杜人閑話……学生Sの心配『杜辺世界図』
教授が頭を悩ませている。
何やら古い世界地図がプリントアウトされた用紙を睨みつけ、ウンウンと唸りながら、
『整合性』『時代が』『有り得ない』『渡来人』『アメリカさえなければ』など
不気味な呟きと共にパソコンに何やら打ち込んでいる。
時折、メモ用紙に落書きのような絵や記号(実は文字かもしれないが理解できない)を
書いてはクシャリと丸めてゴミ箱に放っていた。
机の脇にあるそれはとっくに飽和状態で、床に散らばっている。
片付けるのは俺なんだろうなぁと溜め息を吐いた。
先週、資料集めを手伝った時からずっとだ。
いい加減に気になってきたので、尋ねてみる。
するとパソコンから顔を上げる事なく答えが返ってきた。
「あぁ、坂本君、私はもうドラえもんの実在を信じてしまいそうだよ。
タイムマシンがあるとしか思えないね、何処にあるんだろうなぁ~」
……教授が壊れた。
アハハ、と高らかに笑いながら高速でペン回しを続けている。
無駄に滑らかで速い。
常々、変人だとは思っていたが遂に変人と狂人の境界を越えたらしい。
どうしたらいいんだろうと考えていると、机の下に落ちていたビニール袋が目についた。
数日分はあっただろう食料品、ペットボトルの残骸が詰まっている。
教授の服がちょっと匂うのにも気が付いた。
もしや、この人は三日くらい篭って徹夜してたんじゃなかろうか。
目の隈が凄い。
シャンとしていれば凛と整っている顔が幽鬼のようだ。
そっと近づいてペンを取り上げ、無理矢理に研究室のソファに倒すと毛布を被せる。
……寝たようだ。
それにしても、教授がおかしくなるくらいの難題なのだろうか。
机の上にある世界地図を眺めてみた。
墨で書かれている、普通の世界地図だ。
日本が右端に描かれているのを見ると海外で描かれた物なのだろうか。
地名は書き込まれておらず、世界の輪郭が分かるくらいの簡素なもの。
目に付くのはそれぐらいで、あとは古いくらいしか……教授が起きたら聞いてみよう。
「……ん、いつのまに寝たんだ私は。
おや、坂本君じゃないか、どうしたんだい?」
目を覚ました教授はあちら側の住人から戻っていた。
非常に安心した。
早速、先生を悩ませている古地図について尋ねてみる。
「君も杜辺グループを知っているだろう。
あぁ、当然か、現代社会の教科書にも載っている大企業グループだものな。
杜辺という家は由緒正しい家柄でだね、千年近い歴史を持っている凄まじい家なんだ」
その杜辺家が築百年を越え老朽化した蔵を改築しようという事で
これを機に納められていた芸術品や学術的価値の高い諸々を鑑定しようという運びになった。
チャンスを見逃せないと調査員として名乗りを上げた教授はそこで恐ろしい物を見つけた。
……という流れらしい。
古ぼけた世界地図の写しに目を向ける。
未だにピンと来なかったのだが、教授が告げた次の事実で納得した。
大学総出で紙の質や墨の成分鑑定、炭素鑑定だとか
考え付くだけの調査の結果、年代が1200~1300だと判明したそうだ。
「これは歴史の中で、その時に存在している筈の無いものなんだよ!」
教授の興奮具合が凄い。
なんというか、クリスマスプレゼントを前にした小学生と形容すればいいだろうか。
そういえば、地図の歴史はどうなっているのだろう。
どういう風に発展していったのかが気になったので教授に講義をお願いしてみる。
テンションの高い教授は快諾してくれた。
と言うか、解説したくて堪らないようだった。
ただで専門家に講演いただけるからありがたいな。
そう思いながら教授の言葉に耳を傾けていく。
「世界地図の歴史ってのは中々面白くてね」
「古代ギリシャ、天才数学者だったピタゴラスが初めて地球が球体であると知り、
後にアリストテレスが論理的にそれが正しい事を説明、証明。
そして、アレクサンドリアの図書館長エラトステネスが地球の大きさを計算した」
「大体、これが紀元前500年から200年くらいの話なんだ」
「そして、エラトステネスの世界図が古代に置いて最も真実に近かった世界地図の一つ」
「天体観測から緯度を求め、緯経線を引いた現代の地図に近い形で、
誤差も大きいけれどアフリカ大陸やインドなど、アメリカ大陸を除いた
世界の姿を良く補完できている大変素晴らしい地図なんだ」
「……っと、資料用の画像が~っと、あったコレコレ、凄いだろう」
「ちなみにエラトステネスの時代は紀元前、およそ120年、だったかな。
この地図、緯経線の考えなどは後の天文学や地理学に大きな影響を与えていく」
「しかし、それから発展を見せるかと思いきや、キリスト教によって
球体説が否定されたり、天文学者が肩身の狭い思いしたりと
長い長い停滞を見せるんだけれども……まぁ、これはいいか」
「で、色々と端折るけども大きな船を作れるようになって海図作成の技術が発達する」
「帝国主義、というか未開地への拡張政策が流行ったのもあって
俗に大航海時代と呼ばれる新たな地図の時代が訪れるんだ」
「で、コロンブスがアメリカ大陸を発見するわけだが……。
そう、このくらいの年号は常識だね。
1492年、人間は地球の全容解明に大きな一歩を踏み込んだ」
「実は10世紀頃、バイキングで有名なノルマン人が既に到達してたらしいけれどね……。
まぁ、地図に書き込めるようになったという意味ではコロンブスが発見したと言って良い」
「それから新たな植民地時代の幕開けだ。
大陸にアメリカと名が付けられ、沿岸部が測量されていく」
「最後に、マゼランが世界一周の航海を成功させ、地球が丸かった事を証明した」
「これ、地理学者泣かせでね」
「今まで白紙だった場所に次々と書き込まれていく大陸の姿。
広がっていく地図に今まで計測してた値が信用できなくなって大変だったそうだ。
地球の輪郭がハッキリした喜びはあったろうけれど、ね」
「そう、1500年代、いよいよここから真の意味で『世界地図』となるわけだ」
「1570年に作られたオルテリウスの世界図は今と殆ど変わらないものになっている。
ほらほら、どうだい、エラトステネスと比べると進歩が分かるだろう?
ここに至ってようやく世界地図は一先ず完成と相成るわけなんだよ」
「……で、杜辺家から出てきた世界地図。
仮に『杜辺世界図』と呼称しようか。
作成年代を若く見積もっても1300年前後」
「緯経線は引かれておらず、まるで適当に描いたようにも見えるが
大陸の位置関係は正確で、しかも下部に南極大陸らしき波線が引かれている。
細かな部分は粗いが、正角円筒図法、もといメルカトル図法で作られた地図だというわけだ」
「見つけた瞬間、思わず言ってしまったよ」
「ありえない、何かの間違いではないのか?」
「この当時の日本地図だって大雑把なものしかないんだ。
これは『行基図』という奈良時代に作成されたとされる物なんだが、
実に江戸時代に入って本格的な測量が行なわれるまで日本地図は大体こんな感じだ」
「鑑定中も、その、不思議な話だが
半ば間違っていてくれとも思っていたよ」
「世紀の発見なのだが、どうやっても説明を付けられないからね」
「一応、当時は大陸との貿易は行なっていたから、
もしかしたら西洋の地図文化が入ったのかもしれない。
ヨーロッパを中心に描かれているからその可能性が高いし、
南極大陸の存在については昔から想像されてはいたわけなのだが……」
「当のヨーロッパはまだアメリカ大陸を認識できていない」
「樺太から蝦夷地、アイヌ民族経由も考えて資料を漁ったけれども
予想通りここまで正確なアメリカ大陸の姿なんて無いんだ」
「もう何処かの研究者の悪戯で、研究用に取っておいた当時の紙に
なんらかの細工をして世界地図を捏造したと言ってくれた方が安心してしまうレベルだね」
「杜辺世界図にアメリカ大陸さえ描かれてなかったら、
屁理屈やこじ付けで何とか説明がつかなくもないんだけど。
おかげで学会も半分混乱気味で資料や証拠探しに大忙しさ。
偽物じゃないかって何度も何度も鑑定を繰り返してるらしい」
「このオーパーツを発表するかどうかすら上の方は揉めてるからなぁ」
「とりあえず私の名前で報道されそうなんだけれども、
これが偽物だったりしたら……発見者は大変だよ、本当に」
「納められてた木箱に『神託図』なんて書かれていたから
杜辺家と関係の深い杜人綿津見神じゃないかという事で
私が専門にしてたから調査と資料を求められているのだけれど芳しくないし……」
「一緒に出てきた古文書の解読も合わせて進行中……、
次の発表までに間に合いそうに無い……、とにかく時間と資料が足りない……」
「……更に追い討ちをかける物があってだね」
「…………日本地図も出てきたんだ」
徹夜の疲れもあるのだろうが
解説途中でテンションが急下降し燃え尽きた教授を見て、
初めて可哀想だと思った。
教授の明日はどっちだ。