杜人閑話……学生Sの語源探索『森山雉姫』
『
・夫婦喧嘩は犬も食わぬ(ふうふげんかはいぬもくわぬ)
夫婦間の諍いは一時的ですぐに和解するものが多いから、
他人が仲裁などするものではないということ。
または、仲裁に入るのは愚かなことだというたとえ。
・語源 近畿地方南部の民話による。
・歌舞伎 森山雉姫「己が悪しと言い合う様は山犬とて口をだすまい」
・落語 杜辺長屋「かつか、かつかと大声だすない。夫婦喧嘩は犬も喰わぬとそこらの鳥も言ふだらう」
』
時間を持て余したので電子辞書に適当な諺や慣用句を打ち込んで
だらだらと過ごしていたのだがふと目に止まるものがあった。
最近の俺はすっかり歴史や民族文化にハマってしまっている。
古典芸能にはまだノータッチだったが、元ネタが近畿地方南部の民話であるなら
うちの藤井教授に聞けば即座に説明してもらえるだろう。
高まる気持ちに足が速くなるのを自覚しながら、研究室へ向かった。
「おぉ、坂本君よく来てくれたね」
教授は幾つかの小冊子を小分けする作業中のようだった。
手伝いますよ、と近づくとサッと手順を教えて自分は本棚へと消えた。
大した作業量ではなかったけれども全部押し付けるのはなぁ。
教授のちょっとと言うには自由過ぎる性格は知っているが流石だと思う。
これくらいの変人でないと教授にはなれないのだろうか。
こちらの作業が終わる頃、教授の方も一息ついたのか戻ってきた。
「いやはや、ありがとう。
ところで何の用だったのかな?」
俺は電子辞書を開いてそれを教授へ見せた。
教授は古典芸能にも精通しているのだろうか。
「お、森山雉姫じゃないか、2ヶ月前に友達が大阪でやってたなぁ。
人気演目だからまた来月辺りに再公演やるらしいし、見に行ったらどうだい。
比べて落語の杜辺長屋はかなりマイナーだから探さないと難しいかな」
実物を見るのは来年に期待して、あらすじを聞く事にした。
なんとなくのイメージだが落語や歌舞伎だとかはオチまで知っていてこその
予定調和が生み出す笑いや感動のような気がするからだ。
「森山雉姫は領主の若君と武家の娘のすれ違う恋模様を描いた名作だね」
こうして語り出すと教授は止まらない。
上手く乗せる事が出来たので後は聞きに回ろう。
もはやあらすじどころか細部まで語りそうだが……。
「昔、紀伊の国に森山という領主がいた」
「民衆からは大層好かれていた名君で、部下も多かった。
それは雉姫という才女が様々な献策をし国を潤していたからだ」
「雉姫は数代前に外様として配下にやってきた武家の娘で
決して表へ出る事はなかったが、誰もが彼女や彼女の功績を知っていた。
困りごとはあの知恵に富む姫に回せと不文律が出来てしまうほどにね」
「けれども元々が余所者であり、更に女であった為に才気を疎まれ
他家からの風当たりは当然強く、そのせいで表へは出る事は叶わなかった」
「だというのに雉姫はそれを不満だとは思っていなかった。 何でか?
女である自分の考えを治世に活かしてくれる領主がいたからだ。
雉姫の権力者として民を守る義務についての意識はそこらの武士よりも高く、
その優しさ故に上昇志向もなく、現状が身分相応の幸せだと満足していた」
「そんなある日、雉姫はある噂を聞く」
「森山の若君、守秀が現領主へずっと雉姫の案を通してくれていたこと。
女であろうとも、余所者であろうとも、賢き者に違いはないと擁護していたこと」
「それで雉姫は守秀に逢ってみたいと思うようになるわけだ」
「守秀は文武両道で、書や歌を愛する若者であり元服前から将来を熱望されていた。
身分の貴賎を問わず優れた者を市井から見出す様も名君の片鱗を見せていて
人使いの上手さもあり、街を発展させた実績もあったから当然とも言える」
「その夏、台風が森山の領地を襲い沢山の被害がでた。
様子を聞いた雉姫が復興案と次回の予防策を書にしたためようとしたその時に
同じくこの災害をどうにかしたいと考えていた守秀が屋敷に訪れるんだ」
「問題を解決していく内に二人は互いの人柄を知って好ましく思い
これから何かある度に協力して事にあたるようになっていく」
「そうした日々の中、守秀は雉姫を外へ連れ出す。
彼女の献策によってどれほど領民が助けられているのか。
それを目にして欲しくて雉姫と領内をくるりと一周デート」
「雉姫は自分が知恵を巡らせた成果に喜び、
守秀も彼女の姿に連れ出して良かったと。
二人の仲も一気に進展してくんだが……」
「……帰りの山道で事件が起きる」
「喜びに舞い上がっていた雉姫は足元が疎かになり、
石に躓いて崖に落ちそうになってしまう」
「守秀はこれを助けようと、雉姫を腕で庇い一緒に崖へ転落し、
右腕に大きな傷を負って武芸者としては致命的な損傷を抱えてしまうんだ」
「雉姫はこれを自分の所為であると悔やみ、屋敷から一歩も出なくなった。
輝かしい未来を約束されていた若君の将来を奪ってしまった罪の意識から
たとえ相手を好きでも顔向けできないのだと泣き続けた。
『守秀様は私の事を許しはしないだろう』、と」
「だけども、守秀は腕一本を代償に救えたことに対し後悔はなかった。
もし、あの時に動けずに好きな女を守れなかった方が後悔したに違いないからだ。
守秀は雉姫が転落の恐怖により屋敷に篭ってしまったと思い、己の弱さを悔やむ。
彼女の身体は守れても、その心を守れなかった自分が許せなかった。
避けられているのは自分と居る事で思い出してしまうからだと、会いに行けずにいた」
「そして、互いが互いを好きでいるのに、会えない日々が続いていく」
「二人ともそれなりの身分のため縁談話が舞い込んでくるが
好きな者がいる、とどれも丁重に断っていた。
二人の気持ちは同じで、会いたいけれども会えない、そのジレンマに苦しんでいた」
「けれども時間は待ってくれるはずがない。領内には日々様々な問題が発生する」
「未練か贖罪か、雉姫はそれを解決するよう
決して守秀に気付かれぬように影でひたすらに働いた」
「守秀が失った右腕の代わりに、唯一誇れる己の知恵を絞り
家の者を通じて領内の発展に努めていく。ただ守秀のために」
「しばらく経って、現領主から守秀が家督を継ぐ」
「当然領内の全てを把握するわけで、ようやく気付く。
雉姫が自分のために何をしてくれていたのかを」
「それでも会いにいけぬと悩む守秀に家来達からも声が上がる。
『雉姫の功を一言でも労わねば、森山家の義が疑われる』と」
「家来達は全員が雉姫の主君に対する真摯な思いを知っていた。
働きを見ればもう、女だてらに、などと陰口を叩けるはずがない。
あれほどまでに誰かを愛している者が影にいる切なさに皆が共感し、
主君もまた愛しているが故に会えないと悩むのがもどかしかったわけだ」
「雉姫に謝り、そして感謝を言わねばと守秀は決意する」
「日取りが決められ屋敷に雉姫を招集、いよいよ対面となるところで、
戸一枚を挟んだ先から雉姫の静止の声がかかる。
顔を合わせればやっぱり糾弾されるのではないかと雉姫はまだ恐れていた」
「薄い境界を挟み、お互いがその思いの内を吐き出していく。
すると、互いが抱えている罪の意識は相手の勘違いにすぎなかった」
「腕を失ったのは守秀にとって納得済みであったし、
雉姫が屋敷に篭ったのは恐怖体験によるショックではなかったわけで。
……となると今度はお互いにその罪悪感を否定しなければと口論に」
「ここからが面白い」
「私が悪かった、いや私の方が悪かったのだ、と。
かつてない己の非を相手に認めさせる謝罪合戦が続く」
「どちらも似た者同士で、似た思考形態、実にお似合いだった。
遠めで様子を見守っていた家来達はその不思議な微笑ましさに
『己が悪しと言い合う様は山犬とて口をだすまい』と言ったのさ」
「その後で二人は結ばれ、雉姫は守秀の正式な右腕として
領内はこれまで以上に発展しましたとさ、めでたしめでたし」
「とまぁ、こんな感じのお話だ」
「で、え~と、そう『夫婦喧嘩は犬も喰わない』の語源は
この歌舞伎演目が元になったというのが有力説の一つだね」
「途中で出てきた山犬のくだりだけど、この地方だと
魔除けの意味で犬が悪いものまで食べてしまうと考えられていて、
夫婦喧嘩は害の無いものだから食べないという考えもある。
もう一つ、犬というのは自分より大声を上げられると黙ってしまうので
夫婦喧嘩で大声を張り上げると犬が吠える事もできない、という解釈もあったりします」
「っと、そういえばだけど、この歌舞伎は和歌山の民話から作られているんです。
杜人綿津見神の祭司となっている森戸家文書に雉鳴女の恋話があって、
そっちの記述を神様から人間の妥当な配役に直して広めたものだと言われています」
「文書の原文からすると脚色が激しいので残っている部分は
すれ違い、戸挟み対面、謝罪合戦くらいなものですけれどね」
「で、次は落語の杜辺長屋でしたっけ、あれは…………」
教授は今日も絶好調のようだ。
想像以上の長い説明に、寮の門限を気にしながら俺は教授の話に聞き入っていた。
まだまだ終わる気配はない。
※鳴女衆によって演劇演目に。
※落語の方は残念ながらありません。