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  杜人閑話……鴉追憶之一『自己騙りの黒』




山間の小さな農村、そこから少しだけまた山へ歩を進めた所。

険しきへの入り口にこじんまりとした一軒家がある。


そこに住む老人と女性とについて村人に尋ねても、何も語りはしないだろう。


件の老人は冬を越すに必要な薪や毛皮を獲る猟師であり、

女性は定期的に村へ下りてきては皆を守る、閉鎖環境に不可欠な薬師。


それ以上の情報は必要ではなかった。


知りすぎる事、探りすぎる事、疑いすぎる事で

失われてしまう益があると彼等は確信しているからだ。


よもや歳取らぬ仙女を娶った男などと真実を外に話せばどうなる事か。

村人は二人に感謝しているし、同時にあまり触れすぎないのが礼儀だとも思っている。


余所者であり外面は距離を取っているが、内実は身内同然であったのだから。

ただ、永くこの村に居てくれるよう行き過ぎぬ親切を心がけるくらいである。




しかし、どうやらそれも終わりを告げそうだった。


老人はもう随分な年寄りで、

先日に村に薪を売りに来た時に倒れてしまったのだ。


慌てて看病したものの、遂には『その時』が間近であろうと誰もが理解した。


村長である直衛門は二人がこの村に来てからの40年を思い出す。




実に仲睦まじい夫婦であった。


子宝にも恵まれ、男と女の一人ずつ。

そうして私の息子とも悪戯をして回っていたものだ。


良く学び、算学に長けたからと都へ奉公に行かせていたが大成しただろうか。

手紙は出したそうだが、願わくば今この時にでも村へ帰ってきて欲しい。


でなければ、あまりにも……。


村長である自身も数え六十と長く生きているが、ああどうして。


老い衰えていく夫に嘆き悲しむ若く美しいままの妻。


人と、人ならざる者の夫婦が迎える結末とは、

時間の速さに流され、斯くも無残なものでしかないのか。




直衛門は気を重くしながら見舞いの品を持って老人の家に向かっていると

遠くからでもハッとするほどに美しい、濡れ羽色の黒髪が戸口の外で泣いていた。




「村の皆に代わって儂が見舞いだ。

 どうだね奥さん、旦那さんの加減は……」




直衛門の声に涙を拭って彼女が顔を上げる。

艶やかな黒糸、惹きつけられそうな美貌、潤んだ光を返す紅玉の瞳。


……しかし、傍目にも分かる無理やりに作った愛想顔。


それが今にも崩れて壊れそうな儚さを帯びて、

まるで消える前の蝋燭に似て哀しい輝きにしか見えなかった。




「あぁ、直衛門さん、うちの人なら『大丈夫』です。

 あと『十年でも二十年でも』きっと、そう、すぐに『良く』なります」




長い付き合いだ。

流石にこの女性が自分に吐いた嘘程度、すぐ分かる。


そして、それが嘘のままであって欲しいと、認めたくない事実なのだと、

彼女自身も理解していて……それでも納得できない心が嘘を吐かせている。





「そうかい、そうかい、そりゃ良かったぜ。

 村の連中も旦那さんの心配をしてっからよ、良い知らせだな」




この嘘を暴いてはいけないのだ。

もし軽く押せばそのまま倒れてしまいそうなくらいに彼女は理性の平衡を失っている。


もう、この人は嘘に頼らねば自分を保てないほどに……。




「そいでよ、家の母さんから薬の御代に味噌もってきた。

 んで林の婆さんが精つけろってよぉ、絞めた鳥、あと卵もある。

 男連中が戦で飲むもんがおらんからな、奴らの女房に酒も貰うてきとる」




背負ってきた見舞いの品を降ろす口実で土間に入る。




身体を動かしていれば気が紛れるのか、

そうしている内は彼女はまだ大丈夫なようだった。


手際良くそれぞれの物品をしまいなおす姿は元気な時のそれ。


……とはいえど相当に参っているのも本当に違いない。


夫を誰の目にも触れさせないとばかりに、

いつか来た時には無かった簡素な仕切りがしてある。


すぐそこに老人が寝ているのだろう、

長く深い息遣いから分かる気配を、背中を見せる彼女に黙ってこっそりと覗いた。


……顔色が悪い。


蒼白として頬も痩せこけていた。

布団から覗いた腕と力無い指先も、随分と痩せ衰えたように見える。




これに強い臨視感を覚えた。


ああ、これは十年も昔に父が無くなる寸前に見せた、そう、死に臨む表情だ







バレない内に仕切りと姿勢を正そうとして、

後ろを振り返った直衛門を、紅い瞳が静かに見つめていた。




視線が合う。




見てはいけないものを見てしまった恐怖と罪悪感とが咽喉を振るわせる。


深い深い水底に似て吸い込まれる虚ろ。

鮮血色の瞳がただじぃっとこちらを見つめていた。




「直衛門さん、貴方から見て、夫はどれくらい保つと思いますか」




真剣と言うよりも鬼気迫る圧力を、その静かな言葉から受けた。




「あ~、すぐ治るさ、こんな……」



「直衛門さん」



「……っ」




彼女を壊さぬよう、あえて誤魔化しに走った。

不誠実だと言われても、それでも良かった。


けれど、彼女は偽りや慰めではない答えを求めていた。


……はたして良いのだろうか。

彼女もいつかは自分の嘘を克服せねばならないだろう時がくる。


それは今でなくても良いのではなかろうか。


悲しみの時まで引き延ばそうとも、押し寄せる痛みが変わるわけではない。

むしろ今すぐ現実を見、覚悟を決めろと告げられた方がよっぽど辛いのではなかろうか。




自身も色々と喪ってきた。


祖父母、父母、それに村長となってからは村民の死も身内の葬儀も同じ悲しみになった。

普段は散々に言ってくる女房でも死んだらきっと泣く、泣かずにはおれまい。

死に別れる痛みはもう十分に見た、十分に……。




だから人の死の痛みは存分に分かっている。


しかし、人外にとって愛した人間の死はどう感じるものなのか。

何を思い、何に憤り、何が無念で、悲しむのだろうか。


彼女は短い人間の生に納得できるのだろうか。




「奥さん、正直に言うぜ。

 旦那さんはそう長くねえ、奥さんも分かってる事だがね」



「……」



「でも嘘で自分を誤魔化そうとすんのが悪いとは言わん。


 儂だって親父とお母ちゃんが死んだ時は酷いもんだった。

 爺さんが死んだ時はまだガキすぎてよう分からんかったがな。

 

 理解と納得は別物だからよぉ、

 嘘でも何でも良い、受け止められるまでそういうもんも要るさな」



「……」



「儂は無理矢理に元気出して畑に逃げた。

 じゃないと生活できなくなっちまうからな、情けねえがよ。

 けどよ、そうしてる内にいつか受け止められるようになる」



「……それは非常にありきたりな、時間が解決してくれる、と云うものですか」



「時間もあるかもしれねえ。

 けど、それだけでも断じてねえ」



「何だと言うんです」




黙り込んで暗く俯いていた彼女が顔を上げた。


おそらく、不安の正体は愛する者の死を受け止められるか、だけではない。

受け止めたその後に待っている空虚な時間に耐えられるのか、それもだと直衛門は踏んだ。


人外にどれほどの生が許されるのかは知らない。

しかし、この夫婦をみれば人間よりも永いのは分かる。


そうして考えれば、とてつもない遥かな旅路の中で、

ただの一瞬だけ交差したに過ぎないとさえ感じているやも分からない。


その一瞬が生んだ愛の凄まじい密度が、

固く強い愛ゆえ、二度とこの先に訪れない絶望だって想像できる。


人間を愛した人外の悩みは、到底人間には解決できない悩みなのだろう。


だからこそ、人間がどうやって乗り越えていくのか、行ったのか。

自分が父の死の先に苦しんだ答えが僅かでも彼女の助けになればと直衛門は口を開く。




「継いだもんに気付いたからだ」



「継いだもの……?」




それはきっと彼女には馴染みの無い考えに違いない。




「儂の全ては父と母から継いだもんで出来てる。

 身体も、畑も、村も、それは全部が誰かから継がれてきた大切なもんだ。

 

 金勘定のやり方だって、親父に叩き込まれたからできる。

 藁束を編むにしたって、お母ちゃんが居なきゃわからんかった。

 

 人間はちっぽけで、弱っちい生き物にすぎねえ。

 だけど、誰かに託して、繋いで、継いで、立ってる。

 

 親父が死んで、畑に逃げて……ようやく気付いた。

 鍬の振り方一つにも親父が生きてて、飯食う作法にお母ちゃんが居る」




人間はそうやって継ぎながら生きてきた。


喪う事は悲しい、けれど自分が確かに先人を繋いでいる。

だからこそ前を向いて受け止める事ができるようになる。


より多くを継いでもらえば、その人は永遠に誰かの中に生きているのだから。




「ま、これは儂の考えだからなぁ。

 人それぞれ受け止め方も誤魔化し方もあるさな。

 無理したら心が駄目になっちまうからよ。

 

 でも忘れないで欲しいのは、

 旦那さんから受け取ったもんが確かに奥さんの中にあるはずだぜってこった」




身近な者の生と死は誰にとっても難しい問題だ。




「旦那さんとは良く話しな。

 あと息子さんと娘さんも帰ってきてくれるんだろ。

 その準備もせにゃならんだろうからシャンとしな。

 

 立派になったらしいガキんちょ共も夫婦で継いだもんの一つだぜ。

 

 それじゃあ儂はもう帰るとするか。

 病人が居るってのに長々説教染みてすまんかったな。

 薬師に言う事じゃないが、養生させたってくれ」




直衛門は最後にそう言って夫婦の家を後にした。





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― 新着の感想 ―
十数年を経た今に読み返してもやはり良い作品でした。 閑話がまた増える日が来るといいなぁ
[一言] 面白かった。久しぶりに読み返しました。完結しているとも思えますが閑話で現在の神社の様子や鳴女達の様子をもっと読んでみたいです。
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