杜人騒乱……二日目『弱者達の恩と縁』
雉鳴女は、自身の無力をこれほど恨んだ事はない。
暴走する杜人神と荒ぶる山犬の激突を眺めるしかできなかった。
近づくことすら許されず、右往左往するばかり。
巨大な神威の前に非力な一羽でしかなかった。
ああ、世界が壊れてゆく。
そんな嘆きと共に、何をすれば良いのか頭は真っ白のまま、
平穏の終わりと絶望の始まりを、ただただ眺めていただけだ。
山犬が放った遠吠えも空虚に胸をすり抜けていった。
何がどうして、こうなってしまったのか。
まったくの偶然であるにもかかわらず雉鳴女は責任を自分に求めた。
自分のこれまでの動きを悟られたからではないだろうか。
自分が強行させてしまったのではなかろうか、と。
なれば、なればこそ立ち上がらなければならない。
終結した戦闘と進行する祟り。
嘆く時間は一刻とて無かった。
山犬が全てを抑え込んでくれたおかげで自由に動けるようになったが、
やらねばならない事が多すぎる。
混乱と不安を誤魔化す様に、雉鳴女は忙しなく行動した。
関ヶ原へ出ている鳴女衆の召集。
次に地元妖怪達へ注意と、願わくばの救援要請。
そして山へ近い人間達の避難誘導。
この三つを一通りこなした段階で日が暮れていた。
避難に関して、彼にこれ以上子供達を傷つけさせたくないとの個人的な思いで
森戸家にも逃げるよう告げたのだが、杜人の血は彼の責任感を継承し続けているのか
女だけを避難させ周辺の寺社へ注意を呼びかけに走り回ってくれている。
しかし、状況が良くなったわけではない。
精々が被害を気にしないでよくなった程度。
問題の根本部分は何ら変わらずに脅威のままだ。
嬉々として力比べを挑んだ好戦的な妖怪達もいた。
けれども狒々や釣瓶落し、山童に天狗も守りを抜けず、
山犬に封じられて尚、直接触れるには神力の壁が厚すぎた。
彼我の力量差が大き過ぎてどうしようもない。
鳴女衆は既にほぼ全員が杜人の地に集結できていたが、
だからといって好転させられる妙手があるかといえば……。
今出来る事に全力を尽くしてはいる。
……いるのだが、全員の心は暗く沈んでいた。
辺りが完全に夜闇と包まれても、大樹杜人神は妖しく紫と緑の燐光を放っている。
その幹の根元、蔦や蔓に覆われた繭の様な物体はそれに反発するように白く輝いていた。
あの中で山犬は今も必死で戦っているというのに。
現場に急造した陣幕へ、鳴女たちは森戸家に納められていた資料を片っ端から広げた。
数十人がかりでミシャグジの答えを元に祟り化の解決策を探し出す為に。
自分の力でだって何か出来る事が、為せる事があるはず。
杜辺や各地の編纂所にも鳴女を飛ばして情報を、情報を集めなければ。
雉鳴女達は自身の持つ情報の力に縋った。
今までを支えてきた、と思い込ませてしまった力を。
……そして、夜が明けてしまう。
進展は無い。
無いどころか悪化している。
雉鳴女は視線を朝の薄闇にボンヤリ浮かぶ大樹へ移した。
山犬を捕らえている繭、そこから漏れる光が弱まっているのだ。
見間違いなどではない。
着実に山犬の限界が近づいてきている。
焦れども焦れども成果は上がらず、絶望だけが膨らんでゆく。
もう全てを投げ出したくなる様な諦めばかりが頭をよぎってしまう。
悪い夢でも見ているみたい。
雉鳴女は呟いて、涙を一つ溢した。
それでも現実から逃げられはしないのだ。
助ける、あの人を助ける。
ずっとずっと私を助けてくれたあの人を。
助けるの、助けなければいけないのに!
力が足りない。
爆発する感情を机に叩きつけたその時、
朝焼けの煌きから純白の鴉が飛び出してきた。
「雉鳴女ッ、来た、来てくれた!
まだ諦めるには早過ぎる、だってこんなにっ、
こんなにも私達には、私達には味方が居たのよ!」
興奮して矢継ぎ早にまくしたてる鴉鳴女が背中に連れてきたのは……。
「いつまで……と泣かずに済むように」
「あっしら、弱ぇですけんど、何ぞ出来んかいなと思うて来ちまったぃ」
「ここよか良か土地ゃ無かもんのぅ、いっちょ晴れ釜なんて呼ばれち見るて!」
怪鳥以津真天を先頭に旧鼠と鳴釜が声を上げた。
更に後ろにも数え切れないほど、地霊や妖怪、付喪神が列を並べている。
神秘の中でも存在の弱い者の中には杜人神によって救われたり保護された者もいた。
祭りに呼ばれ、人と付き合い、良き関係を築いてくれた彼らが
それまでの恩返しとばかりに大挙して来てくれたのだ。
「陸の者だけじゃありゃせんですぞ」
皺枯れた声と共に何処からともなく水が空を走り、
大樹の周りにぐるぐると渦を巻くと宙に浮かぶ川となる。
「いやはや、ワタツミ殿が大変と聞いての、色々引っ張ってきたぞぃ」
「そんな事より、ペッ、ペッ、川の水は薄くってしょうがないわねぇ」
「キュキュッ、文句ばっかじゃ手伝いも出来へんよぉ」
船幽霊の小法師が連れて来たのか栄螺鬼、共潜など、
近海に棲む妖怪や霊が空中の川から顔を出して協力の意を示してくれていた。
「近くの川から海坊主のくしゃみで飛んできたからのぅ。
ほっほ、人はおらんかったが、少々の被害は勘弁してくだされや」
その弁に、寝てただけの俺まで巻き込みやがって、と水の中で河童が悪態をついている
……方法にかなり問題があったようだが、海川問わず妖怪化生が勢ぞろいした。
ずらり並んだ様は、まさに圧巻。
迫力に圧倒され、雉鳴女は言葉を失った。
心の奥から山犬の遠吠えが蘇る。
『縁』を運べ。
山犬は最後にそう言ったのだった。
特別な力が無い自分をこれまで支えてくれたのは情報の力なのだと思っていた。
それは正しいと同時に間違いだった。
仲間との『心』の繋がり、『縁』の力こそが鳴女を支えてきたのに。
ああ、忘れてしまっていた。
自分がちっぽけで、一人では何もできない事を。
頭が冷え、心に平静さが帰ってくる。
独りよがりの愚を犯した。
……が、これを悔やむのは後だ。
雉鳴女は彼らの前に頭を下げる。
そして、自分以外の力への誠意を尽くす。
「お願いします、力を貸していただきたい」
妖怪達は、その言葉を待っていた、と喝采。
現在の状況について詳しく説明を求めてきた。
こうまであっさりと協力を約束してくれるとは……。
状況説明が終わった後、思わず零れた一言に一匹の地霊が答えてくれた。
「好きなんだよ、杜人神の事がね、僕だけじゃなくて皆」
地霊は照れ臭いとばかりに視線を逸らし、大樹の前へ陣取りに行った。
「はてさて、話を聞くに何をするにしても、
杜人神が張る神力の壁が邪魔のようじゃの」
「俺等は所詮、木っ端妖怪と木っ端神霊の集まりだ。
けどなぁ、木っ端は木っ端なりに意地があるってぇもんよ」
「一で足りねば十、十で足りねば百。
百を飛び越えて千も揃えば、神にも届こう」
やんや、やんやと騒がしく賑やかに、
妖怪や付喪神という一癖や二癖どころではない者共が準備を整えていく。
雉鳴女は彼らに感謝しつつ、旅の支度に入った。
その様子に気が付いた小法師が声を掛ける。
「さぁさ、行きなされ雉鳴女。
儂等であの障壁を破る術を見つけよう。
それまでに貴女は次の策を用意せねばならん。
何をあてにして、
何処へ行くのか知らんがな。
ほっほ、上手く行く事を祈っておるよ」
雉鳴女は自身の知る限り、
最大の『縁』を手繰り寄せるつもりでいた。
大き過ぎる借りを将来杜人神に背負わせてしまう事になろうが、
杜人神を失う事だけは、それだけは雉鳴女にとって許容できないのだ。
目的は最高神格の神。
「朝焼けを辿り、東から太陽を連れて参ります」
そう告げて、雉鳴女は光へ向けて飛び立ってゆく。