杜人閑話……騒乱裏之二『黄鶲と山男』
「……ここは、どこ?」
パチパチと薪に火の粉が爆ぜる音。
黄鶲は見覚えの無い山小屋で黄鶲は目を覚ました。
ぼーっと霞む視界、刺すような頭痛。
ずしりと重石に似た疲労から目蓋が落ちそうになるのを堪え、
状況の把握しようと身動ぎしたが鈍い痛みに顔をしかめる。
その被せられた毛皮蓑がカサリと立てた音で気付いたのか。
「起きるな、寝てろ」
そんな言葉を掛けられた。
声の方向へ首を傾けると男が背中を向けたまま黙々と何か作業をしている。
ぶっきらぼうな口ぶりには有無を言わせぬ迫力と静かな優しさがあった。
ミシャグジ達の追撃から逃げて、逃げて、逃げ切った果ては何処とも知れぬ山の中。
山道に無造作に転がった岩へ崩れる様にもたれかかり、緩慢な死を覚悟して……。
この男に助けられたのか、と黄鶲は回りはじめた思考力に昨夜の出来事を思い出した。
「どなたか存じませんがありがとうございますわ」
「化け物の誼だ、気にするな」
振り向きもせずにそのまま男は返す。
……化け物。
それが指す所に黄鶲は二つの疑問を覚えた。
目の前の男は一見人間にしか見えないが妖怪化生の類なのだろうか?
そして、黄鶲が人間でないと見抜けたのは何故なのか?
……。
「確かにこの身は常なるものではありませんが、どうしてお分かりに?」
妖怪など力ある者は基本的に個人主義、悪く言えば自分勝手が多い。
目の前の男がそういった存在であるならば、
『他者を助けた』この行動には何か裏があるかもと黄鶲は警戒を強めた。
黄鶲には完遂すべき使命があるのだ。
雉鳴女に洩矢神と御左口の情報を渡さなければならない。
せっかく命を賭けて掴んだ一欠片、渡さずして果てるわけにはいかない。
身を強張らせた黄鶲に対して男はゆっくりと振り返った。
そして、先ほど書き上げたのだろう墨の乾ききっていない呪符を黄鶲の額へ。
これは不味い、思わず彼女は目を瞑った。
貼付けられた呪符の効果が何であるか分からなかったが、
この手の物は大抵何かを封じ込める物と相場が決まっているのだ。
身体も動かない……辞世の句の一つでも用意してれば良かったなと
どこかズレた事を考えていた彼女に構わず、男は言葉を紡ぐ。
「拾った時は呪いに侵された小鳥だった。
こうして厄払いしてみれば人の形を取る。
どちらが本来の姿か知らんが、普通ではなかろうよ」
そう言って無造作に黄鶲の身を覆っていた蓑を剥ぎ取った。
今更ながら黄鶲は自分が何も身に着けていない事を知り慌てたが、
お構いなしとばかりに男は腹部へ手を伸ばすと既に貼られていた一枚の呪符を剥がす。
こびり付いていたのは暗く淀み、禍々しく紫に発光している厄の塊。
それは小さな囲炉裏に放り込まれ、黒煙を少しだけ上げて消え去った。
この男、治療してくれていたのか。
「落ち着くまで寝ていろ」
男は再び無愛想な口を開くと、背を向け新しく符を記し始めた。
集中している様子に声をかける気にはなれない。
話はここまで、か。
しかし、ほんの僅かな会話であったが黄鶲は男の偏屈さを凡そ理解していた。
と、同時に悪人でも無さそうであるとも。
どのような意図で男が助けてくれたのかは分からない。
分からない、が何となく疑うべきではないだろうと彼女は思った。
ついさっきまで強烈な悪意と敵意に追い回されていたのもあり、
そういったものを一切感じない男に心がとても落ち着いていく。
頼りがいのありそうな広い背中が追憶に消えた父のように見えて、
黄鶲は不思議な安心感に包まれながら、声のままに眠った。
翌日、目が覚めた頃には男の姿はなかった。
着ろとばかりに男物の着物が枕元に置いてある。
衣服を構築する力すら惜しかったのでこれはありがたい。
一級祟り神の厄は流石といったもので変わらずに黄鶲の周囲に纏わりついていた。
額に付けられた呪符に幾らか集められたようだが焼け石に水かもしれない。
えいやと一声気合を入れ、挫けるものかと起き上がる。
戸口に水桶があったので着替える前に水を浴びるべく変化を解いて鳥の姿となった。
そうして水に映る自分の姿を確認したが……気が滅入る。
自慢だった翼の鋭さはまるで萎びた菜っ葉のように元気がない。
わざわざ頼んで差した小粋な橙黄の飾り毛も数日前までは白の中に映えて洒落ていたが
今となっては見る影はなく、厄と呪いで暗褐色に暮れていた。
体調も体裁も最悪だ、美しくない。
そんな寝ぼけた事を考える頭を水禊で叩き起して
黄鶲はこれからやるべき事に取り掛かる。
……半刻。
昨晩家主であろう男が使っていた墨と筆を無断で借りて報告書をしたためた。
勝手に筆具を借りたのは悪いと思いつつも、
決して手を休めたりはしない。
何故ならば間に合わないからだ。
杜人神の計画はずっと昔から進行している。
その到達する場所を探し始めて幾年過ぎたことか。
戦乱の終結は近く、雉鳴女に残された時間は少ない。
ようやく指に掛かった鍵のような物。
コレから答えを出す猶予もあまり残されてはいないのだから。
そして……黄鶲の魂もまた、間に合いそうになかった。
昨晩よりはずっと身体が軽くなっていたが、
動かせば全身がギシギシと軋み、気を抜けば倒れそうなほどの眠気が襲ってくる。
洩矢神が残した祟りが自分の深い部分にまで喰い込んでいるのを彼女は自覚していたのだ。
届けるべき故郷は中々に遠い。
現在位置が何処であるかを確かめる術は持たなかったけれども、
どれだけの距離を逃げたのかは大体分かっている。
可能なら杜人神系の顔が利く伊勢、
それが無理でも最低で鳴女衆の手が届く尾張まで意地を張らねばならない。
しかし、おそらくはもう杜人の地を踏むのは叶わないだろう。
自分の状態を冷静に分析して彼女はそう結論した。
どのみち燃え尽きる命だとするならば、ただ亡羊と惑い諦めのまま果てるのではなく、
最後の最後、自分の意思行動の終わる時まで、燃やし尽くすのが粋な生き方に違いない。
ここで回復を待ってもいいけれども、
見ず知らずの男に手製とはいえ高価だろう呪符をねだり続けるのは流石に悪い。
そんな図々しさは黄鶲の価値観からはあまり褒められたものではなかった。
立ち上がり、いざ外へ出ようと戸に手をかけたところで眩暈。
長く寝ていたからか足元がおぼつかない。
ふらつき倒れそうになる彼女を抱きとめたのは男だ。
「何処へ行く」
「生憎ですが、大事な届け物がありまして」
「さっきのは」
「先程のは急に立ち上がったからですわ」
「……」
「助けて頂いた恩もまだ返していませんしね。
どうか手をお離しください、すぐに戻りますから」
離れようとした黄鶲に「最後だけ『黒』だ」と男は呟いた。
そうして、手を離すどころか彼女を横抱きにして持ち上げると無理矢理に寝床へ横たえる。
当然、何をするのかと儚い抵抗をしたが、
碌に力の入らない彼女はたった十尺にも満たない距離を運ばれるだけで息切れ。
想像以上に弱っていた自分の姿に軽い絶望を感じていた。
悔しい、たったこれだけでこの有様とは。
どうやった所で届けるのが不可能なのだと頭の隅で弱音が囁く。
そんな黄鶲へ男が言う。
「寝ていろ、俺が行く」
訳が分からなかった。
男にとってみれば黄鶲は気まぐれで助けただけの存在ではないのか。
いや、そもそも助けた理由も理由として成ってはいない。
どうしてそこまでしてくれるのか、黄鶲には理解できなかった。
何故を問うと男は静かに語る。
「お前を拾った時、一つ呻くように名前を呼んでいた。
その『雉鳴女』がお前にとって何なのか俺は知らん。
しかし、呪いの中にあってさえ、
真っ白に想えるほど大切な人だというのは分かった。
化け物にも、俺にもいたのだ、そういう人が」
節介が過ぎるかもしれんが、とそう付け加えて更に一言。
「別離の辛さは身に沁みている。
だから、必ず会わせてやろうと俺は決めた」
伏せられていた瞳が黄鶲に向けられる。
物事の中心を射抜くように。
「答えろ。
戻れないだけならば良い、帰ってこいとも言わん。
恩返しも必要ない、これは俺の勝手なのだから。
しかし、『お前はその体で行けると思っているのか?』」
無言は黒。
けれど、どう言い繕おうとも見透かされる、
そんな気がして黄鶲は何も答えられなかった。
「ならばここで休んでいろ。 俺が行く」
真っ直ぐな視線。
強い眼差しに黄鶲は目を奪われた。
そうして彼女がボンヤリしている内に、
男は目的地を聞き出して出掛ける用意を整えている。
昨晩作り置きした呪符は好きにして良いだとか、
食事は土間に干してある野菜と家の裏にある湧水でなんとかしろとか……
色々と説明をしてくれていたが、黄鶲の耳には殆ど入ってこなかった。
風のように走り出した後姿を見送りながらやっと我を取り戻す。
勢いに押されて頼んでしまった。
信用は……できると思うけれども流石に短慮が過ぎただろうか。
まぁ、どのみち賽は投げられたのだ。
追いかけるだけの体力もないし、
今となってはあれだけの善意を断るのも申し訳ない。
時間は惜しいが、一週間だけここで休息を取ろう。
男が届ける事ができたならそれで良い。
無理だったなら回復してからになってしまうが、大丈夫だという予感もあった。
「そういえば、名前も聞いてませんでしたわ」
強引で、勝手で、一方的な優しさ。
表面上の冷たさに隠された熱く燃える瞳。
もっとあの男の事を知りたい。
小さな火が胸に灯るのを感じていた。
……二日。
それが男が帰ってくるまでに掛かった時間。
いくらか選択が正しかったのかと煩悶したりもしていたが、
杞憂とばかりに状況は概ね好い方向へ転じている。
男はしっかりと文を届けてくれた。
きちんと到達できた証として拠点の周辺の簡単な地図まで書いて持ってきた。
黄鶲の体も大人しく静養していたのが良かったのか、
はたまた男の呪符が強い効果を持っていたのか、走る程度ならば問題ない程度に回復した。
もっとも、厄を祓いきれたわけではないし祟りから完全に逃れられたわけではない。
手製符を身に着けていなければ動くのも辛い状態なのは変わっていない。
けれど、伝えるべきを果たせた事実に、肩の荷が降りた気がする。
「ありがとうございます」
「礼が欲しくてやったわけではない」
「それでも、ありがとう」
勝手に動いた事を過剰に褒めたてるのは野暮だと男は感謝を受け取ってくれない。
そんなことよりも、身体の調子はどうだと面倒くさそうに気遣ってくる。
きちんと治してからではないと野垂れ死にされたら目覚めが悪い、だそうだ。
素っ気無くぶすりとした顔で言うものだから気分を害したかと黄鶲は思ったが、
ほんのり赤くなった耳の色に、この人は感謝に慣れていないのだな、と直感した。
(粗野な外見とは裏腹、可愛いところもあるのね)
山彦、と名前を聞いた時も周りの人間がそう呼んでいるからそう呼べ、
こんな風にまるで他人事のようにしか自分の名前を扱っていなかった。
他者と接する時に壁のような物を作っているのだろうと黄鶲は予測している。
『化け物』という括りにもこだわる部分があるのも何かあるに違いない。
黄鶲の中に山彦への興味がふつふつと湧いてくる。
それに、恩に対して礼を尽くせぬようでは鳴女の恥だ。
こうなったら私が如何に恩を感じたのか分からせてやる。
生活の手伝いくらいはさせてくれと男へごり押しして認めさせた。
ただの居候として世話になるわけにはいかない。
妙な決意と共に、その日から恩返しが始まった。
家事や細工物などはお手の物。
男が狩ってきた獲物の解体、毛皮の加工。
彼女はそこらから手作りのなめし液を用意したりもできる。
鳴女一の芸達者は伊達ではないのだ。
三日が経つ頃には雨漏りするという屋根、隙間風の入る壁、歪んだ戸板の修復。
干し柿を始めとする保存食の用意など勝手知ったる山彦の家となっていた。
「……ここまでされるとは」
「あら、迷惑でした?」
「迷惑ではないが、過分だ」
「いいえ、まったく足りませんわ。
下女の仕事程度が私の命と等価だと思いませんもの。
私、与えられたものはきっちり倍返しする性質ですから」
「しかしだな」
「貴方も、与えたのだから返されてくださいな。
返し場所のない気持ちほど、残酷なものはありませんわ」
毎日こんな問答をしながらも、
山彦と黄鶲は穏やかに時を重ねていた。
こんなにも余裕を持てたのは思いのほか目的地との距離が近かったというのがある。
鳴女衆としばらく連絡が取れないのが少々不安ではあるものの、
此処で十分に療養してから帰還し、後に山犬から残滓を祓ってもらうのが最善手だろう。
来るべき計画までに完全復活していた方が結果的に雉鳴女の為になる。
拠点から遠すぎるわけではないので通りすがりの鳴女が捉まる可能性も高く、
現状報告もその時にしてしまって構わない。
心配と言えば仕事の皺寄せで真鶸に負担を掛ける事くらいだが問題無いだろう。
彼女はそのように判断していた。
真鶸に関してだが、残念ながらただ一つ黄鶲が忘れている事があったりする。
真鶸の元に届いた手紙は直前まで死を覚悟していた所為で悲壮感に溢れていた。
死を知らせないような偽装指示などに付け加えて厄や祟りの残り香までこびり付いている。
こんなものを受け取ってしまった後輩がどんな勘違いをするかは火を見るより明らかだ。
よもや鼻歌混じりのご機嫌で男へ手料理を振舞っているとは思うまい。
全てが終わった後で真鶸と黄鶲はこの事で揉める事態になるのだが……余談である。