杜人騒乱……三日目『均衡と人間』
雉鳴女と山犬を中心にどうやら纏まり始めたなと地上に一瞬意識を向けた天照は、
荒ぶる樹龍の吐き出す破壊の渦に危うく呑まれそうになり、肝を冷やした。
理性は感じられず、本能赴くままの攻撃行動は野に住む獣同然だが……。
「……よそ見の出来る相手ではありませんか」
襲いくる祟りと水の弾塊を極小の太陽で相殺しながら、
勝たず負けずの戦いをどう進めていけばよいのか、思考を加速させてゆく。
幸いな事に集まった中で最も力のある神霊を危険と取ったのか
暴龍はひたすらに天照だけを標的としていた。
大地から汲み上げられる力と、天空から照らし与えられる力。
共に無限とも思える供給源により一種の膠着状態となっている。
互いの攻撃が容易に互いを滅ぼしうるという緊張感の中でだが……。
なるべく目に付く様に低速度で八咫烏を旋回させているものの、
このまま自発的に攻撃を加えなければ敵ではないと判断され地上へ向く可能性がある。
致命的な損傷を与えずに、常に脅威であると示し続けなければならない。
「中々厄介ですねっ、と!」
朝陽受けての戦いはすぐさま多量の霧によって薄闇に包まれるのだ。
両手を大きく後ろまで薙ぎ、先程の相殺で発生した霧を高温で消し飛ばす。
流石に太陽を隠されると撃ち合いに競り負ける恐れがあった。
その間隙を縫って放たれた圧塊の初撃を今度は八咫烏が相殺。
後続は体勢を戻した天照に打ち払われる。
お返しとばかりに天照が右手から放った光の円錐が
樹龍の表層に纏っている葉の鱗を炭化させながらこそぎ落とすのだが、
傷口は周りの蔦があっという間に埋めて葉を増やし元の姿へ再生していく。
光と影が交錯し合い、また霧が生まれる。
元々が戦いの神ではない天照にはこの拮抗が堪えた。
二人掛りとはいえ迎撃と環境調整の繰り返しに集中力が削り取られる。
倒してはいけないという枷は想像よりも重く天照に圧し掛かってゆく。
「烏よ、当時の貴方を馬鹿にした者もおりましたが……、
これを前に引き分けと持ち込める者は、大和にもそう居ないでしょうねっ!」
天照は大火力を以って空間を焼き、
強制的に攻撃を打ち切らせて距離を取った。
警戒からか龍も攻めの手が一時的に停止している。
今ならば、と先の言葉を受け八咫烏が口を開いた。
「……お言葉ですが主、私はあの戦を、
戦略で勝利し、戦術で引き分けたとは思っておりますが、
戦闘に於いては『モリト』に敗北していたと考えております」
千三百年ほど前、八咫烏はモリトの国を強襲した。
霊的な守り以外は防備の薄い国。
神であるモリトを屈服させ、いつも通りの勝利が待っている筈だった。
しかし、祖霊達を崩し、人によって制圧した先……。
立ちはだかった巨樹。
同じ鳥でも無く、獣ですらない、動かぬ標的との侮りを八咫烏は後悔する。
大樹の守り。
それまで敗北を知らなかった八咫烏は自分の力を誇りに思っていた。
けれども、モリトの世界では草の一葉すら焦がす事も出来なかった。
モリトと、モリトを祀る人間、祖霊、精霊の類が集ったほんの僅かな空間。
たったそれだけの世界を、完全に守り抜かれたのだ。
勝利の先触れと謳われた身が何という体たらく。
これを負けと言わずして何と呼べば良いだろうか。
思い出される敗北感と敬意。
「我が誇りは回復されねばならない。
まさに今、この場を以って汚名を雪ぐべし!
必ずや主へ『引き分け』という名の勝利を届けてみせましょう」
あの時とは真逆の、弱きを守る立場。
事が成るまで自身を的に守り抜く。
それこそが勝利であり雪辱を果たす時。
八咫烏もまた、深い『縁』に集った者。
天照が思っていた以上の士気を持って八咫烏はこの場に居る。
決意も新たに意気軒昂と動きを止めていた龍を睨みつけると、
埒の明かぬ状況を打破する為か、龍はこれまでとは異なった行動を取り始めた。
水源は地に深く伸ばされた根なのだろう。
全体を鱗状に覆う幾億の葉から蒸散する水で雲を生み出してきたのだ。
天照が霧に対して敏感に反応していた事から有効だと判断したのか。
激突の副産物として排出された今までの霧とは違い、
内部に力を内包した粘性の、それこそ妖気塊と似た性質を持っている。
……が、無害なそれとは異なり、
力の質も量も違う所為で触れているだけなのに身体が重く感じた。
焼き払うにもただの霧と同じようにはいかないようだ。
体表から湧き出す雲が辺りへ溢れ始める。
「また面妖な……。
これからが本番といったところでしょうか」
雲の壁を閃光で叩き割り、
差し込む朝日を後光と背負う。
「なるほど、良いでしょう。
天照らす御名の所以、魅せて差し上げますッ」
樹龍と太陽の戦いは続いてゆく。
空では予定通りとも言える時間稼ぎ。
しかしその一方で、地上は体勢の立て直しに手間取っていた。
小法師や以津真天などの比較的力のある妖は無事だったが、
元々の地力が低い付喪神、水の回廊を失った川や海の妖怪は半死半生の有様。
半数以上が使い物にならなくなっている。
龍と化してから杜人神の強制的な神力供給も治まっていた為、
それを利用しての回復も出来ず、地霊達が創った即席霊地に押し込むしかない。
仮ながら陣地らしい物の構築まではでき、防御に余裕はできたが……。
既に太陽は中天を突いていたのだ。
山犬は焦っていた。
雉鳴女が持ち帰った方法には大きな力が必要なのだ。
ミシャグジを弱めるのは天照と八咫烏で足りる。
いけ好かなく思ってはいるが、実力が本物であるのは認めていた。
あとは『内』に居る雉鳴女を通して覚醒させるだけ。
しかし、問題なのは覚醒させるに足る意思の力。
万全の千鬼があればいけただろうが、
これではおそらく届かないと山犬は踏んでいる。
過大でも過小でもない魂の質と量の差。
ましてや拒絶する杜人神の魂へ無理矢理に語りかけるにはそれだけの物が要るのだ。
妖怪達の回復を待っていては日没に間に合わない。
掛け合えば甘い所のある天照は待ってくれるかもしれないが、
強大な龍の力を振るえば振るうほどに中の杜人神は磨耗し果てるだろう。
日没とは、無情にもそういう時間制限でもある。
この状況を覆せるだけの切り札を山犬は一つだけ手にしていた。
最も良い終わりを迎えるには、最後まで切れない手札。
だが、それを使う事によって最終的な結末が歪んでしまう、とも確信している。
「……山犬っ」
最悪の危険を孕む最善を目指すのか、
それともこの場だけ妥協し再会を果たし、後で哀しむ方が良いのか。
「山犬、ちょっと!」
どうしたものかと頭を悩ませる山犬の身体を、ポンポンと雉鳴女が叩く。
それは思考に没頭し始めた山犬には少し煩わしかった。
「何だ雉鳴女、少し黙って……ふむ?」
誰の為に悩んでやっているのか、と。
語気を強めようとした山犬はその耳である物を感じ取った。
こちらに近づいてくる。
それも、大勢の声。
河川へ水を補給しに行った妖怪かとも思ったが、どうにも気配が違う。
太鼓や笛の楽しげな祭囃子が明らかな場違いでありながら……同時にしっくりときた。
背を見やると雉鳴女は驚きと涙混じりの表情で呆然と遠くを見ている。
……何だ?
首を上げ眺めたその先、視界に映ったもの。
「お前達はっ……」
山犬は不覚にも、目頭が熱くなるのを感じていた。
「山犬様、申し訳ありません、来てしまいました!」
「我ら森戸家一同、祀る者でありますから!」
「神が機嫌を損ねたとあらば、御慰め致すのは我々の仕事です!」
現われたのは人間。
避難させた筈の人間だった。
「……この馬鹿者共が。
良く来た、よう来てくれた!
あぁ、そうだとも。
お主等が居らねば奴が起きる筈も無い」