37.封じ込めた記憶
イリーゼが兵舎の外に出ると、走り込みを終えた騎士達が腰を下ろして休憩を取っていた。
体力の無いルカーシュはへばり切って地面に倒れ込み、見下ろすセリウスは呆れ果ててため息をつく。
そんな二人の側でイズラールもベンチへ腰掛け、首元に下げた手拭いで汗を拭いていた。
ちら、と兄とまた目が合う。
だがイリーゼはもう目を逸らす事はない。
「言う事は決まったんだろ。行っといで」
赤狼に小さく背中を押されて、イリーゼは兄の目の前までゆっくりと歩み寄った。
砂を踏む音にへたり込んでいたルカーシュが顔を上げ、セリウスが彼女を見やる。
イズラールは近づく妹にわずかに口を結んだ。
「兄さん、話があるの」
イズラールはまたか、とばかりに困ったような顔をする。
そして昨日と同じく優しげな笑みを浮かべると、イリーゼを諭すような視線で見上げた。
「...イリーゼ。悪いけど、俺の気持ちは変わらないんだ。お前の幸せの為に止まることはできない」
イリーゼはその視線を受けて、兄を痛ましく見つめた。
そして静かに口を開く。
「...兄さん。わたしはもう守られるだけじゃ耐えられない。だから決めたの。わたしはここで医者を目指すわ。兄さんを隣で支える為に」
「な、何を言ってるんだ、イリーゼ...」
イズラールが予想だにもしない内容に焦って目を見開き、驚いたセリウスも赤狼に向かってばっと視線を送る。だが赤狼は自慢げにビッと親指を立て、セリウスはますます訳がわからず眉を寄せた。
イズラールは妹の顔を見上げて汗を浮かべる。
「いや、だめだよ。それじゃ学園が続けられない」
「学園は辞めるわ。わたしは貴族に嫁ぎたいんじゃないもの。手に職を付けてここで助け合って生きたいの。兄妹二人で幸せになる為にね」
イリーゼがきっぱりとした口調で言い切ると、イズラールは「でも」と口走った。
「医者ったって、貴族相手の王都の医者じゃないんだぞ。ここで診るのは魔物相手に怪我を負った騎士兵士だ。目を瞑りたくなるような酷い傷や、人の死だって見なきゃならない」
それは戦を知らない妹には辛いはずなんだ。
きっと耐えられる訳がない。
「俺はそんな場所から遠ざけたくて、学園にやったんだ。過酷な道を歩ませる為じゃない!」
イリーゼは兄の言葉を真剣な顔で受け取る。
彼の言うことはもっともだ。
人の命を扱うのだから、軽い覚悟でやっていけるような仕事ではないだろう。
だがそれでも。彼女は瞳を逸らさずに頷き返した。
「わかってる。でもわたしの幸せはわたしが決めるわ。母さんはわたしだけじゃなくて、兄さんの幸せも祈って死んでいったから」
「は...?」
イズラールは予想外の言葉に、思わず思考が止まってしまう。そして訳がわからないと言った表情で最期の母の言葉を思い出し、なぞるように口に出した。
「いいか?母さんは“イリーゼを幸せに”って俺に託したんだ。俺じゃない。お前なんだよ」
しかしイリーゼは静かに首を振る。
そして困惑しきった彼に近づくと、自分と揃いの長い三つ編みを撫でた。
「おかしいと思ったの。どうしてそんなに兄さんは“わたしだけの幸せ”にこだわるんだろうって」
彼女は編み目を数えるようにゆっくりと指を滑らせ、自分の唇を強く噛んだ。
...どうして今まで気づいてあげられなかったんだろう。ずっとずっと、兄を見てきたはずなのに。
今頃になって、ようやくだなんて。
彼女は痛みを押し込めてふたたび口を開く。
「私はずっと兄さんに甘えてしまっていた。私のことを護る姿にも疑問を抱かなかった。...でも、今日一日でいろんな事を知って、やっとわかったの」
「人は極限下に立たされると...過剰に自罰的になったり、理由や使命を自分の命に見出そうとする」
ゼーマンの話を聞いて、彼の沈んだ瞳を見て気付かされた。生き残ってしまった罪、助けられなかった為に己に課した宿命を。
それは母を目の前で失い、妹だけを護ろうとする兄と鏡合わせのようであると。
人は見たくないものを忘れ、見たいものを見てしまう。それがたとえ己を苦しめるような、人生をかけた罰だとしても。
ゼーマンは強く復讐を思うあまり、娘の言葉に向き合えずにいた。
わたしは兄が初めて人を手にかけた瞬間が恐ろしくて、すっかり記憶に封じ込めていた。
そして兄さんは—————
イリーゼは自分と同じ色の、兄の瞳を見つめる。
「わたしが戦の記憶を失ってしまったように、兄さんも失っているのよ」
「...何を、意味がわからない、イリーゼ」
イズラールはその言葉に怯えた様に後ずさった。
しかしイリーゼは彼の肩に両手を置いて、兄をその場に引き留める。
そして言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「...兄さん。あなたは自分を許せず、存在しない使命を自分自身に思い込ませてる。だってあの時、母さんは間違いなくこう言ったもの...」
イリーゼはすうっと肺に息を吸い込む。
「イリーゼ、聞きたくない」
彼は心底恐怖した様な顔で震え、手をついたベンチにガリ、と爪を立てる。
だがイリーゼはその手をぎゅうと握って、祈るように彼に告げた。
「思い出して兄さん。母さんの最期の言葉は———」
“逃げてイズラール、どうかイリーゼと幸せに生きて”
「...ッ!!!!」
イズラールは大きく薄紫の瞳を見開いて、八年前のあの日を思い出す。
火の回った家の中。たった一歩が踏み出せなかった、その直後に梁の下敷きとなった母の姿を。
...俺のせいだ。俺なら妹を抱えて避けられた。
なのに、体が固まって動けなかった。
母さんは笑っていた。
立ち竦む俺の姿を見て、ほっとしたように微笑んだ。
そして胸の下から小さなイリーゼを押し出したんだ。
“おかあさん!!”
イリーゼが大きく泣き叫んだ。
つんざく様な響きがとても耐えられなかった。
俺を責めてる。妹から“おかあさん”を奪った俺を。
俺はもう助からない母さんの開かれた口から、紡がれる言葉を聞くのが怖かった。
助けて。
母さんを助けて。
誰か俺の代わりに、母さんを。
天井まで舐める様に燃え盛る炎、家中に立ち昇り目に染みる黒い煙。
燃え落ちた梁の下で手を伸ばす母さんが、まるで時間が遅くなったみたいに目に焼きついた。
“逃げてイズラール、どうかイリーゼと幸せに生きて”
最期に叫んだ母さんが、崩れる屋根で見えなくなる。
いやだ、いやだ母さん。
いなくならないで、俺の幸せなんか願わないで。
大好きな母さんを犠牲にした俺に、目の前の妹すら守れなかった俺に、そんな資格なんか無いんだから——————......!!!
「————は、...はっ、...はっ......」
気がつけばイズラールは息を切らし、まるで頭から水でも浴びたようにびっしょりと汗を纏っていた。
「...大丈夫、大丈夫よ。兄さんは悪くない...」
張り付いたシャツの上から、がたがたと震える体をイリーゼが抱きしめている。
イズラールは記憶の中の小さな妹が、まだ泣き叫んでいた四つの妹が急に大きくなったと感じた。
まだまだ小さくて、俺が守るべき妹のはずなのに。
けれど彼女の声は、まるで小さな子を抱きしめる母のようで。
「母さんはあなたを愛してた...。わたしと兄さん、どちらも比べられないくらい大切だったの。だから誰よりも早く飛び込んだ。...私たちを二人とも生かす為に」
震える兄を抱きしめたまま、彼女は語りかける。
彼の心に深く刺さった自罰の棘を、ひとつずつ抜いていくように。
「母さんを...兄さんは“救えなかった”んじゃない。兄さんが生きて、幸せになる為に“助けられた”の」
イリーゼは兄の心を繋ぎ止める為に、ぎゅう、と回した腕に力を込めた。
その力はイズラールの想像よりもずっと力強く、息苦しささえも感じさせるほどだった。
「ねえ兄さん、わたしはもう四つの子供じゃないわ。兄さんと並んでちゃんと立てるの。隣で同じ道を歩いて、いつか兄さんが転んでもわたしが助け起こしてあげられる...」
イリーゼは優しく微笑んで、汗に濡れたイズラールの背中を撫でる。
自分を守る為に鍛え上げた身体。
こんなに大きいのに、捨てられた犬のように震える背中を。
「もういいの、兄さん。お願い...、どうか自分を許してあげて...」
彼女の声は波打って、瞳からいくつも雫が溢れた。
イリーゼは兄の心の奥底にいる、まだ戦火の中で止まったままの少年に囁きかける。
「兄さん、私は...兄妹二人で、笑って生きたい...」
イズラールはその言葉を受け取ると、自分を抱きしめて泣く妹の背に触れる。
そして震える指先を伸ばし、彼女の体を抱きしめ返した。
嗚咽でうまく喋れない口をなんとか動かして、喉の奥からようやく言葉を絞り出す。
「イリーゼ...、お前はこんなに、大きくなってたんだなあ...」
彼は泣きながら微笑んでいた。
イリーゼもその言葉に、涙ながらに笑って頷く。
「そうよ、そうよ兄さん...。ずっと守ってくれた、あなたのおかげでね...」
二人は固く抱き合って、滲んで見えなくなった視界の中で笑い合う。
小さな村で産まれた、たった二人。
八年間、ずっと互いを思い合っていたはずなのに、相手から目を逸らして生きてきた。
兄と妹の隔たりが、互いの体温に溶けていく。
故郷を失った女から少女へと宿った焔は、過去で立ち止まっていた兄を歩ませる。
自らの手で誇れる生き方を選び、望むことのできなかった幸せに手を伸ばしてもいいのだと。
辺境の雪解けに白く小さな花が芽吹く。
灰色の凍える冬は終わりを告げた。
暖かな風は草原へ、色付く春を連れてくるだろう。




