杜人騒乱……一日目『祟神杜人』
誰よりも早く『異変』に気が付いたのは山犬だった。
何があった?
分かち合った力が共鳴しているのか、胸の深い部分が疼く。
己の中に根付く千年樹の力が活性しているのを感じる。
無造作に一歩踏み出した足元からは蔦や草が生い茂っていった。
かつてない神力の高まりが、身から溢れ出て収まらない。
鋭い牙と爪、四肢に熱く迸る乱力の危うさよ。
昂揚していく気勢と野生の衝動を抑える様、身震いを一つ。
早すぎる……。
事を起こすにしては時期が早すぎる。
予期せぬ時の訪れに、山犬は薄闇の森から彼方その場所を睨む。
山犬は『根』を感知できてしまうが故に、
これが計画の一端なのか、それとも突発的な事故なのかを計りかねていた。
根が張り巡らされている山全体から、微少ながら杜人の神力が湧き出ているのだ。
まだ山犬にしか知覚できないそれはおそらく計画の中身。
杜人の名に連なる神霊へ恩恵を与えるだろう成果に思えた。
根の先にある高次の力を一般に至るまで受け取りやすく加工、調整している証拠だからだ。
最も深く繋がっている山犬にはそれが分かった。
自分だけが特別に強い影響を受けているのも。
……それでも、あの阿呆が説明すらしなかったのは解せぬ。
確かめなければならなかった。
結末は自由だ。
しかし、望む物であって欲しいと願う。
強く踏み込まれた足跡に美しい草花の軌跡を描きながら、山犬は走っていった。
王樹ヶ跡、祈り深き場所へ。
谷を越え、川を越え、近づくに連れて
黄色く色づく山に不釣合いな、遥か天を衝く常緑の威容が存在感を現す。
山犬の眼に写るのは古の憧憬。
かつてこの地にあり、そして滅びた神の御姿。
一千と三百年の永きを越えて、再び顕現したのだ。
「その姿……お主の、
……いいや、我らの憧れ、か」
疾駆する山犬の口から思わず感嘆が漏れた。
遥かな天空を覆わんと伸ばされた枝葉。
大男が十人居たとしても手を繋げぬ太い幹。
見上げ仰ぐ姿はまさしく王樹の再臨である。
だが、同時に許せなくもあった。
視線を切り周囲を見渡すと見たくも無い光景が広がっているのだ。
事が始まって半刻。
杜人神が大地から発する神気に当てられた神霊妖怪諸々の化生達が地に伏し、
誰もが呻き声を上げながら助けを求めている。
中には若い鳴女もいた。
時間が経つに連れて際限なく蓄積されてゆく力。
霊格の劣る者ほど、過度の祝福に己の身を苛んでいる。
近づくほどに供給される、いや放出されている力は勢いを増していた。
よりにもよって、その姿で弱きを傷つけるなど。
あの阿呆は何をやっておるのだ!
朝日を浴び翠玉に輝く巨樹へ向け最後の跳躍。
目的地へ飛び込んだ山犬は更なる哀しみを目にする。
大樹杜人神の周辺は一層神気が濃い。
影響を受け強制的に生長させられた樹木から木霊が湧き出しているが、
分裂や破裂を繰り返してはその破片から新たな樹木を誕生させ死んでゆくのだ。
そうして埋め尽くされた木の残骸を他の木が養分と蓄え貪ってゆく。
分不相応な力を手にした多幸感に包まれながらの殺し合い。
何かの折れる乾いた響き。
絡ませた枝で他者を絞め殺す音。
けらけら、けらけらと楽しそうに歌っている。
木霊たちの正気を失った笑い声と狂気に染まった断末魔が錯綜していた。
そこは植物の姿をした凶獣が互いを喰らい合う地獄であった。
「……聞こえるか、見えているか、我が怒りが分かるか杜人よ!」
この惨状を生み出したのは紛れも無く杜人神が化身した大樹。
『根』の持ち主であり、支配者でもあるが……、
……本来は他者を助ける事だけを生き甲斐とする神なのだ。
これを果たした後に何の意味が残るというのだろうか。
山犬は吠えた。
けれども、応えは無い。
説明を求めた山犬に返ってきたのは更なる力の放出。
意識を失い、反射だけの行動。
何にせよ惨劇は更に加速してゆく。
「耳でも遠くなったかこの阿呆が。
ならば良かろう!
お主に牙を突き立ててでも
聞こえる場所まで引き摺り出してやろうぞ!」
そうとも、外れてしまったなら討ってやる。
あやつは力に酔ってしまうほど愚かではない。
この状況をあのお人好しが望む筈が無いのだから。
片割れとして力尽くでも止めてやらねばなるまい。
焦りや怒りで山犬自身も随分と頭に血が上っていたのだろう。
滾る神力に任せて飛び掛ったのだが……その力は杜人神から零れ出た一部に過ぎない。
まさに喰い付こうとする刹那、噴き出る不可視の壁が山犬の動きを縛り、蔦や蔓が殺到する。
不用意が過ぎた。
首や手足へ締め付ける植物の鎖を無理矢理に蒸発させているが、
すぐさま他の蔦が生長しては絡んでくるため拮抗。
これ以上進む事が敵わない。
ほんの数歩先にある幹が遠く感じる。
膠着状態に悪手であったと悟ったが後悔は先に立たず。
仕方なしに目を覚ませと吠え続ける山犬に、大樹から初めての返事が返ってきた。
(……山犬…ミシャグジ…くる……くる…滅ボセ……ワタシ私わたしを……ヤマイヌ)
言葉の意味を理解する前に大地が脈動する。
この上なく事態は悪かったが追い討ちが掛かった。
仄かに大樹を覆う生命溢れた緑光が、邪悪に漂わす濃紫へと徐々に変貌していったのだ。
この現象を、山犬は知っていた。
大禍刻に呑み込まれていった哀れな霊達の記憶を。
「馬鹿者めッ、祟り神へ堕ちる気か!」
一度堕ちきれば失った自我が戻る事は稀である。
(やまいぬ……山犬…ヤマイヌ……)
「ああ、私だ、私はここに居るっ。
早く起きろ杜人、さっさと之を鎮めよ。
ええい、聞こえんのか、起きろというておるのだ!」
しかし、杜人神すらおおよそ正気を保ってはいないようで
ただただ山犬の名を呼び続けるだけである。
堕とさせてなるものか。
山犬は一際強く神力を閃かせると、距離を取った。
そして、前足で数度地面を掻き足場を整えると低く構える。
防御も何も考えず、杜人神の守りを貫き通す矢に。
収束した風が紫電を散らす力場となり、鏃は鋭い円錐となってゆく。
腕だろうが脚だろうが持ってゆくが良い。
たとえ首一つになろうとも通ってみせる。
……疾走。
杜人神系が誇る最強の矛が、稲妻と化して大樹に突き刺さる。
激しい衝撃と轟音が山を揺るがす。
相対速度で鋭利すぎる刃物同然の枝や葉に切り裂かれ、
美しかった毛並みがまるで襤褸布の無惨さを晒していたが、
山犬の爪は大樹に見事届いていた。
離さぬよう、しっかりと組み付いて杜人神を侵す『根』の力を押さえ込む。
祟り化の進行は目に見えて緩やかに。
力の放出も、殆どを山犬が受け、その力で封じる事により治まった。
だが、山犬に安堵する暇などない。
大樹に杜人神が存在するようでしていない、奇妙な状態だったからだ。
どのようにして覚醒させるかの見当がつかない。
その上、いつまでもこのままでは不味かった。
増大する力は山犬の力をも膨らませているものの、
霊魂自体が耐え切れなくなってしまう量も当然ながらある。
山犬も感覚的にこのままの調子だと何日も持てるとは思えなかった。
木霊たちの様に弾け飛んでしまえば
枷が無くなり祟り化した杜人神が第二の大禍刻を引き起こしてしまう。
それだけは許すわけにいかなかった。
個では勝てない。
山犬は大きな、とても大きな遠吠えを響かせた。
空を渡り森を吹き抜け川を流れて、どこまでも響く遠吠え。
多くの『縁』ある者の助けが必要だ。
鳴女よ、いつまでへたり込んでいる。
今こそ翼あるお前達の力が必要なのだ。
頼む、この男を災いの樹と呼ばせぬ為に。
救いの『縁』を運んでくれ。
山犬は、ゆっくりと蔦と蔓に覆われていった。