杜人閑話……鳰の水中飛行『わたしのそら』
鳰は空を飛べない。
正確に言えば飛べなくもないが、無様にすぐ地へ落ちる。
数え切れないほど空へ挑み、同じ数の徒労に泣く。
彼女にとって空は絶対不可侵の存在だったのだ。
しかし、彼女は水に愛されていた。
空を舞う小鳥のように、湖は彼女にとって羽ばたける空だった。
どこまでも続く空への憧れは当然あったが、
それ以上に自分を支えてくれている湖を愛していた。
我の強さはそこから形成されていったのだろう。
鳰は自分の『居場所』に固執するようになる。
『この場所が無ければ私は飛べない』
強迫観念が彼女の過剰な攻撃性を育んだのか、
たとえ同族であろうとも、己の縄張りを侵す者に排他的であった。
元々仲間内では大柄な方であったから喧嘩は強かったのだ。
触れるモノをみな傷つけながら鳰は生きていた。
収まらぬ恐怖と癇癪。
ヒステリックを撒き散らす彼女を、飛べぬ、飛べぬと喧しく囃し立てる鴉や雁。
心の平静など、その時の鳰は一刻以上保てた日はなかっただろう。
ただ、彼女は飛ぶ事への憧れを捨てる事が出来なかっただけだ。
そうしてどうにもならぬ程に心が疲れた時は、水の中を無心で飛んだ。
その時だけは、苛々も収まり穏やかな気持ちになれたからだ。
五月蝿い鴉も雁も、湖中を飛ぶことはできない。
自分だけの空。
そんな彼女に転機が訪れる。
……神武東征。
ある程度の力を持っていたとしても所詮は矮小な鳥の化生に過ぎない。
鳰の空は、居場所は、圧倒的な武力で奪われた。
己の縄張りを焼き焦がす炎。
蒸発し水の引いた岸辺。
緑消え失せた茂み。
変わり果てた湖の姿に鳰は絶望に沈んだ
破壊の跡を亡羊と眺める彼女に鉄剣の切っ先が向けられる。
その事自体、鳰にとってどうでも良かった。
二度と飛べない悲しさが頬を伝って溢れ出す。
もう飛ぶことはできない。
飛べない私は、鳥ではなくなったのだ、と。
しかし、振り下ろされた剣は彼女を庇った一羽の雉に受け止められていた。
「雉鳴女よ、何故に庇ったのだ」
「何卒ご容赦頂きたく存じます。
彼女の翼は我々に必要な物であると」
「飛べぬ翼が必要と申すのか」
「その翼は、我々が未だ持ち得ぬ翼です」
「……今回はその傷と、鳴女の名に免じよう。
そやつを連れ、早う治療へ向かうが良い」
「温情、誠に有り難く」
鳰はこうして鳴女一族へ編入された。
雉鳴女が庇ったのは、遥か昔の自分と重なったからかもしれない。
自分を支える世界が壊れてしまう恐怖を雉鳴女は良く知っていたから。
引き取られて以来、鳰は憎む事で生きていた。
『居場所』を奪った大和を、
自分を中途半端に生かした雉鳴女を。
飛べない私を屈辱のまま生かしている事をいつか後悔させてやる。
その思いだけで、鳴女として生きていくようにと与えられる高度な教育も、
いずれ復讐に使ってやろうと砂地が水を吸い込むように身に付けた。
人型の時に必要な各種所作や着付け、人間の常識も全て。
そうして行く中で、徐々に鳰の世界は広くなる。
まず、友人が出来た。
歌だけはどうしても身に付かず、同じく苦手だった鵥と共に
黄鶲の和歌講習の補習授業を何度も受けた。
温い温い日常は、ゆっくりと縁を築いていく。
そして知った。
誰もが己の『居場所』を失くして此処に居る事を。
此処を新たな『居場所』として頼りにしている事を。
自分だけが悲しみを負っていたわけではなかった。
生まれる苦悩。
あの日、飛べない私の翼を『必要』と言った意味は。
私の復讐は友人の『居場所』を奪う事になるのか。
……空さえ飛べれば、この気持ちは溶けていくだろうに。
そうして日々が流れていく。
いよいよ鳰は鳴女の名を頂くに至る。
雉鳴女が告げた初仕事の場所は、
鳰の湖よりも広い、どこまでも、どこまでも続く大海原だった。
それからの鳰鳴女について深く語る事は無粋だろう。
彼女は鳴女という『居場所』を手に入れた。
そして、鳴女を維持してきた雉鳴女。
更には散り散りに消えてしまいそうな鳴女を受け入れた杜人綿津見神に敬意を抱いている。
鳴女の中で、彼女ほど泳ぎの上手い者はいない。
鳰鳴女は池を、川を、沼を、湖を、海を深く愛した。
水を司る神霊に迫るような働きを見せる彼女は、間違いなく水に愛されていた。
彼女以外に、怨霊と渦潮の荒れ狂う海中を飛びきる事はできなかっただろう。
『あたしゃ志賀、楽浪の出だからよ。
大昔に縄張りを好き勝手荒らしてくれた大和にゃ恨みがある。
神器だか何だか知らないが、このちんけな剣がどうなろうと構わんさね。
けど、それ以上に雉の姐御に恩があるからよ。
そいで、杜人の旦那にも、返さなきゃなるめぇ。
嫁入り道具にしちゃあ、物騒だが、姐御の……為なら命張れるぜ。
こいつを……手土産に祝言…あげち……まいなって、伝えて、くんな。
後、ありがとよ、って。
泣くなよ、鵥、……あたしゃ飛べたんだ。
鳴女んなって、よ……こんなとこまで、とべたんだ。
あねご…も……、また、そら、とべるはずさ。
……あぁ、さいごに、おめぇの下手くそな、うた、ききてぇ、な』
※誰しも自分の空を飛ぶ事は、とても難しい。
※実際の鳰はだいたい空を飛ぶのが苦手。泳ぎは上手い。
幾つかの種類でまったく空を飛べないやつもいます。
※今回は、飛べない鳥が、飛んだお話。