41.開花
翌日、よく晴れた平原にて。
暖かな春の風に、雪はすっかり溶けきった。
黄色の花が点々と足元を彩り、可憐なクロッカスが萌出る若緑の隙間から次々に咲き始めている。
そしてその中で舞うように剣を振るっていた重装の騎士が、ガチャ、と音を鳴らして歩み寄った。
「ルカーシュ!なあ聞いたぞ。お前、詳細な測量がちょっと計算しただけでできるんだって?」
「あっ、せ、赤狼殿...!」
相変わらず魔物の返り血を纏った赤狼の見た目は荒々しく、態度も豪快。
しかしルカーシュにはそんな姿でさえ戦女神のように見えてしまう。
彼は勇ましい女の声にぽっと頬を赤くした。
「その、はい。そうです。大したものではないのですが...」
もじ、と俯いて耳を赤らめる彼は、手帳を胸の前で抱きしめる。
すると赤狼はいつも通り彼の肩をぽん!と叩いて「いや、すごいじゃないか!」と大きく肯定した。
「お前は自分を卑下しすぎだ。それは自慢できる能力だぞ!」
「あ、ありがとうございます...」
ルカーシュはあまりの嬉しさにさらに俯いて、自分の足先を見つめて言葉を返す。そして彼は目の前の赤狼を見れないまま、心の内で幸福感を噛み締める。
...どうしてこの人は、自分をこれほど褒めてくれるのだろう。
父に軟弱と呆れられ、聖騎士を辞めた途端に形式上の妻にもさっさと離縁状を叩きつけられ。
“絵なんてくだらないものをする暇があれば、剣でも磨け”と皆が口を揃えて言う。
なのにこの人は、己を追いかけて泥の中から絵を拾い上げた。
“すごいな!”
褒め言葉としては、実に単純。
姫君は自分にもっと多様な語彙をくれていたはず。
だがこの人の言葉は、あの打算的で表面的な姫君とはまったく違う。まるで心の内まで刺すように、等身大の“自分自身”をまっすぐ見つめてくれるのだ。
...好きだ。
飾らなくて、豪快で、美しい心を持つ彼女が。
きっとこれが、おそらく恋。
遅れてやってきた“初恋”というものなのかもしれない。
ルカーシュは肥大していく感情にいたたまれなくなって、気付けば喉から声が出なくなっていた。
「どうした?なんで俯いてんだ。おーい、なんとか言え」
彼女を前にしてすっかり黙り込んでしまったというのに、赤狼は無邪気に覗き込んでくる。
そんな彼女の仕草がいちいち胸を締め付ける。
ルカーシュは浮き立った感情で声がひっくり返りそうになるのをなんとか押さえた。
そして辺りを見回すと、今朝からずっと温め続けていた言葉を小さな声でおずおずと尋ねる。
「...あの、実は...奥方様に赤狼殿のお名前を教えて頂きまして...。その...もし許されるならば、カーラ嬢とお呼びしても...?」
赤狼は少し驚くと「なんだ急に改まって」となんでもないことのように笑って見せた。
ルカーシュは彼女の微笑みに少し安堵しつつも、続きの言葉を祈るように待つ。
こんな事を急に言って彼女に拒まれてしまったら。名前を勝手に聞き出し、さらには呼ばせてくれなどと、やはり不躾だっただろうか。
そして尋ねられた鎧の中のステラはというと、兜の内ですばやく考えを巡らせる。
最初は怯えていたくせに、こちらの名前にまで興味を持つとは。どうやらルカーシュはこの“赤狼”に懐き始めているようだ。
...ならば、あとひと押しといったところか。
「...二人の時だけな。あと嬢はやめろ」
“カーラ”は小声で囁き返す。
「...!!はい!もちろん!」
案の定、ルカーシュは嬉しそうに目を輝かせ、ステラは(よしよし)と彼の反応に内心で頷いた。
隠された名前の共有。
秘密を教えられた相手には、自然と心を開きたくなるのが人間だ。名前くらいでこのルカーシュが心を開けるなら安いもの。
さらに内面を知ることが出来れば、彼の活かしどころをまた見つけられるかもしれないのだから。
...なんて考えているステラであるが、目の前のルカーシュと、離れて二人に意識を向けるセリウスはまったくそれどころではない。
ルカーシュは想い人の名を呼べる事実ににやける口元を必死に隠しているし、かたやセリウスといえば(この大馬鹿嫁!!!)と内心で怒鳴りたいのを堪えて目を瞑り、わなわなと拳を震わせている。
だが筋金入りの朴念仁は二人の内心など気付かない。彼女としては、ルカーシュの新たな“測量”という才能に胸を躍らせ、早くその話に触れたいのである。
「で!話は戻るが。お前の測量技術は誇るべきだぞ!なんってったってお前は、この平原の詳細な地形の把握が簡単にできるって事なんだからな!」
赤狼は興奮気味にそう言いながら、ルカーシュの肩をぐっと掴んだ。
「いいか?魔物から土地を奪還する上で、地形を知るのは想像以上に重要だ。魔力澱みの正確な場所の把握や、場所ごとに湧く魔物の分類、地の利を使った効率的な殲滅法とかな」
ルカーシュは掴まれた肩にドキドキとしながらも、普段の彼女から発されると思えない知略的な言葉の並びにただ頷く。
「けど困ったことに、平原はだだっ広くて目印が少ないおかげか、屋敷に残されてる地図は正確さに欠けてるんだ。本来池がある場所が違ったり、谷の全長もおかしい。あまりに俺の記憶と合わない」
以前、書庫でセリウスによって手渡された“北方地方の歴史地理における推移記録書”。
それは古い時代から現在まで、この地の記録をきちんと付けられているものではあった。
しかし、どうやら現地を知る騎士たちによって何度も測量と加筆がされていったとされる平原の地図は大変見づらく、多くの手が加わる内に事実と齟齬が生まれているものだったのだ。
そこに高い測量技術と描写技術を持つルカーシュと来れば、この地図の改訂にあまりにも打って付け。
これは使える!と昨夜に閃いたのである。
セリウスにそれを自信満々に伝えたところ、「もう好きにやれ。だか後始末が強引でも文句を言うな」と謎の言葉を返されてしまったが。
赤狼はルカーシュの紅い瞳を見上げると、もう片方の肩にもぽん!と手を置く。
「...だから、ルカーシュ。この平原の正確な地図を書いてくれないか」
「それから、動物が描けるなら魔物の絵も描けるよな?お前は目がいい。この地に湧く魔物を、できる限り詳細にたくさん書いてくれ」
彼の描く動物はまるで、見たままのごとくよく出来ていた。つまりは彼の強みは観察眼と記憶力。
それがあれば魔物を描写することも容易いはず。
「頼む。これはお前にしか出来ないことだ」
狼面から期待の視線を向けられたルカーシュは、みるみるうちに真っ赤に染まる。
想い人からの予期せぬ頼みごと。しかも“お前にしか出来ない”なんて台詞に、初恋に浮かれる彼が舞い上がらない訳がない。
...応えたい。
もう無力な自分を見せたくない。
彼女に、カーラという女性に己の能力で認められたい。
そして、叶うなら...!
ルカーシュは流れる銀髪の内で、女神の眩しさにくらんだように紅い瞳を細める。
「...わかりました、私にお任せください!」
彼はいつになく自信に満ちた返事をすると、胸元の手帳をもう一度ぎゅっと抱きしめた。
春がやってきた辺境にいろんなものが開花。
気が気ではないセリウスと、やる気にみなぎるルカーシュ。そして軍事的な人心掌握しか頭にないステラの三つ巴になってきました。




