ありかた……必要と不必要の境界
神と人と、どうあるべきなのか。
最近は殆ど全てを人に任せる事が出来ているため、
恒例の神遊びを除くと、突発的な自然災害や大規模霊瘴以外は動く事もなく、
それさえも鳴女仕込みの神主や巫女が優秀すぎてやることが少なくて暇を持て余す。
なので、専らそればかりを考えている。
奇跡を願う人間は昔より幾分少なくなった。
私達神霊が飢饉や流行病を防いでいる事も、
彼等には時に忘れてしまうほど当たり前な事となっている。
別にそれを怨んで何かをやろうと考えているわけではない。
少し寂しいとは思うが、これからも影から守り続けていくと思う。
しかし、守るのはあくまでも人では抗えぬ事象に対してに抑えるべきか。
ここに至っては既に人の時代。
あれこれと手を出すのは些か無粋であると思うようになってきた。
失敗も多かったが、農具から始まって網や舟などの漁業技術の開発など
実に沢山の物を与えられるだけ私は与え、施してきたのだ。
おかげで人は増え、知は成長し、新たな物を生み出し己を支えるまで来ている。
私の原初は何だったか?
『みんなを助けてあげたい』と願って私は運良く力ある霊魂と成り果てた。
私はその通りに行動してきたし、期待を裏切らぬよう頑張った。
けれども、その与え続ける行為はどうなっていくだろう。
助けるとはどこまでを指すのだ?
一から十まで全ての面倒を見るなど到底できやしないし、
何よりもそれは押し付けただけの迷惑だ。
生を歩く足とその気概がある者を背に負ぶってやるのは助けではない。
必要の無さから足は歩く力を失い、気概も燻りやがて消えるだろう。
これは『人を殺す』のと変わらない。
生きていない。
そう、死んでいないだけの人間を生み出すだけ。
成長の無い停滞。
近頃、山向こうに任ぜられた領主が戦える者を集めて武士団と呼べるものを作っている。
ある程度の武力があるのは治安維持に不可欠なため構わないが、
人数を揃え、一地方都市を支えるには過剰とも言える兵力に私は危惧を抱いた。
中央で王の派閥が割れ、戦の気配が近いからだと言うがその矛は無辜の民にまで向くまいか?
けれども、人同士での争いは人同士で解決されていくべき事柄。
何処から何処までを守ると線引きしていくのか。
民を助けるとは……。
神々への信仰低下なんて事態が起こらなければこんな事を考えたりしなかった。
考えれば考える程に、私は『私の存在理由』を削っていっている気がする。
私は信仰を失ったわけではない。
むしろ他の地方神に比べて優遇されている方だろう。
それなのに、このまま自分が消えてしまう姿を容易に想像できる。
そう在れと望まれ、誰かに認められる事で想念は形を為し妖は生まれた。
……同じだ。
『必要』の存在が私を産み、そして留めている。
結局はそれが理由で、それが全て。
……やめよう。
哲学者でも気取ったつもりか。
振り返ると思考の二転三転ぶりが我が事ながら恥ずかしい。
そんなに難しい事じゃあない。
私が消えるのは私の助けが要らなくなった時。
つまり私は本懐を遂げるわけだ。
未練も何も無い。
死後(?)の世界がどうなっているか知らないが。
仏教風に言えば成仏する。
それは素晴らしい事に違いない。
そうなるように人が人だけで歩めるような手助けに留める。
あとは徐々に手を離していく。それだけ。
杜人綿津見神のスタンスはそうあるべきだ。
まったく、暇というやつは心を乱すばかり。
社に篭っていると死んでしまいそうだ。
なぁ、山犬。
散歩に行こうか。
※死亡フラグを建ててみた主人公。




