杜人閑話……山犬と雉『戦いの始まり』
『座れ、何処へ行く気だ』
雉鳴女は自分が無意識的に立ち上がっていたのに気が付いた。
直接、問いただそう。
その気持ちが、雉鳴女を自然と立ち上がらせていた。
『座れ』
「ですが、山犬っ!」
『座れ、と言うておるのだ、黙って座れ……』
戦場と同じ空気、山犬の巨大な存在感が部屋を満たす。
気圧されて、雉鳴女はゆっくりと座り込んだ。
『焦るな』と前置きをして山犬は言葉を紡ぐ。
知る限り『計画』自体は少なくとも百年以上前から動いていたのだ、と。
今日明日にすぐ実行されるようなものでもないから、まずは頭を冷やせ、とも。
『だが、その意思、選択を私は嬉しく思うぞ』
そして、最後に口の端を柔らかく緩め、山犬は笑った。
意思は、世界を動かす力なのだ。
老いも若いも、男も女も問わず、
人であろうが獣であろうが、たとえ神霊の類であろうとも。
世界を動かすのは強い意思である。
山犬の、杜人綿津見神の口癖が雉鳴女の心にすっと染み込んだ。
『さて、杜人の地はあやつの世界同然だ。
ただ一羽で挑むには足りぬ物も多かろう』
「では貴方も、……いえ、そうでしたね」
『そうとも、私はあやつの幸せを祈っている。
男が満足して死ぬならばそれもまた幸福に相違あるまい。
幸せの定義は個々にある、故に中立だ、お前贔屓ではあるがな。
とはいえ、私は無理でも古株共は喜んで協力するだろうさ。
孤高という野生を捨て、縁という人間の力をお前たち鳴女は手にした。
他の神霊共とは比べ物にならん『数』の力をな』
落ち着きを取り戻した雉鳴女は、墨と硯を用意した。
現時点で分かっている事を記録する為に。
『ふむ、先ほどのように、
直接聞きには行かぬのか?』
からかう様な山犬の口調に、
雉鳴女は先刻の自分が恥ずかしくなった。
「あ~、もうっ、さっきのは無しです。
からかわないで頂きたい!
私は『雉鳴女』なのです。
そもそも情報がまったくもって足りていません。
この状態で何かを訴えてもただの感情論にすぎない。
『計画』に対する判断基準すら無いのだから、まずはそこから。
おそらく『計画』は我々に益を生むものでしょう。
『目的』自体が掴めていませんが……。
しかし、問題はそこではない。
杜人様が消える可能性のある『手段』が私にとっての問題なのです。
何にせよまず情報、これが基本。
そう、私は『雉鳴女』ですからね」
雉鳴女には暗さも悲壮さも無かった。
ただいつも通りに問題を調べ上げ解決の糸口、
至るまでの道筋、着地点を探るだけ。
積み重ねてきた『いつも通り』は道を開く。
経験から雉鳴女は悟っていたからだ。
これほどまでに大仰な計画。
杜人神をして、身を削らねばならない原因が出来たのだろう。
それを取り除く事が出来るのならば、そもそも計画自体が起こらない。
つまり、ほぼ確定的に訪れる何らかの難題に対する答えとして計画は用意されたのだ。
遥か彼方の、数百年先の我々を見据えて。
雉鳴女はそう考えた。
手段に信仰結晶と根が選ばれた理由もまた重要である。
特に、根に関しては謎ばかりで得体が知れない。
結晶は純粋に事を行なう際の燃料だとは思われるが今はまだ判断できない。
差し当たり今後の行動にまず必要な物。
「山犬、私は戦乱の終結を機と読みますが、貴方は?」
『同じくだ。
あやつは阿呆だが馬鹿ではない。
森戸に杜辺が落ち着くまでは動くまいさ。
……と、同時に無茶もせぬだろう、元々が臆病者だからな』
「……元々?」
『あぁなに、私だけの思い出だ。
妬かずとも良い、大した事ではないのだ』
独り笑いを噛み殺しながら背を向け、
山犬は来た時と同じように飄々と帰っていった。
『健闘を祈る』
それだけを言って。
気が付けば東の空が白み始めていた。
行灯からたまにジリリと油が焼ける音を聞きながら、
雉鳴女は過去200年分の資料請求の履歴を一晩中見直していた。
そして、ほんの数年分を調べ終えた程度の進捗に、深く息を吐く。
当時あった事件や各種案件の報告書と合わせて
その請求に違和感が無いか、不自然な調査依頼がないか、
全てを精査しながら調べなおすのは思いのほか手間が掛かった。
全国の戦乱が終結するまで短く見積もって20年。
時間制限は決して長いとは言えない。
そも、これで尻尾を掴めるとも限らないのだ。
徒労に終わる事も考えると分担しなければ到底間に合わない。
しかし、作業難度は非常に高かった。
杜人神が各案件でどのような資料を求めるのか。
そういう癖を把握していなければ微かな変化を捉えられないだろう。
身近で接し続けた者でなければ任せるのも容易くない。
「鶫……次点で黄鶲かしら」
任せるに足る鳴女を上げてみたが、
彼女達が協力してくれるかは分からない。
鳴女の保全という観点で見るならば
軒下を貸してくれている杜人綿津見神が不利益を生まない以上、
このまま静観した方が良いと言うかもしれない。
もし杜人神が消失したとしても鳴女はおそらく大和に受け入れられる。
影働きだけになるだろうが、今とそう変わらない待遇になるだろう。
そういう扱いを受けられるだけの能力と自負はある。
……不安が鎌首をもたげた。
計画阻止へ動く事は鳴女の利益ではなく、
雉鳴女の個人的な願望に基づくものだからである。
自分の我侭に一族を巻き込めるのか?
それが胸の何処かでもやもやと渦巻いている。
しかし、立ち止まってはいられない。
不安を振り払う様に、雉鳴女は朝焼けの空へ羽ばたいた。
協力者を獲得する為に。
山犬は暁の空に飛び出した雉鳴女を遠目に眺めていた。
『雉よ、あの阿呆は幸せの勘定に己を入れぬ。
だからあやつは阿呆なのだ。
しかし、唯一お前だけがあやつの幸せとなれるだろう。
それはきっと誰にとっても喜ばしい結末になる。
誰かを想う力、野生で在るとしたこの身には、眩しくも羨ましい』
意思は世界を動かすぞ。
世界を動かせたならば、
それが世界の意思、世界の選択なのだ。
呟いて、山犬は大きく欠伸をした。




