杜人閑話……現代語訳『海の男』
昔、海辺の村に1人の血気盛んな若者がいた。
とても喧嘩が強く、腕力も勇気も大人と同じだった。
若者の父親は代々漁師をしていた。
父親は村一番の漁師で、ひとたび海に出ればいつも大漁。
漁に出て怪我をしたことも舟を壊したこともない。
村人の誰もが若者の父親を褒め、慕った。
口々に、海の男はこうあるべしと。
けれども、若者は父が嫌いで喧嘩ばかりしていた。
ある日、いつもより風が吹き、波が少しだけ高かった。
父親は漁を取り止め、若者にも漁を止めるように言った。
けれども、若者にはまだ漁ができるように見えていた。
「この小さな波を恐れて漁に出ない父が、真に海の男であろうはずがない。
私はもっと大きな波であろうと恐れることはない。
私こそ真の海の男だ。」
父親は答える。
「お前はまだ海を知らない」
そういって父親は家に帰った。
若者はいつもより少し高い波を押さえ漁を成功させた。
「見ろ、私の勇気が波に勝ったのだ」
誇らしく胸を張る若者に父親は言った。
「お前はまだ海を知らない」
父親の言葉に若者は意固地になった。
あんな波から逃げる父から海を知らぬと言われて引き下がれなかった。
次の日、昨日よりも少し風が強く、波も昨日より少し高かった。
父親は今日も漁を取り止め、若者にも漁を止めるように言った。
「私はどんな波であろうと恐れることはない」
若者は昨日より少し高い波を押さえ漁を成功させた。
しかし、父親の言葉は昨日と同じ。
「お前はまだ海を知らない」
次の日も、前の日より少しだけ風も波も強かった。
それでも若者は挑み、成功させていく。
その次の日も、前の日より少しだけ風も波も強かった。
そのまた次の日も。
そのまた次の、次の日も。
いつしか波は荒れ狂う大蛇のようになっていた。
それでも若者は海に出てしまった。
毎日少しずつ高くなる波のせいで、
自分が乗りこなせる境界を見誤ったのだ。
さしもの若者も、これには勝てず、翻弄されるばかり。
若者は初めて海に恐怖した。
父の言う事を聞いておけば良かったと後悔しても遅かった。
身体は海へ投げ出され、木の葉のように回り続ける。
「神様、私が愚かでした」
父の言葉の意味を若者は理解した。
自分の分を知り、退く事も勇気なのだ。
退かぬ勇気だけではいずれこうして死ぬ。
己を知って初めて海を知る事ができる。
若者は己を恥じた。
すると突然、渦が竜巻となって天を突き、若者を岸まで吹き戻したのだ。
「どうだ人間。海は怖かったか」
竜巻の中から海の神が現われ、今までの波は全て自分が起こしたのだ、と言った。
恐怖を知らぬ人間が勇気を語る愚かさを、叩きのめすために。
それは海の神の優しさでもあった。
「はい、私は今日、生まれて初めて海を知りました」
若者は素直な気持ちで答えた。
海の神は満足すると海を鎮めた。
海の神は言った。
海に生きる者が海を恐れぬならば、いずれ海で死ぬだろう。
怖さを知らない海の男は海の男ではない。
若者はその夜、父親に今までの事を詫びた。
父親は一言こういうだけだった。
「お前は、もう海の男だ」
若者は後に父親を越え、村一番の漁師となった。
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大学の資料室で学生がシャープペンシルを放り投げ、辞書を閉じ背伸びをした。
長らく同じ姿勢だったのか、身体からパキポキと小気味良い音が鳴る。
「……っしゃ、現代語訳がやっとこさ終わったぜ。
くぁ~、古典って何でこんな眠くなるんだろうな」
青年は大きく欠伸をしながら長机に体重を預けた。
「ちょっと揺らさないでよ!
あと、こっちはまだ終わってないんだから静かにして」
斜め前には辞書と睨めっこをしながら唸っている女学生。
怒らせると怖いので、そっと身体を起こし、先ほど訳した文書に間違いが無いか添削する。
『杜人神語 雉草子之巻』
その中にある綿津見説話の1エピソード『海の男』を訳すのが今回の課題。
「うぅ~、なんで人間文化学部って古典文学の勉強してんのよ。
意味がわからない。私中学の頃から古典だけは苦手だったのに、
何でまたわざわざこうして辞書まで引いて頑張ってるんだろう」
「藤井教授に一目惚れしたとか言い出したのお前じゃん、頑張れよ。
歴史資料を読むのに古典文学ぐらいは読めるようになれってことだろ。
だいたいあの教授、民俗学の権威でもあるし、
説明会でも風習や風俗を中心に詳しくやってるって言ってたしな。
これぐらい予想しとこうぜ……」
恨めし気に睨んでくる彼女をちょっと可愛いと思った。
「なんでアンタの方が格段に早いのよ、文章量は変わんないはずでしょ?!
あぁ~もうっ、そっちを選んどけば良かったわ」
「いや~、くじ運だけはいいんだよ俺。
こないだNHKで人形劇やってて話を大筋で知ってたから楽だったわ」
「ずるいっ! ていうか、いつまで教育TV見てんのよアンタは!」
「馬鹿やろう、NHK教育は割とクオリティ高いんだぞ」
2人の学生の言い争いはいつまでも続いていく。
これは、とある大学の、日常風景。
※今回はいつにも増して読みにくいはず。
高校の頃の古文を訳してできた雰囲気の文で書いています。
※とある大学で、藤井教授と彼の講義を受ける学生達が
文書、杜人神語から過去の出来事を読み取っていきます。
しかし杜人綿津見が実際に体験した事とは違う記述です。
それは時代が流れるにつれ、誇張や創作が挟まっていくから。
その食い違いや、解釈をお楽しみください。