タイトル未定2026/03/02 18:09
福島原発事故の元凶を遡っていくと、様々な原因が多岐にわたって見つかると思う。
日本に原子力発電所が立つきっかけは、1970年代の中東戦争に端を発するオイルショックにある。
高騰する原油は世界経済を落ち込ませた。
日本のエネルギー環境では電力もまともに使えない。
資源高による不景気が日本を襲う。
田中角栄内閣で日本の原発導入への舵取りは始まった。
一方で原子力は危険だとの意見もあった。
被爆国である日本の市民による原発への感情は舵取りの難しい問題でもあった。
ここで原発政策は、民間企業と行政へと別れた。
民間企業に任せれば、国家は説明責任を逃れられる上に、原発の利益を一部の特権階級で独占出来るからだ。
そして、原発のリスク部分は行政が監査監督し、請け負う事になった。
この当時、米国から導入した原子炉は欠陥品で、欠陥品である原子炉が使用された福島原発事故の原因になったという人も居る。
米国で使用禁止になったという曰く付きの原子炉だった。
一方、日本では引き続きその原子炉は使われた。
1999年を見てみよう。
この年は異様だ、世界的に見ても稀有な二つの臨界事故が日本国内であり、後の福島原発事故の大きな要因となった志賀原発2号機への訴訟があったからだ。
福島原発事故に対して、事故の大きな要因となった志賀原発2号機の訴訟の知名度はあまりに低いのではないだろうか。
6月には志賀原発1号機で臨界事故があったが、北陸電力は臨界事故を国にひた隠しにし、志賀原発の臨界事故の公開は2007年を待つ事になる。
あるいは、この志賀原発での臨界事故が公表され、臨界事故の危険性が周知れば、この年に更に起こる臨界事故は防げたのかもしれない。
志賀原発の臨界事故から3カ月後の9月、東海村JCO臨界事故が発生し、作業員2人の命が失われた。
83日間にわたる延命措置の過程で、被害者の身体はまるで溶けていくように変質していく。
作業員が命を失う過程の衝撃的な写真は、この時期ようやく広まり始めたインターネットを通して拡散し、多くの日本人が放射能の危険性を再認識する事となった。
放射能は危険だというイメージ。
写真の持つインパクトがいつの時代でも大きいように、東海村JCO臨界事故でも、写真の持つインパクトは殊更大きかった。
世界的に見ても珍しい、国内で見ても3例しかない臨界事故は1978年から21年ぶりの国内2度目と3度目の例となった。
1999年に集中したこの稀有な事故は、いったい何の因果で起きたものだったのだろうか。
しかし、後の福島原発事故に直接繋がる事故は臨界事故ではない。
福島原発事故に繋がる原発訴訟が提訴されたのは、この年の8月である。
耐震性への疑問から住民に訴訟されたのは、皮肉にもこの年、臨界事故を起こし、そして臨界事故を隠すのに成功した志賀原発であった。
この時期における、福島原発事故へと繋がる大きな問題は、原子力ムラと呼ばれる利権団体が、何故、志賀原発の臨界事故を含めて、様々なトラブルを隠す事に成功してしまったのかという点にあるだろう。
国家の安全保障を担うエネルギー問題に際して、経済産業省の上層部と直接的な原子力の管轄を担う原子力保安院、及び電力各社は、強力な権限を今尚、有している。
それが原子力に関する事実上の情報統制の権限だ。
エネルギー問題を理解出来ない国民に原発問題は触らせない。
官僚を通して、表沙汰にならない事故の情報に関しては取捨選択出来る。
この体質こそが、やがて福島原発事故へと繋がっていくのだ。
一方で、東海村JCO臨界事故が隠匿出来なかった理由は明確だ。
臨界事故は長時間続き、決死隊をもって収束にあたった東海村JCO臨界事故は、施設に関係のない多くの非関係者を被曝させ、避難を余儀なくした。
表沙汰になったからこそ、東海村JCO臨界事故は大衆の知ることになったのだ。
東海村JCO臨界事故の影に隠れた情報隠匿の数々の成功は、原子力ムラの精神構造を作り変えていくことになる。
2002年の東京電力トラブル隠しでは、辞任する事になった東京電力の社長が、小さな亀裂や小さな失敗、その補修を国家に報告しなければならないのは、実情に合わないと漏らしている。
年は過ぎて2004年、インドネシアのスマトラ島沖で、あの東日本大震災をも上回る超巨大地震が起きた。
2004年の末、クリスマスの翌日に起きたスマトラ島沖地震である。
東日本大震災よりふたまわり程大きいスマトラ島沖地震によって起きた超巨大津波は、クリスマスバカンスに訪れていた観光客を含めて、22万人もの命を呑み込み、遠く離れたインドのマドラス原子力発電所へと迫った。
10mを越える津波は、マドラス原子力発電所の敷地高に、残り約60cmまで迫った。
高さにして約箸3本分の奇跡である。
非常ポンプは土砂に埋まり、冷却能力を一時失うも、マドラス原子力発電所は幸いにして生き残った。
スマトラ島沖地震から翌年、2005年に原子力国際機構IAEAが世界中で原発津波リスクを共有し、原発の津波対策は進む事になる。
国際的に津波対策が進む中、日本で津波対策が始まったのは福島原発事故の6年前である。
知らぬ知らぬは日本国民ばかりなりだ。
国内で津波対策の事前準備の済んだ翌2006年6月、日本の原発業界は、津波対策である耐震バックチェックを進める事になった。
因みにこの当時、バックチェック前の各社の勉強会にて、保安院と電力各社は、もし万が一、福島第一原子力発電所が津波にのまれた場合、ブラックアウトとメルトダウンは避けられないとの試算を共有している。
全てのきっかけは2006年の出来事にあるのかもしれない。
耐震バックチェックの始まる3カ月前、2006年3月にとある判決が出る。
先に書いた、1999年に訴訟の始まった志賀原発2号機の運転停止命令だった。
当時、未だに志賀原発の臨界事故は公表されていなかった中で、皮肉にもこの判決は出た。
原発運転許可の出た当時の科学的判断は、20年経った今の原発運転を正当化するものではない。
原告の主張する耐震性の問題に対して、反論出来なかったと言わざるを得ない。
極当たり前といえば当たり前の判決だが、原子力ムラに走った影響は大きかった。
──原発が危ないと思われたら裁判所に止められてしまう。まさに、これから津波対策を始めるというのに
既存の原発の耐震性が問題になる上に、津波対策まである。
2006年当時、地震対策と津波対策は原子力ムラの最重要課題であった。
本来なら、津波で危ないとなったら原発を止め、工事をした後に運転を再開する、それが、原発行政のあるべき筋だったのであろう。
検査に受かるまで原発を止める方式をバックフィット方式と呼ぶ。
リスクのある事を知りながら、原発を止めないで検査し、工事をするのが、日本の原子力保安院の選んだバックチェックという方式だった。
バックチェックには当然リスクはある。
万が一、原発の対応能力を上回る津波が来たら、事前の試算通りメルトダウンが避けられないからだ。
一方でリスクに反して、津波対策のために、原発を止めなくて良い経済的メリットもあった。
しかし、今考えると、バックチェックのメリットは本当にそれだけだったのであろうか、とも思うのだ。
原子力保安院は、喫緊となった津波対策に際して、耐震バックチェックを、法定外の電力各社が自主的にやる検査と位置づけた。
何故、喫緊となった津波対策は、法定外の自主検査になったのか。
それは、国の行政である保安院含む原子力ムラ全体の意思で、津波対策そのものを国民に知らせたくなかったからだと思うのだ。
立法したならば、国会を通して津波リスクと津波対策が国民に知られてしまう。
また、仮にバックフィット方式で原発を止めたならば、近隣住民にはこう聞かれるだろう。
何故、今、原発を止めているのかと。
バックフィット方式では、近隣住民に津波リスクを知られてしまう。
しかし、国際的に津波対策が進む中、日本は対外的にも津波対策をやらない訳にもいかなかった。
私は考える。
秘密裏に津波対策を終わらせるために、日本の津波対策はバックチェック方式へと至ったのだと。
残念ながら原子力ムラの情報統制の成功体験は、福島原発をメルトダウンへと真っ直ぐ導いていく。
原発を動かしながらチェックするバックチェック方式に、津波リスクを危惧した原子力安全委員会は、バックチェックの期間を明確に3年と決めた。
当時、原子力安全委員会は、原子力保安院を監査監督する独立した組織であった、ハズだった。
3年。
長いか短いか、原子力安全委員会からすれば、常識的に考え、ここまで長い期間取れば、津波対策は終了する予定だったのだ。
ただでさえ、尋常ではないリスクを日本国民全員が3年も負うのだ。
特に、何かあった時、間違いなく死の灰の降り注ぐ事になる、原発近くの地元住民のリスクは甚大だった。
国民に隠した検査と工事とはいえ、何時までもリスクを許容し、長引かせる事は出来ない。
もし工事が3年を越えるなら、原発をいったん止めるべきだ。
無理やりな工事で、下駄を履かせるだけでもいいとの妥協案もあった。
原子力安全委員会は、耐震バックチェックのスタートする3年後、2009年6月を目処に、チェックに通らない原発の停止を求めた。
原子力保安院は、電力各社に3年という期限を厳命した。
私は思う。
危険な事を、さも危険ではないかのように隠し、危険を冒して、危険でないようにする。
今思えば、日本の進める耐震バックチェックは、始まる前から歪な形だったのかもしれないと。
毎年、6月末は半年の厄落としの神事、夏越の祓が行われる。
半年間の溜まった罪や穢れを落とし、残りの半年の無病息災を願う神事だ。
3年にも及ぶバックチェック完了予定の2009年6月30日。
東日本大震災の約2年前、その日、福島第一原子力発電所は止まるハズだったのだ。
現代から振り返ってみよう。
実際の所、東京電力が耐震バックチェックを真面目に熟すつもりがあったかには疑問が残る。
耐震バックチェックの始まった翌2007年7月16日、中越沖地震で柏崎刈羽原子力発電所が被災し、長期間に渡り運転停止を余儀なくされると、東京電力の懐事情は逼迫した。
他の原発を止める事は容易では無くなり、費用の面から、新たに工事を発注する事も容易では無くなった。
それもあってか、進められているハズの東京電力の津波対策は、他社に対して遅れに遅れ、全く進まなかった。
2008年の2月、ようやくバックチェックに向けて、東電の幹部会議にて、津波対策が必要であるとの資料が出る。
バックチェックスタートから既に1年8ヶ月が経っていた。
地震調査研究推進本部による津波予測の資料では津波高は7.7m以上。
この時、福島第一原発の津波対策は確定した。
そもそも福島第一原発は5.6mを越える津波に耐えられない試算だったからだ。
そして更に、この幹部会議から一ヶ月後、東電内で津波の試算が出る。
最大値は15.7m。
後年起こる東日本大震災での福島第一原発の浸水高は最大で15.5mだった。
他の世界線の日本では、箸一本分の奇跡が起きていたのかもしれない。
遅まきながらバックチェックに向けて、東京電力がいざ津波を試算してみた所、福島第一原子力発電所の致命的な立地リスクが浮上したのだ。
福島第一原子力発電所の敷地高の低さである。
耐震バックチェックの審査を通るには、敷地高の低さをカバーする巨大な防潮堤が必要だとわかった。
防潮堤の建設に必要な年月は4年。
バックチェックの期限内には、もう間に合いようが無かった。




