第三話
「もう、やっと終わったよ。気晴らしして帰ろ」
補習授業を終え、慌ただしく帰り支度をする生徒の列にのまれて、菜々と郁は教室をあとにした。
「初日から一日長かったねー。最後の締めがグラマーだなんて、何時間戸山ちゃんの顔見せるつもりよ」
担任の戸山はグラマーの教師だ。
リーダー、グラマー、英会話と、英語の授業はみっつに分かれる。
「あっ、やだ」
昇降口へ向かう道すがら、菜々が郁のそでを引く。
「ミオと加藤だ。ねえ、やっぱりまだつきあってるんだと思う?」
廊下の端で、立ち話をしている男女がいる。
ひとりは同じクラスの美桜だとわかるが、もう一方の背の高い男子生徒に見覚えはない。
「誰?」
問うと、菜々は目をむいた。
「うっそ! 郁ったら知らないの? ちょっとどうなってんのよ」
「どうって、だって同じクラスになったことのない人だし」
「だからってさあ。あーもう、これだから郁ってばほっとけないんだよね」
(なんと)
放っておけないと評価されるのは初めてだ。
「加藤はバスケ部のキャプテンだよ。背が高くてさわやかだから、けっこう女子に人気あるんだよ」
「ふうん」
「ほら! ほぉら、その気のない態度! ぜんぜん興味ないんでしょう」
「知らない人だからねえ」
「問題は、加藤じゃなくてミオのほう。ほら見てよあの格好。スカート短すぎると思わない?」
「ん、まあ」
露出が多くて華やかな格好だ。スタイルが良いからか、不思議といやらしさを感じさせずに人目をひく。
「着こなし上手だね。一見の価値があるよ」
「なにとぼけたこと言ってんのよ。あの女はね、おそろしいよ。自分をプロデュースすることを知ってるんだもん。あの調子で運動部の男子を根こそぎ手玉にとってるんだよ」
菜々の口調は荒々しいが、美桜ほどの堂々とした美人だったら、異性にもてるのも無理はないと郁は思う。
「根こそぎは言い過ぎにしても、まあ、きれいだよね。小島さん」
夏休み中に、眼鏡店で接触しそうになったときのことを思い出す。
しっかりと眺める余裕はなかったけれど、センスがよくて、素人ばなれした存在感を発していたのは確かだ。
(髪もきれいでうらやましいな)
長い髪を入念に手入れするのは、どれだけの手間がかかることだろう。
美容に手をかける意欲が維持できる、メンタルの強さはたいしたものだ。
(少しこわいけど)
信念がありそうな人の前に立つのは、気後れする。
自分が味気ない人間だとわかっている場合には特にだ。
「加藤くんっていうひとは、自分に自信があるんだね」
そうでなければ、美桜と並んで立つことはできないだろうに。
(それとも、男子はそういうところってあまり気にならないのかな)
自分が試されているような心地の悪さを感じることはないのだろうか。
「男はみんな、即物的なんだよ。ミオを見る目のやに下がってることといったら。もう、情けないったらないよ。それをわかってて増長させるミオはなんなのってこと。ほんと、風紀が乱れるからやめてほしいんだよね」
菜々が美桜をあまりよく思っていないのは前からだ。
郁には、是非を判断するほどの接点が美桜との間にはない。
「あれであたしより成績いいから、余計に腹立つのよー!」
菜々が押し殺した声で叫んだ。
「まあまあ。次のテストでまた頑張ろうよ。もちろん今の時期だと、他の人も頑張ってるから結果は出にくいかもしれないけど、でも菜々も、志望校は合格圏内にいるんでしょ」
「べつに自分の心配してるわけじゃないけど。あーあ、郁みたいにわかりやすい真面目っ子が成績いいのはいいんだよ。たださ、なんでも手に入れちゃうミオはずるいってこと」
「要領のいい人っていうのはいるもんね」
「はー。とにかく、ちょくちょく男を取っ替え引っ替えするのだけはやめてほしいんだぁ。こっちにはお下がりしか回ってこないんだよ。ひどい話だよねー」
「ふうん、小島さんと菜々の好みは似通ってるってことかもね」
「そうなのかなぁ。なんかミオは、望んだものは欠かさず手に入れてるように見えちゃうの。足も長いし、おしりの形もきれいだし、歯並びだって完璧じゃない。ほんと、なんなのって思う」
「まあでも、球技大会では同じチームになったんだし、仲良くやろうよ」
菜々も美桜も、そして郁も、バレーに参加することになっている。
「あたし、ミオはテニスに行くと思ったんだけどなあ」
たしかに似合いそうではある。
「あっ、そうだ、ねえねえ郁」
「なあに?」
「他の子とも話してたんだけどさ、せっかくチーム組んでやるんだから、おそろいのユニフォーム用意したくない?」
「体操服じゃなくてってこと?」
「そうそう。そんなすごいの作ろうっていうんじゃなくて、同じTシャツ着るとか、おそろいのシュシュつけるとか、そういうの」
「えっと、あまり身につけて恥ずかしいものでなければいいと思うけど」
「連帯感って大事じゃない。楽しいとテンション上がるしさ、いいよね!」
「じゃあ次の話し合いのときに相談してみる?」
「うんうん! みんなの負担にならないレベルで考えるから。やろうよね」
――そんなわけで、菜々とふたりで帰りに寄った駅ビルで、ヘアアクセサリーをさんざん眺め回したあとに、手芸用品店も見ていこうという流れになった。
「たとえやっすい無地の服でも、一手間加えるとかわいくなるんだよ」
店内に陳列されるレースやアイロンプリントを手にとって、菜々はひっきりなしに喋っている。
「このラメのラインかわいくなぁい? 裾につけたらどうかな。それとも、……ほら、これ、このお花のブローチかわいいね。手作りかあ」
「さすがに作ってる時間はないね」
「だよねー。あー、悩む! どれもかわいいし、んー、でもあんまり高くつくのもなあ」
「去年の宿泊学習で、染め物をやったよね。あのとき染めたTシャツを使うのは?」
「おお?」
「それなりにおそろいっぽくはならない?」
「なる……かも!」
菜々の瞳がきらきら輝く。
「そしたら、ちょっとロゴを入れるとか、ピンをつけるとか。ああでも、和風っぽさがあったほうがいいかな」
「でも思い出の品だからね、そのままの形でとっておきたい人もいるんじゃない」
「うー、そっかあ。じゃあじゃあ、じゃあね、……郁!」
菜々の声に喜色がにじむ。
「見てあれ! 数字のボタン!」
駆け寄る菜々について行くと、大小とりどりの、数字をモチーフにしたボタンが並んでいた。
「色もしぶくてかわいーよー!」
薄紫や深緑、浅黄といった色のボタンは、手染めの生地にも合いそうだ。
「ボタンをつけるくらいだったら、簡単でいいかもね。ふたつ並べてクラス名とか」
ちなみに郁が在籍しているのは三年四組だ。
おおぶりの三と四のボタンを手に取り、胸元に当ててみる。
「かっ……」
菜々が息をのんだ。
「かわいい……っ」
「そう?」
「かわいい! それいい! あっ、でもねでもね、大きさはふぞろいのほうがいいかも」
「じゃあ、学年の方を小さくしようか」
「うんうん。ああ、いいね。もうこれで決まりでいい感じ」
「みんなに相談してみないとね」
「うん。もう、今きいちゃう」
菜々は端末を取り出して、めまぐるしく文章を打ち始めた。
その隙に、郁は店員に声をかけて、ボタンのカタログがないかどうか確認をした。
あいにくカタログは存在しなかったものの、メーカーのURLを教えてもらう。商品の写真や在庫の状況もそちらで確認できるそうだ。
「ありがとうございます」
礼を述べて菜々のところに戻ると、既に四人中三人から返信があったという。
「好感触だよ。賛成だって」
「じゃあ、ここを見ておいてもらおうか」
教わったばかりのアドレスを添えて、再度送信してもらう。
「みんなの連絡先なんて、よく知ってたね」
「そりゃあね、なにかと交換する機会もあるでしょうよ」
「私、ないんだけど……」
一緒に作業をこなすことも多い、副委員長の西野の連絡先ですら知らないのだ。
「郁はメール嫌いでしょ」
「そんなことないよ」
「うっそだぁ。だっていっつも文面めちゃくちゃ短いじゃない。だからあたし、郁には必要最低限しか送らないようにしてるんだから」
「えっ」
やりとりを好いていないと思われていることよりも、彼女が遠慮していると知ったことのほうが驚きだった。
なにせ、郁がやりとりをする大半が、菜々とのものなのである。
「えってなによ。もしかして、もっと普通に送ってもよかった?」
頻度が増えることを想像して、郁は力なく首を振った。
「いえ、ぜひ現状維持でおねがいします」
適切な気遣いなのかもしれなかった。
「月末に球技大会があるの。今日はクラスのみんなで出る種目を決めて、私はバレーに出ることになったんだよ」
父と二人での夕飯だ。
ダイニングテーブルに並ぶのは、ごはんに味噌汁、焼き魚に煮物といった献立だ。
父親の俊司は晩酌をする人ではないので、アルコールのたぐいは料理酒ていどしか家にはない。
代わりに、俊司の好物である梅干しは、常備するようにしている。
「バレーか。サーブは決められるのか」
「練習しないといけないだろうね」
「受験生だからな。突き指に気をつけなさい」
「うん」
どちらも口数の多いほうではないから、会話はあまりはずまないけれど、学校の様子などはなるべくきちんと伝えるように心がけている。
「休み明けでどうかと思ったけど、三年だからね。みんな落ち着いたものだったよ。もっと浮き足立つ生徒もいるんだろうと思っていたのに、受験を前にしていると、長期休みもあまり関係がないみたい」
「がんばりどころだからな」
「そうだよね。私も成績を落とさないように気合いをいれなきゃ」
俊司は郁に目を向けると、淡々とした声音で言った。
「根を詰めすぎないようにな。自分のペースを崩さなければ、お前は大丈夫だ」
「うん。そうだね」
話題が尽きれば会話は途切れる。
あとは無言で食事が進むが、そこに居心地の悪さは感じられない。
あたりまえにあるこの時間を、崩すようなことはしてはいけないと、身の引き締まる思いがするだけだ。
「ごちそうさまでした」
平日は、郁が食事の支度と後片付けをするすることになっている。
「お父さん、はやく休んだほうがいいよ。少し疲れた顔をしてる」
「そうか」
席を立ち、自室へ戻る父の背中を見る。
(しばらくは、消化のよいものを作ったほうがいいかな)
夏場に出張が続いて、疲れがたまっているのだろう。
(残すし)
煮物は食べたが、皿に魚が八割方残っている。
(夏バテにきくメニューを、少し調べてみようかな)
学校の休み時間や登下校中に調べれば、学業のさまたげになることもない。
(私も、ちょっぴり胃が重たい……)
母が他界して、父と二人で暮らすようになって以降、あの人が弱音をはくのを見たことがない。
郁もそんな姿は見たくはないし、同時に自分のそんな姿を見せるのもまた嫌だった。
(体調を崩すわけにはいかないよね)
体調管理ができてないと思われる。
未熟な自分を露呈し、心配をかけてしまっては、父の負担を増やしてしまう。
(今日は私もはやく寝よう)
受験勉強は早朝に行うことにしているが、学校の課題はその日のうちに済ませておかないと気が休まらない。
(宿題をやって、お風呂にはいって、……あと、なにかやることあったっけ)
ふと、自転車で夜道を走りたくなる。
(ん、だめ)
深夜の徘徊は厳禁だ。
けれどあの日は心地が良かった。
男の身体で、ペダルをこいだときのことを思いおこす。
夜の川辺には、すがすがしい朝の空気とは異なる、やわらかさがあった。
風はいつもより、いたわりに満ちていた。
(いつかまた、乗りたいな)
しかしまだ先の話だ。
もっとしっかりできたなら。
誰にも心配をかけないくらい、自立した生活がおくれるようになってから、そうしたら。
それまでは、健康的に健全に、朝に乗るのがいいだろう。
――とおく、記憶をかすめるように、低い歌声がよみがえる。
(あのひとも、元気でやっているのかな)
風をはらんだ歌声は、今思うと、夜の空気にどこか似ていた。
(香奈さん)
口に出すことのなくなった名前より、笑顔より、歌声ばかりが焼き付いている。
目を閉じて、ゆったりと流れる旋律によいしれた。