杜人閑話……騒乱裏之四『黄鶲と山男』
黄鶲と山彦が出逢って十日目の朝。
日は昇れどもまだ朝露の乾かぬ時間。
遠吠えが黄鶲と山彦の耳に届いた。
距離の概念を無視する、物理的な空気振動に因らない『縁』を伝う声。
そして、助けの『縁』を求める声が。
「……、今のは」
脚絆の紐を締めていた山彦が思わず手を止めて振り向くと
黄鶲は神妙な顔つきで南西の空に意識を集中させている。
柔らかな日常からは遠い、戦いを告げる表情。
「時が来たようですわね」
気圧されるほどに美しい横顔に、山彦は言葉を失った。
どこまでも透き通った声音には多くの物が込められているように思える。
それを覚悟、と簡単と言い表すのはあまりにも失礼だろう。
成さねばならぬ時が来た、と黄鶲はすらりと立ち上がる。
符の助けはいるが、既に彼女の体は行動に支障無い範囲まで回復していた。
本来なら一昨日にも山彦と別れ、帰還していても問題無いくらいに。
「私としたことが、久しぶりの羽休めに甘えすぎていました」
冗談混じりの軽口で微笑みながら、
今までありがとうございますと頭を下げる。
居候の出立は喜ぶべきことであり山彦に止める理由など無い。
在るべき場所にお互い帰っていくだけのはずだ。
しかし、山彦の胸は妙な空白感を覚えていた。
「待て……これも持っていけ」
いざ飛び立とうとする黄鶲を呼び止めて、最後の餞別。
それは無事への祈り、書き溜めた厄除け符。
黄鶲と『他人』を維持しながら干渉できる精一杯の線はそこだった。
これ以上の行動は深入りが過ぎてしまうだろう、と。
なのに、言葉を紡いでいた。
「他に手伝える事はないのか?」
山彦の口は本人を裏切って本心を晒した。
一度表に出てしまえば、始めからそうであったように思える。
彼女と自分はたった十日間を過ごした仲でしかない。
けれど、一人を選んでから、初めて十日間も他人と過ごせた。
胸の空白は、返せていない気持ちがあるからだ。
「山彦、気持ちはありがたいですがここからは……」
黄鶲はその申し出に少しだけ驚いたが、首を横に振る。
だが、言いよどんだ黄鶲の姿に山彦は温かな『黒』を見た。
それはつまり。
「……あるのだな。
お前の『縁を運べ』という役目の中に、
喜ばしいことに俺が手を貸せる余地があるのだな。
ならば遠慮せずに借りておけ。
勘違いするな、これはお前の道理だ。
『与えたのだから返される』のが自然なのだろう。
俺は倍返しされた恩の、利子を返さねばならんのだから」
未来永劫、消える事の無い一言一句が、黄鶲の魂に焼き付いた。
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今年の桜祭りは一段と賑やかであった。
何しろ主催する神がようやく妻を娶ったのだから。
半ば婚姻を結んでいるに等しい状態が、正式に婚姻となるまで実に三年掛かった。
騒乱の後処理や、見物したがった太陽神や、寸前で初心になる両神によって延びに延びたからだ。
その鬱憤を晴らすように杜人神に連なる者共は例年よりも騒がしく、
もう夜になるというのにやんや、やんやと上から下まで春を満喫している。
「……で、黄鶲、それからどうしたのです?」
祭りの喧騒から離れた夜桜の下、静かに酒杯を交わしながら
鶫鳴女は興味津々とばかりに次を促した。
微笑みながら何合目か分からない酒を煽り、黄鶲は続ける。
「そこからは貴女も知る通りですわ。
私の流儀にあんな堂々と則られたら『はい』と言うしかないもの。
伊勢の杜辺を旦那様にお任せをして、私は堺と京に飛んで……。
この不思議な『縁』のおかげで、最後の最後、全てを間に合わせられたのよ」
酔いが口を軽くしているのだろう、馴れ初めを語る彼女は恍惚としている。
親友の門出だと、珍しく酔うほど呑んでいたのが効いているようだ。
いつもならばこのように酒に呑まれたりはしないのだが、ここにも常春の気配があった。
杜人神の裏で流れた三年の月日は
黄鶲と山彦を『互いに与え、互いに返す』関係に変えた。
恩を返し、返される幸せの連鎖によって、対等の立場で交じり合う関係に。
そんな上機嫌の黄鶲による、色恋、思い出語り。
何かの参考にならないかな、と思いながら
普段の彼女からは聞きだす事の叶わないあれやこれやに鶫は耳を傾けていた。
「山彦さん、こちらに来られませんから
どういう人なのか詳しくは知りませんでしたけれど
聞けば聞くほどお似合いで、粋な男性ではないですか」
「それはもう、なにせ私が惚れた男ですから。
あの日、私は旦那様に完璧にやられてしまったのよ。
心の底から『負けた』と思ったわ。
同時に、本気で『惚れた』のもあの時ね。
だって、考えてもごらんなさいよ。
あんなに真っ直ぐ見つめられたらもう、
女なら誰だって参ってしまうに決まってるわ。
でも、本当に苦労したのはそれからかしら。
私が惚れていても旦那様がそうかは分からないでしょう。
あの人、殆ど顔や言葉に出してくださらないもの。
どうにか気に入って頂けるように、頑張ったわ。
恩返しだなんだと理由を付けては足繁く通ったものよ。
騒乱後の忙しい最中、我ながら良く時間を作れたと褒めてやりたいわね」
一瞬、黄鶲は月ではなく夜空の向こうを眺める仕草。
きっとその想いは遠い空の下にいる愛しい人へ注がれているに違いない、と鶫は思った。
黄鶲は杜人の地へ山彦を誘ったが断られている。
妖怪化生も多いので馴染むのではないか、と尋ねてみたが、
眼の性質上、お前以外の者と接するだけで精神的に疲れるので遠慮させてもらう、と。
杜人神系は『繋がり』を大事にしているのもあり、土地に合わないだろうとの事だ。
離れていて不安にならないのか鶫には不思議に思えたが、
黄鶲としては『お前以外』と特別扱いを受けているだけで幸せだった。
あの不器用な優しさを受けられるのが自分だけである、それが良いのだ。
「女はね、とことん惚れちゃうともう駄目なのよ。
口下手なところも、不満でさえ、全部愛しく思えるわ」
私がどれだけ幸せなのか教えてやろう。
酔いによる高揚感のまま、黄鶲の惚気話が始まった。
空が白み始め、そろそろお開きにしようとようやく黄鶲が席を立った。
祭りは終わりまた新しい日常がやってくる。
……というか、ようやくやってくる。
延々と続いた惚気話、良くあれだけ話せるものだと
若干うんざりしていた鶫は今更ながら山彦に対してのある疑問点に気が付いた。
「黄鶲、そういえばですが解せない点が一つあります」
片付けをしていた黄鶲の手が止まる。
「どうして彼は山犬の声を聴く事ができたのですか。
遥か西の九州、鵥にも届きましたけれど、相応の『縁』が必要なはずです。
魂という重い因果ではありますが、貴女を助けた程度のか細い『縁』で何故?」
山犬の遠吠えは『縁』を辿るものだ。
しかし、黄鶲の話にはそれを可能にするだけの何かを見つけられない。
『白黒の魔眼』『半妖怪』のどちらかに原因があるのだろうか。
頭を捻れども分からない。
そんな鶫を可笑しそうに眺めて、答えた。
「血から発現した異能は『先祖還り』に近い物があるわ。
そう、本当に不思議で運命的な『縁』だったのよ。
だって、旦那様は『鳴女の血』を引いているのだから」
大樹の根元にいる私達は枝葉の一つ一つまで目が届かない。
百年もあれば人間は五代重ね、遠くまで広がるに十分だ。
「あっちで寝転けてる、鳴女一の正直者がいるでしょう。
嘘も本当も、白も黒も、何がどうなってあんな形で引継いだのやら、ね」
純白の鴉が、酒樽の上で呑気に寝息を立てていた。