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やまぶし……妖怪は人間と遊ぶ





いくら森戸本家が広いとはいえ、50人も人が増えれば部屋も足りず

近くの宿場や村人の家も借りなければならなくなり、数週間はお祭りの様に賑やかであった。


分家の改名については予想よりも反発はなく、逆に喜ばれ拍子抜けしたり。

何にせよ、許されている事、縁を断つわけではない事を理解してもらえてよかった。


改めて皆を集めて眺める。

向こうの土地の者と結ばれ、広がっていく家族達の姿には感慨深いものがある。


もはや私からアプローチをかけねば半数程度が私の姿を目にする事はできなくなった。

縁が繋がっている以上、声が届かなくなる事態にはならないだろうが寂しいものだ。

本家と分家はこれから少し離れた道を歩いて行く事になる。


もっとも、本家の人数が膨らんでまた分家が増えていくというのも十分に考えられる。

逆に分家側から本家に嫁入りなり婿入りなりもあるだろうし、関係は今までとあまり変わらないのかもしれないが。






こうして改名騒動が終わった所で、

いつものように新たな問題が噴出してきた。


神がどう悩んでいようとも世界は自由気ままに歩みを進めていくもので、

追われるようにして生きとし生ける者は壁に挑み続けなければならないのだろう。


近頃の報告書はこれ一色である。




最近、近くの山に篭る人間が増えてきたのだ。




いわゆる山伏だとか修験者と呼ばれる人間達で、頻繁に修行しに訪れている。


川や滝で身体を清め、頂を制しては精神を空にする。

彼等は人間の霊的な能力を引き出そうとするのを目的としているのだ。


実際に一時的ながらも霊的感受性の向上や神秘との同質化も可能だ。




山岳とはそれ自体が人格無き神霊と云って良い。




かつて私が王樹様に抱いた畏怖畏敬と同じく、

日本人は古来から種々の偉大なるものに神性を抱き、崇めてきた。


僅かの生を散らしていく己とは違う、堆積した時間に磨かれる全てに価値を感じ、神を見た。


時にそれは大樹であったり、あるいは巨岩であったりもした。

この思想から血族への尊敬も生まれていく。



根底にあったのは『生命への敬意』だろう。



何かが時を経て成長した姿への感嘆は当然ある。

しかし、それだけではない。

同時に自身の小ささにも気が付くのだ。


ただでさえ生死の境界が薄い時代。


『矮小な我が身でもここに至るまでに数え切れない苦難があった。

 目の前の偉大なるものにも当然その数十、数百倍の過程があったはずだ』


……と日本人は共感し想像し慄くのだ。


時間と死が切り離せないものであるが故に、

それら全てを乗り越えたからこそ存在するという奇跡に。


だからこそ、尊び敬うというわけである。



そして、山は全ての営みを見つめてきた存在。



頂上から眺める世界はどれほどまでに山が常世と隔絶したものであるかを語るだろう。

その視点こそが山の視界だと理解してしまえば、自然と頭を垂れるもの。


特に山は恵みを齎す象徴でもあった。

縄文の彼方からずっと。


これが信仰を集めぬわけがない。


……とまぁ、『山』であるだけで祝福と同様の霊的力場が発生するのは珍しい事ではないのだ。

よく山に寺社が建立されるのはそういう理由もある。

死への距離の近さも、己の魂と向き合うのに最適なのだという。


霊を感じやすくなれば行使も楽になるから至極当然。

仏教も、神道も、陰陽道だって力を感じるまでのステップが容易くない。


だから山岳信仰は宗教を問わず修行の助けとして根強くあるわけだ。




ちなみに神霊にとっての山は優秀な陣地として機能する。


長く棲み付くなどして『山』に馴染めば馴染むほどに山岳信仰は強力な補助になっていく。

例えばだが『大江山の鬼』といったように神霊化生の拠り所だと広まるまで馴染めば

その山自体が抱える畏怖を幾らか自分が借り受けられるのだ。


このあたりが地方を守護する大和の神が徐々に土着化していく要因だったり。

本格的な拠点を築くと動くのが億劫になるのも分かる。

山を押さえていれば信仰が薄くなってもそれなりにやっていけるからな……。


私も一応は山の神も兼ねているので他より恩恵は大きく、

一度山に篭ったならば、そこんじょそこらの神霊では崩せない霊地となる。

流石に天照級になるとどうしようも無いのだけれど。




……で、だ。


修行の場として山を利用するのは構わないのだが、

杜人の地は他より多くの神霊や妖怪が棲んでいるわけで不要な衝突が起こりやすい。


以前から僅かながら修行目的で山に入る者はいたが、

雉鳴女の報告が修行者関係だけ、という日が何度も続くと流石に問題だ。


私が人寄りな神なのもあって、妖怪達がやり過ぎたら制裁したりもする。

おかげで襲うにあたっても逃げられる条件が作ってあったり、

謎掛けの勝敗で逃がしたりとそれぞれの方法で自重してくれてはいるのだ。


しかし、鬱憤は溜まるもの。

これ幸いと山伏にちょっかいを出し始めたのである。



ここで大誤算だったのは山伏側も半分これを望んでいた事。

双方の同意があるのなら、どうにも粛清しようがない。



向こうは修行に来ているわけで、霊的存在が近づいてくるのを歓迎している部分があり

命懸けで自ら山の妖怪に挑むような気合の入った者も中にはいるのだ。


妖怪側は娯楽道具が壊れたら困るのと、私や山犬に睨まれるため多くを生かして返す。

すると、その噂を聞いて修行しに来る人間が増えて……以下エンドレスとなっていった。


中には若い鳴女が彼等に手を出した事案もあって、雉鳴女もこれには呆れていた。

逞しい者が多い上に魂が綺麗だから遊ぶに丁度良い、とは鴉鳴女(カラスナキメ)の談。

後日、対神秘の気運が高まり鳴女全体の不利益に繋がるとして古参組から躾られたそうだが。




霊山として着々と広まりつつあるなぁ。










山犬の背を撫でながら境内を眺める。

掃き清められたそこは落ち葉一つ無い。




……知ってるか山犬よ、君や鳴女は天狗だ山童だと呼ばれてるそうな。




そこらの妖怪と一緒にするなと言いたいのだろう。

不満気に鼻を鳴らす仕草が妙にコミカルだった。






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