杜人騒乱……千秋楽『あこがれとさよなら』
「ほら、聴こえますか、貴方を呼ぶ声が」
暗い薄靄が掛かったビードロの摩天楼。
無機と濃い紫色に染まった街の中心に、ぽつりと忘れられた庭園。
柔らかな声。
「外の『私』は諦めていないようですよ」
狭い空に、一点だけ美しい青空が覗いている。
少女はそれを見て嬉しそうに微笑みながら、
簡素な長椅子に横たわる少年を膝の上で優しく撫でていた。
「いつまで、寝たふりをするんです?
聴こえているんでしょう、皆の想いが」
答えは無い。
「む、頑固ですね」
溜め息一つ。
……しばしの沈黙。
そして、静寂は震える喉に破られた。
「僕に言わせれば……皆、馬鹿だよ……」
顔を覆う少年の頬を一筋の雫が流れる。
「皆、優しすぎるんだ……」
頭上からは硝子細工の割れる音。
また一箇所、霧も靄も晴れて青い空が覗き始める。
「その優しさをくれたのは、貴方です」
次々に割れる、割れていく黒雲。
八、九、十、十一と……晴れてゆく世界。
「貴方達の殆どはもう目を覚ましているはず。
内側にいるのです、とっくに気付いていますからね。
いい加減に起きてもらわないと、後で『私』の説教が長くなりますよ?」
「……あぁ、怖いな、それは。
君にはきっと、僕も『私』も敵わないや」
少女の冗談めかした言葉に、小さく笑う。
「『私』を起してくるよ。
それで、目一杯に叱って欲しい。
許されたと思えるまで、ね。
……分かっていると思うけども、
僕は『私』が嫌いだ、憎んでさえいる。
だから……。
お願いするよ『私』のこれからを」
空が青に満たされ……少年はゆっくりと立ち上がった。
「元よりそのつもりです。
あとは私と『私』に任せてください」
十五度目の鐘がどこまでも響いてゆき、
曇りの消えた異郷の風景は幻と霞んでいく……。
弓に矢を番えるに似て、全身の筋肉を引き絞り放たれる守護の太刀。
「太刀運びの神、断つ神の導きにて
厄を断ち祓い御慰めする事が我が役目」
西より来た青年はその背に神を降ろし、十五の刃を以って荒ぶる龍の怒りを静めた。
人ならざる者とて尻込みする巨龍にただ人の身で切り結ぶ勇気は他にあるまい。
……その見事な働きは後の世にそう記される事になる。
それは六百の歳月に連なる十五の想念。
刻まれたるは嘉平の名。
鋼の技術集団、雑賀衆を支えた鍛冶の匠。
当代一の誇りを持って名乗られる称号。
初代嘉平が遺した白刃の煌きを追い掛ける求道者達。
願わくば人を斬るのではなく、哀しみを断つ刃金であるように。
各代の嘉平はそれぞれに己の祈りを込めて神に捧げる太刀を鍛つ。
故に、鉄を鍛ち上げてゆく様に、
多くの人を鍛ち上げ……より極みに近い者が継いでいった。
殺める物を創る人間には心に留めておかねばならない事がある。
力を振るう人間の悪性と、誰かを守り慈しむ善性を。
悪意から、狂気から、絶望から、守れ。
守る為に在れ。
意思を持たぬ筈の鋼は、掌より伝わる担い手の魂に悔恨の念を思い出す。
奇縁、かつて己を振るい、そして守り抜けなかった者の末裔かと。
……私に守らせ給え。
神刀は担い手を認め、担い手は神刀を振るう。
額より始まり、螺旋を描きながら楔は穿たれる。
祟る力を削ぎ落とされた龍は鮮やかな常緑を取り戻していく。
こうして役目は果たされたのだ。
龍はもう静かなもの。
山犬はソッと雉鳴女を龍の首筋へ降ろす。
「雉鳴女」
それ以上の言葉は必要ない。
頷いて雉鳴女は飛ぶ。
羽衣が強く輝きだした。
龍の頭部から、元となる樹木へと還ってゆく。
絡み合う枝が徐々に解かれ、首元まで開かれた先に……求めた姿。
拒絶と諦めを顕した植物の檻で、
膝を抱えたまま俯いて座る杜人綿津見神がぽつりと零す。
「……何を償えば良いんだろう」
罰に怯える子供の様に弱々しく肩を震わせる。
「計画は失敗、沢山の人に迷惑を掛けて……」
鬱々とした暗い声。
「償う為の力さえ失った私に何ができるんだろうか」
乾いた笑いは自分への嘲り。
「どう償えば良い……もう何もできないのに」
からっぽな神の姿。
「できなくたって良いんです」
雉鳴女が触れると外と内を隔てる最後の障害、
罪の監獄は崩れ去り、力を失った羽衣と共に消え去る。
全ての壁も、しがらみも失って、弱くちっぽけな二人だけ。
「私たちが必死になってまで頑張れたのは、
貴方に謝らせたいとか、償わせたいだとか、そんな理由ではありません」
強く抱き締めた。
「ただ、貴方に帰ってきて欲しい」
動くにはそれだけで十分だったのだ。
「……帰る場所が無いよ」
「私では『居場所』になれませんか?」
もっと甘えて欲しい。
今まで救う側に立ち続けなければいけなかった哀しい人に。
雉鳴女には返しきれない恩と想いがある。
鳴女の居場所をつくり、守ってくれた。
今度は私の番です、雉鳴女は笑う。
「役立たずでも?」
「関係ありません」
「傷付けた人達は認めてくれないと思う」
「折衝は得意ですよ、無理矢理にでも納得させます」
「だとしても……」
「あぁ、もう、問題無いと言ってますっ」
譲る気一切無しとばかりの問答に既視感。
何百年か昔にも、こういう風に言い包められた気がする。
杜人神は俯かせた顔を上げて
眩しいくらいの笑顔を向ける雉鳴女へ、勝てないなぁと呟いた。
彼女には勝てないようにできている。
この諦めは、たぶん許されるものだ。
胸に生まれた温かな気持ちのまま、杜人神は降参を告げた。
「……まったく強情な」
「貴方には負けますよ」
「ああ、貴女は馬鹿だ」
「ええ、そうでしょうとも、ね」
いつかの繰り返し、
それは終わりも同じ。
和解と笑顔。
ただ一つ違ったのは初めての口付け。
互いの温もりを感じながら、優しい時間が流れる……。
「……で、話は纏まったか?」
「ひゅいッ!?」
知らぬ間に近付いていた山犬に驚いて二人は飛び跳ねた。
杜人神の制御を完全に離れた根、
それに依存し成長した王樹の力の顕現である大樹が崩壊を始めている。
いつまでものんびりしている場合ではなかった。
龍にまで成長した大樹が崩れていく。
巨大過ぎる身体を維持できず自重に歪んでゆく。
このままでは地上の人々が多大な被害を受ける事になってしまう。
焦る二人と対照的に、
山犬は落ち着いていた。
「王樹の幻想に別れを告げよ。
そして、幕を引くのだ、杜人綿津見神」
力を失った自分に何が出来るのか、杜人神が問う。
山犬は一度大きく息を吸い込むと、
胃の腑より煌く宝玉を吐き出し、これが答えだと差し出した。
「受け取るが良い。
お前が与えるばかりで受け取ろうとしなかった、
お前の中から生まれ出でた、正真正銘お前の力だ」
千年の祈りに育まれた『信仰結晶』の内にあるもの。
それは感謝の気持ち、思い遣る心、優しさ。
和を生む感情。
信仰とは人間の持つ温もりの力。
杜人神が結晶に触れると溶ける様に胸に吸い込まれる。
「祭りの音頭としようじゃないか。
客も多い、派手にやるが風流だろう」
頷いて、杜人神は集まってくれた縁へ感謝した。
崩れゆく大樹は千々に散りながら花びらへ。
こうして異変の幕は引かれ、本格的に祭りが始まった。
酒を酌み交わし、
食を共にし、和気藹々と。
天を覆うほどの龍は青空を埋め尽くす百花繚乱の花吹雪へ生まれ変わり、
鳥達は歌声を響かせ、妖怪と人間は手を取って奇跡を踊った。
杜人神系を揺るがし、大和の最高神格まで担ぎ出した挙句、
三日の長きに渡ったこの騒乱はこれにて一先ずの終結に至る。
後日、後始末にあれやこれや苦心する杜人神と
奔走する雉鳴女のいつも通りな日常があったのだが、それはまた別の話。
それよりも重要な出来事が起こったのは、終結の夜。