45.戦の王
「離れろルカーシュ!!!」
赤狼が大きく声を上げ、ドン!!と勢い良く突き飛ばされたルカーシュが地面に腰をつく。
ギャァアアアアッ!!!!
あたりに響き渡る、耳をつんざくような不協和音。
あまりに不快な鳴き声に騎士達は耐えきれず、耳を覆って背を丸める。
現れたのは、空を覆うような巨大な翼。
それはたった一度のはためきで豪風を巻き起こし、赤狼を木の幹へと殴りつけた。
「...ッ!!」
強かに固い木へ背中を打ちつけられた赤狼は、受け身も取れぬまま息を詰まらせる。
グリフィンだ。
鳥の王である鷲の頭と羽根、獣の王である獅子の身体を持つとされる凶暴な魔物。
人と馬の肉を好んで喰らうそれは見上げるような巨体で、竜にも劣らぬ力を振るう。
平原の攻略が進み、深度を上げたのだ。
それだけ強敵が現れる可能性はあった。
だが、まさか。付近の魔力澱みは消滅したのに。
魔物は通常、己の生まれた魔力澱みから離れて行動はしない。
いや、しかし例外はある。
それはより濃く大きな澱みから生まれた、強大な魔力を溜め込んだ個体。
その個体は自らの縄張りを離れて突如現れる。
神話の怪物の名を与えられた、主だ。
項垂れた彼女の頭上から迫り来るのは鋭い鉤爪。
いけない——、と手を伸ばしたその瞬間。
「ステラ!!!」
血相を変えたセリウスが滑り込む。
振り下ろされた鉤爪は火花を散らす大剣によって鈍い金属音とともに受け止められた。
だが同時に数多の羽根の刃が彼へと降り注ぐ。
鋼のようなそれらはセリウスの肩鎧を弾き壊し、一つが深く肉を貫く。
「ぐっ...!」
鋭い痛みに彼が奥歯を噛みしめる。
「セリウス!!」
「卿!!今お助けを!!」
イズラールが声を上げて槍で応戦し、騎士達が剣を振り上げる。
だが精鋭である彼らの力で持ってさえも、グリフィンは体制ひとつ崩れない。
「げほっ、...かは...っ」
木を背にしてくずおれた赤狼が鎧の中で苦しげに咳き込み、面頬から血が滴る。
セリウスはイズラール達にグリフィンが気を取られる間に左肩を貫いていた羽根を引き抜く。噴き出す鮮血も構わず彼はそれを投げ捨てると、赤狼の兜をすばやく取り去った。
兜の下から現れたのは、真紅の髪にエメラルドの瞳を持つ辺境伯夫人。
セリウスは彼女をぐいと担ぎ上げると、木の影へ押し飛ばされたルカーシュの膝へと駆け寄って下ろす。
「血で気道が塞がらぬよう支えてくれ。俺はあやつを倒す」
セリウスはそれだけ告げると背を向ける。
返す言葉など浮かぶ余裕はなかった。
なぜカーラであるはずの彼女が辺境伯夫人の顔で、どうしてセリウスは彼女に妻の名を。
そんな事を考えていられる場面ではない事など分かりきっている。
だが膝の上で苦しげに息をする“彼女”は確かに自分を咄嗟に庇い、命を救われた自分はここでただ戦を見つめるだけ。
最大の戦力であるセリウスは利き手の肩を負傷し、剣の取り回しが困難なのか動きが鈍い。イズラールは槍で受け止める前足の重みに押され、囲む騎士達は巨大な翼で薙ぎ倒されて膝をつく。
「くそ、起こせ...、鎧が無けりゃ、まだ動ける...」
膝の上で蒼白になっていく彼女が、身体を起こそうとこちらの腕を強く握る。
「む、無茶です!!おそらく内臓を損傷しているはずですから、今動いては...!!」
「うるせえ黙って...!!ぐっ!ごほっ、かひゅっ!」
怒鳴りながらこちらにしがみついたステラが迫り上がる血で咽せ込んだ。
こちらの胸が彼女の吐いた血で赤く染まり、ひゅー、ひゅー、となおも布を握りしめたまま息をする。
このままでは、だめだ。彼女の命が危ない。
「誰か、セリウス...!!」
ルカーシュは彼女の肩を支えて、前方の戦場へと視線を向けた。
負傷した肩で重い剣を振るうセリウスは見るからに疲弊し、イズラールは攻撃を捌くので精一杯だ。
騎士達は何度倒れても立ち向かうが、それも限界が近い。
彼らがこれほど力を尽くしているというのに、自分の身体は震えたまま。
腕の中の彼女でさえも自分の命を顧みずに、まだ剣を握ろうとしているというのに。
自分は何もできないのか。
無様に腰を抜かしたまま、離れた場所で傍観して。
また自分は“ただ見ているだけ”で、何の役にも立てないのか———!!!
ざり、と地面に爪を立てて、前足を上げた憎いグリフィンを見つめる。
獅子の手を模した前足。まるで体に似合わぬ大きすぎる翼。叫びを上げる大鷲の頭。
魔力澱みがあった林、西日が届かない木々の影、今朝方小雨が降っていた、まだ生え揃わぬ草原...!
はっ、と息を吸う。
これだ、今できる事はこれしかない!!
「セリウス、イズラール!!足裏です!!」
突然声を張り上げたルカーシュに、二人は怪訝な視線を向ける。
「何!?忙しいんだぞこっちは!」
「ですから足裏です!!奴の手は猫科ですから、爪の下には柔らかい肉球がある!!」
「!!」
イズラールに怒鳴り返したルカーシュの言葉に、彼らは目を見開く。ルカーシュは間隔を空けずにまた叫んだ。
「騎士達は横からの攻撃を止めて一度距離を取って!側面は硬い羽根で防がれるだけです!!」
「鳥は視野があまりに広い!真後ろでなければ見えています!!いいですか!?完全な背後から注意を引いて下さい!両方向から意識を分散させるのです!」
「りょ、了解!!」
騎士達は急な指示に驚くものの、彼の指摘は言えている。セリウスとイズラールも視線を交わして頷いた。
「翼は大きな風を起こせますが、獅子の身体には大きすぎて同時に前足が浮いてしまう!高く翼を上げた瞬間に胸の下へ潜り込み、風をいなして!」
「承知した!」
「そこで肉球を突いてやるわけだな!」
もはやルカーシュの観察眼を疑う余地はない。
騎士達は背後から回り込み、セリウスとイズラールもそれぞれに武器を構えて前方から機を狙う。
「かかれッ!奴の尾を狙え!!」
「届かずとも構わん!後ろ脚だ!!」
「来い!こっちだ怪物め!!」
完全な背後より回り込まれたグリフィンが、鷲の頭を慌てて回転させる。
「敵から目を離すとは間抜け者め、さあこちらだ!」
「かかってこいこの鳥頭!!」
セリウスとイズラールがすかさず挑発し、グリフィンは怒りに似た声を上げて翼を振り上げた。
「今です!!」
ルカーシュの合図で身を低くした二人が胸の下へ滑り込み、爆風とともに上がった前足が下りる瞬間に斬りかかる。
ギャァアアッ!!!
柔らかな露出した肉は鋭い刃を受けて切り裂かれ、グリフィンは耐えきれず下ろしかけた前足をまた大きく上げた。
「前方二時方向!林の影はまだぬかるんでいるはずです!騎士達はそのまま背後から追い立てて!!」
「聞いたか、二時だ!」
「応!!」
「行け行け行け!!」
ルカーシュの叫びに、騎士達は即座に呼応する。
傷を受けたところに後ろからまた攻撃を受けたグリフィンは、たまらず前に向かって駆け出した。
だがそこは木々の影が暗く落ちて乾かぬまま、泥と雨水を溜め込んだぬかるみ。
グリフィンは勢いのついた片足をつけた途端、ずるりと大きく身体を滑らせて体制を崩した。
「押さえつけて!!獅子の部分は攻撃を通す!羽根を避ければ首を落とせるはずです!!」
最後の合図で全員が斬りかかり、グリフィンは泥に倒れたままのたうち回る。
「押さえろ!!」
「地面に刺し止めるんだ!!」
騎士達とイズラールが暴れる四肢を地面ごと貫き、グリフィンは叫びながら動きを封じられる。
だが奴の力は強い。それでも抗う怪物の筋肉の強靭さに、皆が呻き声を噛み締めながらなんとか地面へ差し止める。
「ご苦労、いい仕事だ」
セリウスは瞬時に狙いを定める。
そして的確に剣を振り下ろし、硬い羽根を持つ巨大な頭と、獅子の身体を一太刀で切り離した。
大木の丸太のような首は見事に切り落とされ、その途端に獅子の身体は動きを止める。
完全に止まった事を確認し、騎士達は込めていた力をようやく抜いた。
一斉にふう...、と吐かれる安堵の息。
そして次の瞬間、その場は大きな歓声に包まれた。
「やったぞ!!!」
「あのグリフィンを倒してやった!!」
「我々の勝利だ!!」
騎士達が剣を天へと掲げ、勝ち鬨を叫ぶ。
ルカーシュもほっ、と息をついて握っていた拳の力を緩める。すると腕の中に抱えていたステラが、濁った息の隙間から「よくやった」と彼に囁いた。
すぐさまはっと注意を向けて「奥方様!!」と疑いもなく叫ぶ騎士達。
だが即座に駆け寄って彼女を支えたのは夫であるセリウスだった。
「ステラ、無事か。まだ息はあるな」
深刻な短い問いかけに、ステラは「大事無い。少し肺をやった」と頷いてルカーシュを見上げる。
「...それより、こいつは...最高の働きをした。ルカーシュ、お前は“天性の指揮官”だ」
セリウスはほっと息を吐き、同じくルカーシュを真っ直ぐ見据えると、「ああ」と頷く。
「あの助言が無ければ迅速な討伐は無し得なかった。ルカーシュ。全員の命を救い、勝利へ導いたのはお前だ」
彼の金の瞳が向けるのは、もう呆れた視線などでは無い。
「ルカーシュ・ファルメス騎士伯令息殿。我がヴェルドマン領伯の名を以て、貴殿へ深く感謝を表す」
セリウスは腕の中の妻へ力を込めて、彼の前に深く頭を下げる。
少し震えた彼の言葉は、その場の誰にも偽りようのない領主としての正式な謝意の表明。
すると様子を伺っていたイズラールや騎士達も駆け寄って、同じくひざまずいて頭を下げた。
「お前のおかげで戦局が一気に好転した。あんなに的確な指示は他になかった。俺は無傷で妹のもとへ帰れる」
「我らが一人も四肢を落とさず、皆生き残ったのは貴方のおかげだ。騎士団一同より、ルカーシュ殿に厚い感謝と敬意を表します」
改まって全員に膝をつかれ、一斉に感謝を述べられたルカーシュはあまりのことに言葉を失う。
だが、セリウスの腕からなんとか頭をもたげた辺境伯夫人は、赤狼の声で彼に告げた。
「お前は剣を振るう騎士じゃない...。だが戦は剣を振るうのが全てではない。あらゆる状況を読み取り、最適な判断で...盤面を動かす...」
彼女の声は荒い息を纏いながらも、一つ一つが重く静かだ。
彼女は未だ血に濡れた口元を手の甲で拭うと、その手で彼の肩をぐっと引き寄せた。
奥底まで覗き込むようなエメラルドの目。
彼女は焔を宿した瞳でこちらを見据える。
「ルカーシュ。お前は軍師、戦の王」
「震える兎などではない。
————眠り続けていた獅子だ」
その言葉を受けた彼の瞳の中に、小さな火花が弾けて閃光を灯す。
そしてその火はルカーシュの胸の内で熱を増し、燻っていた誇りを大きく燃え上がらせた。




