杜人閑話……山犬と雉『発覚』
その日、良く晴れた夏の夕暮れ。
山犬は何でもないかのような自然さで
単身、雉鳴女の私室に足を運んだ。
部屋には旅から帰ってきたばかりなのか、
荷を解き筆記具や巻物を整理している雉鳴女の姿が窺えた。
「……おや、貴方が私を訪ねて来るとは珍しい」
雉鳴女の反応は然もあらん。
山犬は暇だからといって友人を訪ねたりはしない。
互いに信用も信頼もしている仲ではあるのだが、
実のところ、山犬と雉鳴女の関係には奇妙な距離がずっとあった。
もっとも、雉鳴女に限った話ではない。
近頃は随分と他人に近くなったが、
山犬は基本的に杜人神以外との馴れ合いをあまり好まない。
杜人神に呼ばれていなければ神社周辺を一人気ままにぶらついているか眠っている。
鳴女衆も例外ではなく、雉、鶫、黄鶲などの一部古参を除けば、
進んで会話するような特別に仲が良い存在というのがいないのだった。
入った年の浅い鳴女などは対面するだけで少々緊張してしまうらしい。
そんな風に、山犬は杜人神のコミュニティにおいて
輪の中心に限りなく近いにもかかわらず、不思議な距離感で周りと離れている。
たとえるなら、どこか旅人に似た自由さを持っていた。
雉鳴女も昔は同じ神に仕える身として近く遠いこの関係を縮めようとしてきたけれども、
どうやら山犬の性分、山犬の芯に根ざした生き方なのだろう、と早々に諦めている。
「先ほど戻ってきたばかりなのですが……。
私も出張らなければならぬような祟り神でも生まれましたか」
そう、山犬は暇だからといって友人宅を訪ねたりはしない。
動くとすれば何か問題が起こった時である。
雉鳴女は仕事から数日ぶりに帰還したばかりであったが、
即座に緊急用の道具袋を隠し戸から取り出し戦構えを整える。
脇には天井の梁から現われた座敷霊が護衛に控え、ピリピリと緊張感を高めていた。
この間、五秒。
言葉を言い終わる頃には臨戦態勢となっている。
山犬はそれを見て可笑しそうに
『今日はただ、友人として話をしに来ただけだ』と、くつくつ笑った。
普段とは異なった山犬らしからぬ様子に雉鳴女達の緊張は霧散する。
『聞く聞かぬもお主次第ではあるが……、
自己軽視で身内至上主義の、そう、あの阿呆についてだ』
雉鳴女は座敷霊に退室を促した。
何を持ってきたのかは分からなかったが、
雉鳴女はそれだけで聞かねばならないと判断した。
直感であったが、山犬が何かを起こそうとしているのだ、と。
しかも、杜人神を中心に、杜人神に知られぬ様。
わざわざ訪ねてきたのはそういう事に違いなかった。
今さら叛意はないだろう、とは思っている。
それだけの絆を、山犬は杜人神との間に築いているのだから。
雉鳴女からすれば羨ましい程の、それこそ互いに命を預けられるくらいの絆。
ならば何を考えているのか。
そして、自分がどんな役を求められているか。
雉鳴女は姿勢を正して言葉を待った。
『誤解せぬよう、初めに言っておこう。
真実、私はあやつの幸せを願っておるよ。
それは我が生命の誇りにかけて、
決して違えられる事のない祈りだ』
話はそれほど長いものではなかった。
王樹様の跡に生まれた『信仰結晶』。
そして、その下にある『根』と呼ばれる存在。
この二つを杜人神が近々『何か』に使用するだろう、と。
たったそれだけの話。
茜色の空が群青を経て濃紺となってきたが、
遠く視界の端では残光が完全に沈んだ太陽をまだまだ追いかけている。
宵の初めと言ってよいものだった。
「それを私に伝えたという事は、
つまりは、それを調べ、阻止しろという事ですか?
貴方も把握できていない、杜人様の『何か』、杜人様の『計画』を」
行灯皿に油を用意しながらの雉鳴女の確認に、
山犬は軽く首を振って、静かに答えた。
『私はどちらでも良いのだ。
それがあやつの幸せ、選択であるなら尊重しよう。
個人的には阻止されて欲しいがな。
……お前とも付き合いが長い。
知らせてはおこうと思っただけだ。
勿論、知ってどう動くかはお前の自由』
この言葉に、雉鳴女はピクリと反応した。
既にある程度を掴んでいる様な物言いだからである。
しかし、山犬には動く気が無い。
消極的な反対のまま傍観するつもりらしい。
今ここで初めて知った『根』の存在。
昔から杜人神の妙な秘密主義を雉鳴女は気に掛かけていた。
チグハグで突飛な知識や発想、未来予知染みた直感。
これらがどんな仕組みで生まれるのか誰も知らない。
大地や植物と深く繋がった能力の産物だと無理矢理に納得していたが
たったそれだけで語れる様なものでなかったのも事実。
情報を司る鳴女としては内心、己の居場所を揺るがす恐怖でもあった。
けれど、今まで杜人の地に積極的な不利益を齎した事例はない。
その一点を持って信頼を預けていたのだ。
きっと山犬もそうだろう。
ならば今回は今までと何が違うのか。
山犬は何を知っているのか。
何故、阻止を願うのか。
その問いに、思いもしなかった答えが返ってくる。
『杜人綿津見神が消えるからだ』
雉鳴女は言葉の意味をとっさには理解できなかった。
消える? 誰が? あの人が?
聞き間違いであれば良い、と尋ねなおしたが……。
『もう一度だけ言うぞ。
杜人綿津見神は、自ら消えようとしている。
目的は分からぬが、おそらくは我々の為に』
……時が、凍りついた。
『私には『根』の正確な正体を理解できぬ』
しかし、凍りついたままの雉鳴女をおいて、
山犬は説明を続ける。
『分かっているのは偉大なる千年樹の遺物である事。
神霊よりも高次な何かだと思われる事。
あとは、私と奴に共通した巨大な力の源泉だというくらいだ。
王樹殿との縁が我々に耐性を与えているのかもしれぬが、
まともな神霊程度では『根』の直視ですら存在が危うくなるほど次元が違う。
もっとも、そうなるまでに『根』を開拓したのはあの阿呆だが……』
『あやつは、その『根』へ無理矢理に自身を溶かし込もうとしている。
己の存在を削ぎ落としながら、異物に馴染ませる。
魂を自ら切り刻み攪拌してゆく苦痛、およそ正気の沙汰ではない。
取り込むのか取り込まれるのか。
このまま程度が進んでゆけば、いずれ戻れなくなろうよ』
少なくとも私は御免だと、
山犬は不機嫌に鼻を鳴らした。