杜人閑話……騒乱裏之三『黄鶲と山男』
黄鶲の治療は進んでいる。
いるのだが、構いたがりらしい女のお節介に少し戸惑う。
山彦は槍で川魚を突きながら、黄鶲について今日も一人考えていた。
山彦の異能である白黒の眼は長い年月を経て、
他者の誠実さや真贋に籠められた感情の種類まで見抜くに至っている。
それは麓の村人相手の商いで、白には白で、黒には黒で返しながら学んだ。
商売における色んな嘘との触れ合いは彼と世界との距離感を育てた。
人はどうあっても僅かながら繋がりを持っていなければ生きていけない。
若かりし頃は須らく嫌った嘘にも種類がある。
『黒』であっても温かな嘘があれば、
『白』にあって冷たい真実もあるのだと。
黄鶲を拾った時。
可憐な小鳥に圧し掛かる暗黒の塊が持つ純然たる『殺意』の凍える白。
あれには目にしただけで身の毛もよだつ恐ろしさを覚えたほどだ。
事実、山彦は見捨てるしかないとその時は思っていた。
厄介の塊に手を突っ込めるだけの優しさなど持ち合わせていない。
精々が哀れみを投げかけてやる程度。
しかし、氷塊の『白』に隠された、中に灯る別の微かな『白』の温もり。
それに導かれるように、気が付けば両手は黄鶲を抱きかかえていた。
呟かれたのは誰かの名前。
人語を介す小鳥の奇妙さに惹かれたわけではない。
何か得体の知れぬ妖怪化生の類にも死を前に名を呼べる者がいるという驚きが、そうさせた。
……未練なのだろう。
ずっと昔に離れてしまった大切な人達を想う。
黄鶲が誠実であるというのは、白黒に分けずともその行動で分かる。
時折、体の調子の悪さを誤魔化すべく黒の顔を出しても、それは優しい嘘だ。
なんとなく母に似た雰囲気を山彦は黄鶲に感じていた。
考えを巡らせていても身体は習慣に従って本日の食糧を確保している。
いつもの要領で捕らえた魚の腸を抜き、川で軽く洗って串を打つ。
意識せずとも流れ作業で銛の手入れまで済ませていた。
山で生きていく上で食糧の確保は最重要でありながら最も難しい。
けれども、山彦はそれを当たり前にできるだけの経験と身体能力があった。
『化け物である』と自分を認識して以来、
彼の内に流れる古い血は彼の肉体を普通の人間よりほんの少しだけ強くしている。
魂に作用するような、加護に似た何かによって。
山彦が一人孤独に山で暮らしていけるのも、その恩恵によるところが大きい。
空腹にも強くなったし、傷の治りも早い。
体を鍛えれば鍛えるだけ頑健になり、衰えたりしない。
もっとも、おかげでますます人里で暮らすには向かなくなったのを忌々しくも思ってもいたが。
最後に桶へ水を汲み、帰路に着いた。
「お帰りなさいませ」
「……あぁ」
彼女の笑顔は山彦には些か眩しい。
きっと、一人が長かったからだろう。
帰る場所に誰かが居てくれる幸せを思い出してしまう。
……だからこそ、自分はもう会わないと決めたけれども、こいつには果たさせたい。
山彦が黄鶲に治療を施すのはそういった利己的な感情に基づいていた。
ある種の贖罪に黄鶲を付き合わせている身勝手さ、その自覚もあった。
彼女の身の上を聞こうとは思わない。
何故あんな呪いを受けたのか、呟きの先に待つ人物が何者なのかも。
とにかく無事に帰せさえすれば良いのだ、深入りする気は山彦になかった。
孤独にようやく慣れたのに、深入りして人恋しくなってしまうのが怖かった。
夕餉の素材になるだろう魚を渡すと黄鶲は大げさに喜んで炊事場へ向かう。
その姿を眺めながら、溜め息を吐く。
「どうしました?」
「なんでもない」
彼女はどうにも扱いにくい。
体が動くようになってから呪符の対価だとして家事を受け持ってくれているが、
こちらの要求水準以上の事をこなす能力がある。
自分の気まぐれに過剰な恩返しをされる、それに引け目を感じていた。
そもそも治療自体が偶然上手くいったに過ぎないのだから。
昔に山で助けた修験者から貰った数枚の厄除け符。
呪いに苦しむ鳥に効けば良いがと棚の奥にしまわれていた呪符を引っ張り出しただけ。
それがこんなにも効果を持つとは思わなかった。
今、黄鶲が貼り付けているものは、使い切ってしまう前に
男が素人なりに元の符を真似て書いたものだったりする。
始めの符と違って目に見えるような厄の吸着効果はないようだが、
まがりなりにも成果をあげているのを見るに、元の符が凄かったに違いない。
手紙を届けたのも、些事なのだ。
少々ではあるが蓄えもあり、関を越えるのも痛くはない。
山に棲むようになってからは健脚で済まされない体力も得ている。
大した事をしたつもりはないから、感謝が逆に辛い。
人ならざる者の中でも、黄鶲は特に善性の強い者なのだろう。
この義理堅さは山彦にはこそばゆく感じられた。
返し場所のない気持ちは残酷だと彼女は言う。
たしかに、この申し訳なさを解消できないのは残酷だ。
「おいしいですか?」
「あぁ、旨い」
自分が無愛想なのは分かっている。
気の利いた文句が浮かばない事も。
黄鶲の期待するような問い掛けにも、
褒め言葉と言えない程度のものしか返せない。
それでも、それは良かった、と温かな白で彼女は笑う。
かつて飢えに負け食べた事のある蓼の葉。
記憶の中では渋味と妙な辛味が喉を乾かすものであったのに
彼女が一手間加えると焼き魚の薬味として食を彩る名脇役となっていた。
他にも家の裏手から採ったのだという山菜たち。
山彦の目には雑草でしかなかったそれぞれが食物に変化している。
……旨い。
「いいから、お前も早く食え」
「貴方が食べ終えてから頂きますわ」
「何度も言っているだろう。
病人が食わずしてどうする、早く食え」
毎度の事ながら中々箸をつけようとしない黄鶲を促す。
神霊である彼女は食事を摂る必要性が薄い。
供え物という形で力を得る他は、精神的な充足を得るくらいのものなのだ。
その事を知らない山彦の強引な優しさ。
それを黄鶲が嬉しく思っている事を、山彦は知らない。
「では、失礼して、頂かせてもらいます」
「食ったらさっさと休め。 片付けは俺がやる」
「ふふっ、はい、分かりました」
……彼女の笑顔はやっぱり眩しい。