体操服で十分だもの」

「つれねえなー」


「奈月」

「うん?」

「練習の約束覚えてる?」

「卓球の? 覚えてるよ」

「なにおまえら、二人で練習すんの? 俺も混ざりたいわそれ」

「いいんじゃない」

「土曜日よ。好きにしたら」

「おう。最近運動不足でさ」

「部活引退すると違う?」

「まーな。ランニングとかするけどよ、やっぱりな」

 西野が髪をかき乱す。


 沙也はそんな西野から奈月へと視線を転じる。

「ねえ奈月、ひとつ相談があるのだけど」

「なんだい」

 奈月はわずかに気を引き締めた。

 沙也のお願いは要注意だ。何が飛び出るか予測がつかない。


「秋休みが終わったら、文化祭があるでしょう」

「あるね。それで?」

「やりたいことがあるの」

「ほう」

 興味をひかれた様子で、西野が前屈みになる。

「沙也が積極的なのは珍しいな。なにやりたいんだよ」


「音楽」

「音楽?」

 たんたんと、沙也は話す。

「演奏がしたいの。リズムにのって、なにかがしたい」

(なるほど?)

「音楽に興味があるんだね」

「あるわ。最近は特にね」


「ジャズとか?」

「クラシックも」

「ピアノの連弾とか?」

「ええ、そうね。ブルースもすてきだわ」

「学祭で?」

「そうよ」

「誰かに聴いてほしいの?」

 訊ねると、沙也はゆるゆると首を振った。

「いいえ。共有したいのよ」


 奈月は口を閉ざした。

 沙也はここしばらく、知り合いのピアニストにのめりこんでいるのだ。

 実る見込みのない片思いが、音楽への興味に形を変えたのだろうか。

(しかしまあ)

「音楽なあ。ちょいと考えないと、難しいよな」

 西野が顎をつまんでうなる。

「三年の学祭じゃあ、手をかけたくないってヤツが多いだろうし」


「けど、要望が出るのはクラス委員としてはありがたいんじゃないの。きっと誰もアイディア出さないで、十和田さんあたりが苦労しそうだよ」

 沙也がひとつうなずいた。

「郁にはまだ話してない。球技大会で忙しそうだから」

「俺、べつに忙しくないけどな」

「孝は郁に甘えてるでしょう。郁は自分から先回りして手を回してるもの」

「へっ」

 西野がそっぽを向いて鼻をならす。

「好きこのんで苦労をしょいこむヤツのことなんか、今はいいだろ」


「しかしまあ、演奏は練習が大変だけど、合唱ならそうでもない……かな」

「えーっ、俺、歌なんか歌いたくねえよ」

「ああ」

(合わせるの下手だもんね)

「ドラム叩くんだったらやってもいいよな」

「楽器は全員に行き渡らないような。……いっそ創作音楽にして、手作りの太鼓でも叩く?」

 奈月が言うと、沙也がぱっと顔をあげた。


「私、曲を作ってみたいの」

「曲ぅ?」

 西野が目を丸くする。

「アレンジ。してみたい。そうね、よさこいのように」

「あー、なるほどな」

 西野が腿をたたく。

「だったらほらあいつ! よさこいやってるヤツ、クラスにいるだろ」

「そうなの?」

「そうなの! 沙也がソーラン節をアレンジして、そいつが振り付けして、余ったやつはなんか適当に楽器叩くようにすりゃいいんじゃねえ?」


「まとめる人は大変だね」

「ああ沙也おまえ、実行委員やれよ。クラスのやつらに話通ったら。手伝うから俺」

 いたって素直に、沙也は首をたてに振った。

「民謡調べて、考えてみる」

「おう、そうしろそうしろ」

 気安く西野は沙也の背中をどやしつける。


「俺も奈月もつきあうから。がんばれよ」

「ありがとう」

 沙也は二人の顔を順に見つめて、礼をのべた。

(しかたないなあ)

「無難に屋台なんかやるより、面白そうだよね」

 西野は沙也に力を貸したいだけだろうが、奈月はけっこう、音楽が好きだ。

「手伝うよ」

 うなずきかけると、めずらしく沙也は、満面の笑顔をみせた。

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