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ホルモンバランス10080  作者: 瀬野とうこ
第一章 : 映画には主題歌がある
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第一話

 これでようやく、自分とは異なる誰かになれる。

 そのことに、なぐさめを感じた。


 差し迫った問題があるわけでも、大きな不満があるわけでもない。ただ毎日が息苦しくて、ひとときでいいから殻を脱ぎさり、気ままにふるまってみたかった。

 それはべつに、セックスでもスポーツでも、または授業のエスケープでも、なんでも構わない。

 普段の自分がけして選択しないような、ラフなスタイルでいられるなら、――そのために自分の身体が枷になるというなら、形からとりつくろうのもいい気がしたのだ。


 日々をそうして、重くまとわりつくしがらみを捨てて自由にはばたくことを夢見ていた十八の夏に、チャンスはおとずれた。

 運がよかった。日月製薬のキャンペーンが打ち出されたのは、郁が十八の誕生日を迎えて間もなくのことだった。

 応募資格は成人していること。いたってスタンダードな規格だ。


 どれほどの倍率だったのかは知るすべもない。なぜ自分が選ばれたのかもわからない。

 ともかく、郁は当選した。

 ここに晴れて一週間、男へと身体を作り替えることが可能となったのだ。



 日月製薬のヒット商品である『Fジェンド』は、性転換薬だ。

 オペを受けると、異性の身体に変体できる。

 郁自身はさほど性別にはこだわりがない。

 クラスの陸上部の男子の駆けっぷりを見てうらやましさを覚えることはあるけれど、とりたてて男になりたいと感じたことはないし、自分の見た目も嫌いではない。


 自身が恵まれていることはわかっている。

 運動はそこそこ得意だし、学業で壁に当たったこともない。人見知りもしない。教師の覚えもめでたく、また、友人にも恵まれている。

 それでも、息苦しさはぬぐえなかった。

 まとわりつく空気は重く、もっと身軽になりたいのに、行き詰まる原因を作っているのは、この自分自身なのだ。






 オペは意識のない間にあっけなく終わった。

 日月製薬のオフィスの四階にラボはあった。

 オフィス街からわずかに逸れた、大きな公園に面しての立地である。窓からの眺めがやけに良かったのを覚えている。


 郁がしたことといえば、健康診断をうけて、契約書にサインをして、ポットに入ってぐっすりと眠っただけだ。

 目覚めたときには、男の身体を手に入れていた。

 正直なところ、あっけなさにとまどって、実感などはかけらもわかずにいた。


「では、一週間後の正午に必ずいらしてください」

 前時代的な白衣をまとった担当者に、注意事項が記載してあるデータと、体調管理用の医療器具を手渡された。

「定時のチェックも欠かさないようにお願いします」

「わかりました」


 返事をしたとき、違和感におののいた。

 自分の声とは明らかに異なる響きのためだ。

 つぶさに確認がしたくて、郁は手続きを手早く済ますと、あらかじめ用意しておいた服に着替えてオフィスを飛び出した。


 足どりが軽かった。気のせいだとは思えない。身体が軽い。

 ぺたんこになったシャツの胸元に、幾度となく目を向ける。

 地下鉄に飛び乗って足を止めると、ようやく胸がどきどきしていることに気がついた。


(今頃緊張してきたの?)

 自分のにぶさに苦笑がもれる。

 郁はキャップを目深にかぶって、人目を避けた。


 ラボの鏡でさっと確認はしたけれど、自信がない。ぜったいどこか、おかしい気がする。

 自宅のマンションまでの道のりがやけに長く感じられた。

 玄関ドアの解錠の認証にかかる時間も、いつもならば一瞬なのに、このときばかりは鼓動みっつぶん余分にかかった。


「ただいま」

 誰もいない自宅にすべりこみ、自室の姿見へ飛びついた。

 自分がどんな姿をしているのか、これでゆっくり確認できる。

 男になるにあたって、肩までざっくり髪を切った。なるべく意識を切り替えたくて、髪も染めたし、服も新調した。

 性別が異なるだけで、印象は随分と変わるものだろうか。それとも、双子のようにそっくりだろうか。――そんな意識に急かされて、まじまじと鏡を見つめる。

「う……ん、うん?」


 ぱっと心を占めたのは、またしても違和感だった。

 見慣れた眼差しが、鏡ごしに自分を見つめる。

 まぎれもなく自分の面差しがあるものの、その瞳はどこか不安げだ。

 見知った人物であるのに、まるで見知らぬ人のようでもある。


 脳の処理が追いつかず、混乱しているのかもしれない。

 頭の中を思考がうずまき、視線も意識も定まろうとはしなかった。

「けど、もしかして、……微妙?」

 口からぽろりとこぼれ出た言葉に、ぴんとくる。郁は鏡から一歩離れて、うなずいた。


 どうも、想像していた男性体とは異なるようだ。

 鏡に映る自分の姿は、どこか幼い。

「中学生みたい」

 成人だって果たしたというのに、そんなことがあるだろうか。

 髪型のせいか、もしくは慣れない服装のせいかと、考えを巡らせるうちに思い至った。

「あ。……そうか」


 身長のせいだ。男にしては、背が低い。元から郁は、女子の中でも平均にわずかに届かないていどしかないのだ。

「あー、ああ。なるほどね」

 あとはこの、ていねいに整えられた眉もいけない。

 表情や姿勢も男らしさに欠けていて、幼さに拍車をかけている。


「まいったな」

 もっとこう、クールな男前になるのだろうと身勝手な想像をしていた。

 性別をいじったところで元は自分でしかないというのに、なにを夢見ていたのやら。


 顔立ちは悪くない。目つきの悪さが際立って見えるのは、軽薄そうな髪型のせいだろうか。

 心許なさげな表情とあいまって、多感な時期の少年に見える。

 幾分反抗的で、夜の繁華街を歩いていたら補導されそうな、扱いづらそうな少年。

 それが今の郁だ。


「不良少年、か」

 考えようによっては、それもありだ。

 要は自分とかけ離れた存在になってみたかったのだし、大人びていようが幼かろうが、そこは問題ではない。日常を忘れられれば、それでいいのだ。


(訓練が必要ね)

 今のままでは、とても人前には出られない。

 準備はぬかりなくやっておかないと、落ち着かなくてしかたがない。

 自分のそういう面がうっとうしくもあるけれど、やみくもに外に出て行くのは怖かった。

「立ち居振る舞いと、表情と、話し方と。練習しなくちゃ」


 クラスでも人気のある男子というのは、えてして見た目はさほど整ってはいないものだ。

 むしろ、あけっぴろげな性格とか、人なつこい素振りや軽妙な会話などにウェイトが置かれている。

 練習とか努力とか、そういう地道な行いは郁の得意分野だ。


(まずは歩き方かな)

 歩幅を大きくとってみて、鏡の前を行ったり来たりする。

 ダンススクールにあるような、鏡張りの壁がほしかった。

 少し姿勢をゆるめて猫背気味になったほうが、より少年ぽさが出るかもしれない。

 だらりと腕の力を抜いて、身体を左右に揺らしたりもする。やりすぎると品がなくなるとすぐにわかった。何事も適当なのがいい。


「僕、おれ、――俺、かな」

 名前まで変える必要はないと思う。中性的な名前だし、どうせ誰かと知り合うにしても、一週間だけのつきあいだ。

 普段の自分がしないような事なら、なんでもやってみたかった。

 羽目を外すというのは、郁にとっては特別な体験だ。


 夜遊びをしたり、ケンカをしたり、ナンパをしたり――。

 具体的にどうすればいいのかはわからないけれど、漠然とあこがれてはいる。

 まあ、ケンカなどはできる気がしないが、女の子に声をかけるのは簡単だ。

 郁もよく見知らぬ人に道をたずねられるし、同じ感覚で声をかけて、外見なんかを褒めてやればいいのだろう。


「人好きのする笑顔になりますように」

 念じて、表情を作る練習をする。

 子どもっぽい笑顔も、優等生じみた笑顔もできる。

(だけど、ああ、少しくやしいな)


 大人っぽい表情や、色気のにじむ仕草なんかは、手が届かない。

(元々の私にそなわっていない素養は引き出せないってことね)

「かげのある大人の男になってみたかったなあ」

 もしくは、ワイルドな肉体派か。野生児のように、本能全開で生きてみたら、どんな心地がするものだろう。

「ないものねだりをしても、しかたがないけど」

 今ある身体で、一週間。何ができるか楽しみだった。






 翌朝の目覚めは唐突で、しかも劇的だった。

「……う、わっ」

 気疲れのせいか、下着姿でベッドに倒れ込んだのを覚えている。

 身体を起こし、鏡に映る自分の姿に驚いた。ひといきに目が覚めたのは、それだけではない。

 郁は息をのみ、己の股間をまじまじと見つめた。


(これは、世に言う、……あれかな)

 視線が釘付けになり、顔が情けなく歪むのがわかった。

(ど、どうしよう)

 下着を内から押し上げているものがある。

 泣きそうだった。


「いや、待って。待ってちょうだい」

 落ち着こうと、声に出した。

「そう。これはきっと、チャンスなんだから。考えてみて。そうよ」

 深呼吸をくりかえし、意図的にメンタルを前向きなものへと誘導する。

(だってほら、知りたいって思っていたじゃない)


 よく街頭アンケートなどで、『一日だけ異性になるとしたら、どんなことがしたいですか』という、意図のよくわからない設問がある。

 それに対する街の人の回答はさまざまだが、目にするたびに郁はおためごかしが過ぎると感じていたのだ。

(そんなの、答えは決まっているもの)

 したいことなど決まっている。己の性では得ることのできない、未知の快感を得てみたい。そのはずだ。


 実際こうして異性の身体を手にした今、さすがに女性と寝てみたいと思い切るだけの度胸はないが、まあ少し、触ってみるくらいはしてみてもいいのではないだろうか。

(主張してるし。それに、自分の身体なのだし)

 喉が鳴った。緊張に顔がこわばる。

(うう、どうしよう……)

「やっぱりだめ!」

 どさりとベッドに倒れ込んだ。


「無理。無理だわ、できない」

(すくなくとも、今日は無理。明日とか、……まだ猶予があるもの)

「うう、……こわい」

 身体が意志とは別の理屈で形状を変化させるなんて、恐怖だ。

 クラスの男子をはじめとして、世の男性はこんな得体の知れないものと共に人生を歩んでいかなくてはならないのだ。

 感嘆のため息がもれた。


「なんだか、朝から疲れちゃったな。シャワー浴びよう」

 起きだし、バスルームへ向かって、下着を脱いだ。

 見るだけならどうということもない。


(そういえば)

 『Fジェンド』の被験者は、性行為が可能だという。

 生殖に関してはまた別のプロセスが必要だというが、行為自体は行えるのだとか。

 男性体になっても精子が生成されるわけではないというから、それではこの股間でぎこちなく頭をもたげるコレからは何が排出されるのか、疑問ではある。

(まあ、いつか。いつかね)

 頭を振って、ドアをくぐった。

 シャワーを浴びれば落ち着くだろう。そう願う。

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